ときの忘れもの 今週のお勧め
■2012年05月20日(日)  ジェリー・N・ユルズマン「Untitled」
grp0519190509.jpg 437×600 80Kジェリー・N・ユルズマン
Untitled
1976年
ゼラチンシルバープリント
33.5x24.3cm
サインあり

本棚と暖炉のあるビクトリア朝様式の瀟洒な部屋。書き物机の上には、地図が拡げられ、その地図の上に重ねられた本の上には、小さな人物があたかも物思い耽るかのように頭を下げて立っています。部屋の天井が抜き取られたような状態になっていて、広がる空には雲が立ちこめ、雲の隙間から差し込む光は、小さな人物の影法師を作り、また机の下に敷かれた豪華な絨毯の上にも影を落としています。
ジェリー・N・ユルズマン(Jerry N. Uelsmann, b.1934)の代表作として知られるこの作品は、「The Philosopher's Study(哲学者の書斎)」と通称されてもいます。本や地図の中から立ち上がる人物の姿は、書斎の中に籠もって思索する哲学者を、頭上の空は無限に広がる思弁の世界を象徴的に表していると読み解き、解釈することもできるでしょう。
ジェリー・N・ユルズマンは、ロチェスター工科大学在学中の1950年代末から合成写真の作品制作を始め、以降大学で写真教育に携わりながら、制作を続けてきました。彼の制作手法は、複数枚のネガを元に、暗室作業を繰り返してプリントに焼き付けていくというもので、場合によっては、一枚のプリントを焼き付けるために10台近くもの引伸機が使われています(図2)。複数のネガを組み合わせることによって、頭の中で思い描いた超現実的で幻想的な光景を、暗室の中で印画紙の上に構築してゆくユルズマンは、まさしくイメージの錬金術師と呼ばれるに相応しいでしょう。

ジェリー・N・ユルズマン Jerry N. Uelsmann(1934-)
1934年アメリカ、ミシガン州デトロイト生まれ。ロチェスター工科大学、インディアナ大学で学んだ後、フロリダ大学で写真を教える。今では珍しくなくなった、さまざまな技法によって写真に手を加えた「作られた写真」だが、ユルズマンが写真を作り始めた1960年代は、撮影の際に表現の基本的な性格づけが行なわれるべきだとする「ストレート写真」が基調をなしていた時代であった。複数のイメージを暗室作業の過程で自由自在に組み合わせる技法を用いてシュールな作品世界を作ってきたユルズマンは、「作られた写真」を現代に甦らせた先駆者の一人である。

■2012年05月10日(木)  関根伸夫「G3-15 裏返る円」
nicky_20120510.jpg 493×600 74K関根伸夫
「G3-15 裏返る円」
1987年
ミクスド・メディア
27.5×22.6cm
サインあり

「もの派」といえば、李禹煥と関根伸夫。
ときの忘れもののコレクションから関根伸夫作品をご紹介しましょう。

3月21日の朝日新聞夕刊に「もの派」の展覧会/Requiem for the Sun: The Art of Mono-haがアメリカ・ロサンゼルスのプラム&ポー画廊で開催されているという記事が掲載されました。

富井玲子さんという美術家によるレポートですが、われわれ日本の画商にとっては実に耳の痛い話であります。(以下、引用)

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 「もの派」展は国内でも海外でも何回か開催されてきた。が、本展は、展示の美しさとインパクトで傑出しているだけではなく、世界美術史という舞台で日本の現代美術がいかに歴史化に耐えていくか、という緊急課題に正面から取り組んだ点で重要だ。
 戦後日本美術、特に60、70年代の現代美術は、その先鋭な実験性でこれまでも海外で高い美術史的評価を得てきた。しかし、世界美術史における定着度は必ずしも高くなかった。
それは、美術には審美的・学術的評価とは別に、作品のモノとしての市場的評価があるからだ。これは単に商品売買の問題ではない。個人コレクターに収集され、さらには美術館の収蔵品となることでモノとしての評価が固まっていく。これが学術的評価と連動して総合的評価となり歴史に定位置を確保する。
 特に「もの派」の作品は一回性の設置として構想されることが多いので、モノとしての作品が残らないきらいがある。
 本展は、吉竹美香という堅実な「もの派」研究者がゲストキュレーターを務めて学術的評価を目に見える形で提示するとともに、商業画廊が作品のモノ化(永続化)に熱心に取り組んで市場的評価の向上をめざし、それを受けて立った作家たちが全面的に協力して成立した稀有(けう)な企図である。そのうちどの一者が欠けても、本展は画竜点睛(がりょうてんせい)を欠いたことだろう。
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画商の務めは「作品のモノとしての市場的評価」を高めることであり、美術館に任せておけばよいというのではいつになっても日本の美術を世界の舞台に押し上げることはできません。
私たちもささやかですが、上記のような「稀有な企図」をもつ企画の実現に邁進したいと思います。

