ときの忘れもの ギャラリー 版画
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日和崎尊夫 Takao HIWASAKI
◆1941年高知市生まれ。武蔵野美術学校卒業。日本美術家連盟の版画工房で畦地梅太郎の講習と、加藤清美の腐食銅版画の講習を受講。64年帰郷し、廃れていた木口木版画技法を独学で身につけ、[海渕の薔薇][KALPA]など完成度の高い作品を発表。66年日本版画協会新人賞、67年日本版画協会賞を受賞。77年木口木版画家の会[鑿の会]結成に参加。91年山口源大賞を受賞するが、翌年食道癌のため永逝(50歳)。
◆「時の流れは早く、ビュランの彫りはかぼそい。だが、たとえこの星が微細なまばたきであれ、けっしてその光を消してはならないー。1978年3月 日和崎尊夫」
長谷川潔、駒井哲郎とともに[版]でしか表現できない独自の世界を築き、数々の酒にまつわる武勇伝に彩られた天才画家は50歳で逝き、あとには500点余りの木口木版画が残されました。闇を刻む詩人の精緻な作品には本物だけが持つ品格が備わっています。

作者公式サイト

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「KALPA 74」
 1974 woodcut-engraving
 Image Size 25.5x20.0cm
 Ed.50 Signed

価格367,500円(額付、税込)

代表作KALPAシリーズの傑作です。
木口木版画を現代に蘇らせた日和崎尊夫が50歳の短い生涯を終えてから、はや15年が経ちます。
酒を愛し、詩を愛し、人を愛し、破天荒な人生を送った作家本人を直接は知らない若い世代のコレクターたちが出てきたことは同時代を過ごしたものとしては嬉しいことです。
集中力と根気、そして抜群の技量を要求されるこの技法では大きな作品は難しいのですが、これは日和崎作品としても大作の部類に入ります。

『海渕の薔薇』

『五億の星の詩』

「KALPA-69-A」 
税込367,500円
1969年 木口木版 
18.7×24.8cm 限定50部 
サイン有り 額付

「海球」
税込73,500円
1980年 木口木版 
14.5×10.0cm 限定500部
サイン有り 額付

「塔」 
税込73,500円
1980年 木口木版
14.4×10.0cm 限定500部
サイン有り 額付


『殖』

「KALPA 夜」


『KALPA-O』(花)

『寓話』

『説話』

『像』

『瞳』

『酔いどれ船』

『鳥と・・・』

『鳥』


「たがねの花」

版画掌誌 第05号に挿入

「殖」

版画掌誌 第05号に挿入


オリジナル版画入り
『日和崎尊夫句集』


版画掌誌 第05号C版
パンフレット

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版画掌誌
版画掌誌 第05号
展覧会
2007年
第140回) 和を楽しむ小品軸装展 2月2日〜2月10日
2006年
第132回) 闇を刻む詩人・日和崎尊夫展 7月21日〜8月5日
2005年
第124回)  日和崎尊夫展 11月11日〜11月26日
1998年
第44回) 和空間の現代美術?(屏風と掛軸)/駒井哲郎、初山滋、草間彌生、水船六州、内間安王星、難波田龍起、靉嘔、恩地孝四郎、萩原英雄、山口源、長谷川潔、谷中安規、山中現、大沢昌助、黒崎彰、日和崎尊夫、前田常作、北川民次、J・ジョ−ンズ、R・リキテンシュタイン、A・ウォ−ホル、他 6月 5日〜6月20日 
1995年
第3回) 木版画セレクション1/M.ドニ、ラブル−ル、小野忠重、吉田政次、内間安王星、磯崎新、日和崎尊夫、他 9月8日〜9月17日

画廊主のエッセイ
ジョナス・メカスと日和崎尊夫

「深き淵より−日和崎尊夫展」 原茂(はらしげる)〜<コレクターたちの展評>第二回

 ドアを開けると出迎えてくれたのが「Mの肖像」。
ブログ「画廊亭主の徒然なる日々」(7月21日)で紹介された、金子光晴『日本人の悲劇』の表紙を飾った一点である。「いらっしゃい」と作家に(そしてギャラリーに)挨拶されたような気になる。もっとも、その表情がなんとなく、「にこり」ではなく「にやり」であるように見えるのは気のせいか。「そうですか、来ましたか、足元は暗いですよ、奥は深いですよ、先は長いですよ、それでもよろしければ、どうぞ・・・」とのささやきはきっと幻聴に違いない。
そしてその隣が「しゃれこうべ」(正しくは「KALPA−羊歯」です)であるのに気がついて、おいおい、シャレになってないぞとツッコミを入れかけ、その次が「塔」ということではたと膝を打つ。そうだ、そうなのだ、これが日和崎尊夫なのだ、そして、ひとがいきるということ、死ぬということ、そしてなにものかをかを生み出すということはきっとこれ以外にはないのだ、と激しく一人合点をする。
この三点で早くもお腹一杯胸一杯。交通費のモトはとったと大満足である。
 次のセクションは「鋼鉄の花」「殖」「花と…(無題)」「暗示」の小品4点が田形に並ぶ。
小さいのに、それでいてずっしりと持ち重りのしそうなのに驚く。密度が濃いというのか比重が大きいというのか、水に浮かべたらあっという間に沈んでしまうんじゃないか、そして二度と浮かび上がって来ないんじゃないかなどと、有りもしない空想に耽ってしまうのは、きっと日和崎の木口空間にすでに取り込まれてしまっているからだろう。
 特に「現代版画センター」エディションの2点はその小さな印面の隅々にまでびっしりとしかしまたゆったりと、一つの世界が「満ちている」感じがたまらなく魅力的である。これには版元の力もあずかって大きいであろう。作家と版元とがしっかりとタッグを組んだ時のビッグ・バンとも言うべき巨大なエネルギーに降参である。エディションが2500であるとか、サインが刷り込みであるとかは、作品自体の素晴らしさの前にはまったく関係のないことが実に良く分かる。まぎれもない傑作である。
 その次に版画集「薔薇刑」から10点が二段掛け。これまでの黒い印面とはうって変わった白い印面にほっと一息。驚くべきはその状態の良さ。シミもヤケもクスミもないその印面は艶めかしささえ感じさせ思わず頬擦りしたくなるほど(ってそれでは変態だ)である。これは絶対のお値打ち品。
 その対面には蔵書票から始まって小サイズの作品が8点。それぞれに魅力的な世界(というよりは宇宙)を現出させている。どれもが紛れもなく日和崎尊夫の世界でありながら、どれをとっても「あれとおんなじ」という印象を抱かせない。一つ一つが確固とした独自性と唯一性を保っている。その意味で日和崎尊夫の一つ一つの作品は大きな日和崎世界の一部なのではなく、それぞれが一つの完全な日和崎世界なのである。日和崎は作品ごとに一つの宇宙を創造したのだ。
 奥では初期の傑作「星と魚のシリーズ−No.3」「仮面−B」を含む、代表作「KALPA」シリーズが圧倒的な存在感を示している。テーブルに鎮座まします詩画集『FRESIMA』『緑の導火線』も畏れ多い。このあたりになると、もはや素人の「小コレクター」の手には負えないので、展評(というよりこちらのは単なる感想記)はどなたかにバトンタッチを切望することしきりである。
 それではそろそろ、と扉に向かうとその脇に「海球」。ちょっと嬉しくまた誇らしい気持ちになる。以前、「ときの忘れもの」のヤフーオークションで落札した作品。その誇らしさのかなりの部分が「73,500円」という価格にあるのが情けないがまた偽らざる本音でもある。
たぶんあのときはこの3分の1ぐらいの価格で落札したはず。2003年の夏のことだから、それからわずか3年でということになる。きっと今回の展示も昨年の展示と同様、数年経たずして「あのころはね…」と語られことになるのであろう。
 これは急がなければならない。帰りに池袋のホープセンターでサマージャンボを10枚連番で買うことを固く決意する私であった。