関根伸夫 Nobuo SEKINE(1942-)
1942年埼玉県生まれ。68年多摩美術大学大学院油画研究科卒業。同大学で斉藤義重に師事。第8回現代美術展、神戸須磨離宮公園現代彫刻展、第5回長岡現代美術館賞展などで次々と受賞。美術界に旋風を巻き起こす。日本発の現代美術ムーブメント[もの派]を代表する作家として活躍する。70年ヴェニス・ビエンナーレ出品。73年環境美術研究所設立。78年デンマーク・ルイジアナ美術館他でヨーロッパ巡回展を開催。

2012年04月30日(月) 
nicky_20120430.jpg 481×600 36Kジョエル=ピーター・ウィトキン
<Tibet House Portfolio>より
“Woman once a Bird”

1990年
プラチナプリント
イメージサイズ:31.6x27.0cm
シートサイズ:40.0x33.0cm
Ed.35/100
サインあり

「私の作品は見捨てられた人間、英雄、聖者の世界に関与するもので、超自然的なもの、社会のパラノイア、そして現代の不確かな道徳観に関わるものである。」
[ウィトキン『Switch』1993年11月号]

ホルマリン漬けになった奇形児や異形の人たちを撮影するウィトキンの写真には、見捨てられて来た人々を執拗なまでに追いかける圧倒的な迫力と打ち捨てられた生の断片を再生させる力強さがあります。
1939年アメリカ、ニューヨーク市ブルックリンに生まれたウィトキン、ユダヤ人である父親とローマ・カトリック教会の母親は彼が幼い頃に宗教上の違いを理由に離婚し、以後兄と共に母親に引き取られ、厳格なカトリックの環境で育ちます。幼い頃に交通事故現場に居合わせ、そこで少女の生首と向き合うというショッキングな経験をしたウィトキンの感性は他者のそれとは一線を画し、「死」、「死体(またはその部分)」、「小人症・性転換・半陰陽・身体的障害者などさまざまなアウトサイダー」といったテーマを扱っています。

今回ご紹介する“Woman once a Bird”は、1990年にリチャード・ギアとビル・ボーデンがニューヨークのチベットハウスのために制作した“Tibet House Portfolio”に収録された作品です。そのポートフォリオは13x16インチのプラチナ/パラジウム写真24枚で構成され、収録されたのはいずれも著名な写真家であり、幾つかの作品は彼らの代表作にもなっています。
100のエディションと24のアーティストプルーフが制作され、全てのプリントに作家たちのサイン/エンボスが入っています。
以下がポートフォリオに作品が収録されている作家のリストです。

●Portfolio I
Berenice Abbott
Mario Giacomelli
Horst P. Horst
Annie Leibovitz
Matt Mahurin
Mary Ellen Mark
Kurt Markus
Sheila Metzner
Sebastiao Salgado
Jerry Uelsmann
Bruce Weber
Joel-Peter Witkin

●Portfolio II
David Bailey
Ruth Bernhard
William Claxton
William Clift
Ralph Gibson
Allen Ginsberg
Helmut Newton
Steve Meisel
Duane Michels
Herb Ritts
George Rodger

このポートフォリオは非営利団体であるギア財団によって企画され、危機に瀕しているチベットとその文化に注意を呼びかけるべく制作されました。ポートフォリオの売り上げはネットの運営費として使用され、ポートフォリオに含まれる作品は非営利団体へと受け渡され、人々のチベットへの関心を高めるべく使用されました。

ジョエル=ピーター・ウィトキン Joel-Peter WITKIN(1939-)
1939年、アメリカに生まれる。死体やフリークスなどの特異な被写体とエロティックかつ怪奇的な表現方法で非常にスキャンダラスな作品を制作しているが、一面、ルーベンスやゴヤのほか、クリムト、フェリシアン・ロップスらの19世紀末の象徴主義の作品からインスピレーションを得ている。

■2012年04月20日(金)  ロバート・メイプルソープ 《Helmut》
mapplethorpe_04_helmut.jpg 548×600 204Kロバート・メイプルソープ
<X -Portfolio>より "Helmut"
1978年
ゼラチンシルバープリント・ドライマウント
作品サイズ  :19.5cm×19.5cm
フレームサイズ:63.5cm×63.5cm
Ed.25
サインあり

1989年3月9日エイズで亡くなったロバート・メイプルソープは、42歳の生涯で「静物(主に花)」「ポートレート」「ヌード」「セックス」の4つのテーマをもとに優れた写真作品を制作しました。
率直で官能的な作品が美術館に収蔵されるか論議を呼び、日本でもニューヨークのホイットニー美術館が1988年に開いた回顧展のカタログが輸入禁止となり裁判にまで発展しました。
「わいせつ図画」とは何かを問う、この裁判では一審、二審で判決が異なり、2008年の最高裁判決は、このカタログ(写真集)を「メイプルソープ氏の写真芸術の全体像を概観するもの」と判断し、日本国内への持ち込みを禁じた税関の処分取り消しを命じ、国側敗訴が確定します。
下級審におけるわいせつ物認定が最高裁で取り消されるという画期的な判決でした。

ロバート・メイプルソープ
1946年ニューヨーク市に生まれる。16歳の時にブルックリンに転居しプラット・インスティチュートで絵画、彫刻を学ぶ。1967年に詩人で歌手のパティ・スミスと知り合い共同生活を開始。 この頃からポルノ雑誌を切り取ってコラージュの制作を開始したり立体、インスタレーションなどに取り組む。写真はポラロイドから始め、パティ・スミスなどの仲間を モデルにしたり、身の回りの静物を使い、構成、色彩、照明、サイズ、フォーマットなどの試行錯誤を行う。1976年にハッセルブラッドカメラを入手し、ネガフィルムによる作品制作を開始。1978年ミッドタウンの有名画廊ロバートミラーでパティ・スミスのポートレートを展示し、同画廊の専属となる。
メイプルソープは「静物(主に花)」「ポートレート」「ヌード」「セックス」の4つのテーマを主軸に制作を行った。
作品は性の解放や同性愛者の社会的権利など、当時の時代背景や社会問題と切り離せない関係にあるが、特に率直な官能表現の作品などは大いなる絶賛とバッシングの両方を受けることとなった。一枚の写真から構成や色彩、ライティング、サイズ、フレームなど細部に至るまで計算して被写体および構図の中にバランスと完璧さを求めた。1980年代に入ると名声は高まり、各界の有名人、著名人からポー トレート写真の依頼が寄せられるようになる。商業雑誌やイブ・サンローランなどの広告の仕事も行なうようにる。作品制作ではコマーシャルがきっかけでカラー写真にも取り組みはじめ、 1985年以降は多種多様な表現方法を模索し、麻にプラチナプリント、絹 にグラビア・プリントなどを開始する。1989年、歿。

■2012年04月10日(火)  細江英公 《1970年3月30日》
hosoe_03_19700330.jpg 600×483 46K細江英公
《1970年3月30日》
1970年
23.6×29.5cm
ゼラチン・シルバー・プリント
サインあり