「静かの海に咲く花の・・・・日和崎尊夫展」 中村惠一〜<コレクターたちの展評>第三回

 最初は女性が普通にこちらを向いているアップ。でも息を吐くと大きな泡があらわれる。それによって女性のまわりを実は「水」が満たしていたのがわかる。最近見たテレビCMの中でとても印象に残ったものだ。一体何のコマーシャルだったのだろう、それ自体は覚えていないのに、我慢できずについに水の中で息を吐き出すシーンは忘れることができない。この一見、トリックのような映像に日和崎尊夫の一連の木口木版画をかさねてイメージしていた。

 私にとって日和崎作品のイメージは「海」である。同じ木口木版であっても柄澤齊の作品には「宇宙」とか「空中」とかを感じるので、海のイメージは木口木版が根源的に内包しているものではなく、日和崎が抱えているイメージなのだろう。日和崎の作品を見る時、たとえモチーフが花であったとしても周囲に水を、海を感じていた。

 今回の日和崎尊夫展で、久しぶりに彼の作品をまとめて見たように思う。私が日和崎の作品を見ていたのは80年代前半、場所は札幌と東京と半々くらいだったろうか。その多くはギャラリーに飾られた木口木版作品としてみたが、ごく一部は雑誌などの扉作品や本の装丁などの印刷物としても見ていた。このたびの展覧会では「旧友」に久しぶりに再会したような懐かしく、楽しい気分になった。

 同じ木版画なのに、板目木版と木口木版とはまったく異なる世界を出現させる。板目木版の場合、正目を使う。自然木でいえば、もっとも成長の早い伸びしろの大きな部分が正目である。正目はともかくのびのびしている。木の状態では垂直になっているものを版画では水平において使う。一方、木口木版の場合、もっとも成長が遅く、伸びしろのないのが木口である。したがって硬い。木のなかの「おしん面」なのである。ともかく苦労している。立ったままの木を水平にカットして、そのまま版画の面として使うのが木口木版である。だから自然の摂理から考えると倒錯がない。もっとも自然な状態なのである。日和崎は特に椿を版木に使った。木口で切断された椿には時に割れもあったが、その割れも作品の一部として使う度量が日和崎にはあったし、黄楊ほどには硬くない椿の切断面をきれいに金属でいえば鏡面に磨きあげる作業を惜しまなかった。木口が苦労している「おしん面」であるなら、これを使う版画家も下準備に徹底して苦労する。この工程なくして木口木版作品の深さはでない。この磨きあげた面に黒いインクをのせて刷ると漆黒の闇がプリントされる。それは深い深い闇であるが、日和崎の闇は、私にとって果てしない海である。

 銅版画つまりエングレービングの場合、光る金属面をさらに刃物で削る。すると、さらに輝く面が光をはじく。目に痛いほどである。だが、これを刷る場合、インクは輝く溝に入り込み、黒い刻み線としてプリントされる。左右の逆転とともにネガとポジの転換が生じる。木口木版の場合、左右逆転はあってもポジはポジのままである。硬くそして滑らかに磨かれた面に黒い海を孕ませ、刻んだ一本一本の線が光となって輝き始める。聖書には「はじめに光あれ」という言葉があり、世界のはじまりの前に光が生まれたということであるが、光がうまれるためには闇が必要であり、日和崎はまさにこの世界の生成を小さな木口という版木の上に形成していった。そして、その小さな宇宙は無音の海であり、海には生命のはじまりや生命の終わりが潜んでいる。日和崎は彼の代表作を『KALPA』と名付けている。KALPAとは古代インドの時間の永遠さを表す言葉。天女が百年に一度降りてきて羽衣でこする、これを繰り返して7km四方の石がなくなる時間というのだから無限ということだろう。生命の誕生からはじまる命をつなぐ無限の時間を日和崎は感じていたのかもしれないと思った。
                        2006.8.3.  (なかむらけいいち)

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