カメラが手軽なものとなり、デジカメが驚異的な進化を遂げたいま、街の写真館はめっきり減ってきてしまいました。
ときの忘れものの近くにあった写真館も数年前に廃業し、いまはネールサロンか何かになっている。
今では正装をして「記念写真」をとる機会は結婚式くらいでしょうか。
私たちのように歳をとると、おめでたい席にはとんとお呼びがかからなくなり、呼ばれるのはお葬式や偲ぶ会ばかり…。
そういう席でも、「では皆さん、並んでください」といわれて記念写真をとることもない。
写真を撮らないわけではなく、むしろスナップ写真などは昔に比べたら多いくらいですが、「記念写真」というフォーマルな形式が敬遠されてきたのでしょうか。
かねてから細江英公先生は「記念写真」の重要性を力説されていますが、なかでも今回ご紹介するのは極め付きの記念写真です。
今から32年前の今日、撮影された作品です。

この年、細江先生は東北を舞台に舞踏家の土方巽を撮った『鎌鼬』で芸術選奨文部大臣賞を受賞されました。
細江先生は、ん十万だったかの賞金をはたいて土方巽はじめ関係者を招いて赤坂プリンスホテルのレストランでお礼の宴を開きます。
そのときの記念写真です。
写っているのは11人。凄いメンバーです。
細江先生の指示で、全員あらぬ方を見ていますが、ただひとり瀧口修造だけは指示に逆らって(というか無視して)カメラのレンズを見つめています。
後列左から、加藤郁乎横尾忠則高橋睦郎田中一光川仁宏種村季弘
前列左から、澁澤龍彦土方巽瀧口修造細江英公三好豊一郎

撮影場所は赤坂プリンスホテル旧館の中庭ですが、建物は李氏朝鮮最後の王世子(皇太子)である李垠(い・うん 1897-1970)の東京邸だったもので、戦後西武の堤康次郎が買取りホテルにしたもの。
1928年竣工のこの建物は、隣の新館(丹下健三設計、1983年)が解体が決まったのに対して今も瀟洒な佇まいを見せています。

細江英公
写真家。清里フォトアートミュージアム館長。1933年山形県生まれ。本名・敏廣。18歳のときに[富士フォトコンテスト学生の部]で最高賞を受賞し、写真家を志す。52年東京写真短期大学(現東京工芸大学)入学。デモクラート美術家協会の瑛九と出会い強い影響を受ける。54年卒業。56年小西六ギャラリーで初個展。63年三島由紀夫をモデルに撮った[薔薇刑]で評価を確立し、70年[鎌鼬(かまいたち)]で芸術選奨文部大臣賞受賞。

■2012年03月30日(金)  萬鉄五郎 《ヴェールの女》
yorozu_01_veil.jpg 441×600 79K萬鉄五郎
ヴェールの女
1927年
木版
17.5x12.5cm
版上サインあり

2011年11月15日〜2012年1月15日に東京国立近代美術館で開催された「ぬぐ絵画―日本のヌード 1880-1945 Undressing Paintings: Japanese Nudes 1880-1945」展で萬の裸婦をご覧になりあらためてその強烈な魅力に感じ入った方も多いでしょう。植田実さんのエッセイもお読みください。
この「ヴェールの女」は1924年(大正13年)の制作で、創作版画史上では非常に有名な「神戸版画の家」という版元から頒布された木版画です。
「神戸版画の家」の主宰者は山口久吉という人ですが、精力的に恩地孝四郎はじめ当時の気鋭の作家たちに版画制作を依頼し、連刊版画集「神戸版画の家」を1924年(大正13)から1930年(昭和5)にかけて実に16集まで刊行しました。
各巻10点づつ(複製も含む)が収められたこの版画集は、おそらく完全セットで残っているのは数セットあるかどうか。
亭主は1970年代に、かなりの年月と、もちろん大枚な金額とエネルギーを費やし、ようやく完全セットにして、イギリス人コレクターに収めたことがあります。
出品作家は約60名ですが、最も評価の高く、入手が難しいのがこの萬鉄五郎作品です。
他には恩地孝四郎、棟方志功、平川清蔵、川上澄生などが珍しい作品です。
ドイツ表現派などのコレクションで知られる宮城県美術館には開館のときに、これと同じ作品を買っていただきました。
「神戸版画の家」の第3集に収められたのこの「ヴェールの女」は創作版画の記念碑ともいうべき名作でしょう。

萬鉄五郎
1885年宮城県に生まれる。 幼少期より水墨画を、また16歳の時に大下藤次郎の手引書により水彩画を独学で始める。 1903年上京し、次いで1906年渡米。 1907年、東京美術学校の卒業制作「裸体美人」(国重要文化財)でデビューする。 近代日本絵画に新時代をもたらした画家のグループ「フューザン会」に加わり、強烈な色彩と大胆な筆触による近代的な画風を展開させた。 1914年夏から、絵画制作に専念するため帰郷。 美術動向とは無縁の地で隔絶した状況に身を置き、キュビスム的な実験を試みる。
この集中的な実験の時代の後、再び上京。1917年からは数多くの作品制作を行い、 同年の「日本美術協会」展に故郷土沢で制作した作品を、また二科会展には萬の主要なキュビスムの仕事である 「もたれて立つ人」を出品した。 1919年、神経症から神奈川県茅ヶ崎に転居する。まもなく画風が変化し始め、関心も次第に 日本の伝統絵画に向かった。油彩画のほかに南画(水墨画)を描き、伝統美術の解釈は彼の洋画にも反映した。1927年、歿。

■2012年03月20日(火)  靉嘔「クラッシュドレインボー」
ayo_32_crushed.jpg 502×600 51K靉嘔
クラッシュドレインボー
1983年 シルクスクリーン 
26.0x20.0x2.0cm 
Ed.500
サインあり

靉嘔先生の「クラッシュドレインボー」について、「いったいどういう作品なのか」というご質問がありましたので、簡単にご説明します。
文字通り、靉嘔先生が名手・岡部徳三さんが刷り上げた作品を、手で握ってぐしゃりとつぶした作品です。
ですから500部が一枚一枚異なります。潰された虹の版画をそのまま箱型のケースにおさめたのが左の写真です。

そもそもこの作品は「ジョナス・メカス映画美術館建設賛助計画 オリジナル版画入りカタログ」のために制作していただいたものです。
レゾネ(阿部出版、495番)には、限定1000部(版元:現代版画センター)と記載されていますが、正しくは500部です。亭主が版元としてエディションし、そのときのジョナス・メカス展実行委員会発行のカタログにも500部と記載されていますので、間違いありません。
靉嘔先生が版画を握ってぐしゃりと潰す、それを社長が受け取り丁寧に延ばす、その繰り返しを500回。延ばした作品をカタログに挿入した(挟み込んだ)わけです。
それを知らないで後に買ったお客様が「なんだ、これは折れているではないか」とお怒りになるのはもっともなわけですが、もともと「潰された虹」の作品なのです。
こういう「冒険」ができたのは「ジョナス・メカス映画美術館建設賛助計画」の寄付金集めが目的のエディションだったからです。

靉嘔
1931年茨城県生まれ。本名・飯島孝雄。54年東京教育大学卒。53年瑛九ら[デモクラート美術家協会]に参加。55年池田満寿夫らと[実在者]を結成。58年渡米、以後ニューヨークと日本を行き来する。62年ハプニングを中心とする前衛芸術グループ[フルクサス]に参加。71年のサンパウロ・ビエンナーレはじめ各国際展で次々と受賞。全ての物体、イメージを虹色で分解し再構築した虹の作品で世界的な評価を受ける。

■2012年03月10日(土)  ウェイン・メイザー「Woman spitting beer, 1990」
MASER_01_woman.jpg 424×600 69Kウェイン・メイザー
Woman spitting beer, 1990
1990年
ゼラチンシルバープリント
50.6x40.4cm
サインあり

メイザーは1981年創立のアメリカのアパレルブランド『GUESS』のファッション・キャンペーンで注目され、以後主にファッション写真の分野で活躍しています。
暴力的でさえある大胆且つぞくっとさせるセクシュアルな緊張感を持った表現方法が特徴で、今回の出品作品にもそれが良く出ています。

■ウェイン・メイザー
写真家。1946年アメリカ・ペンシルベニア州に生まれる。
フィラデルフィア・カレッジ・オブ・アート卒業。『GUESS(ゲス)』のファッション・キャンペーン写真で世間の注目を集める。その後ファッション界の巨匠ヴェルサーチ、カルバン・クライン、ドナ・キャランなどのキャンペーン広告を次々と手掛け、彼のファッション・イメージが売上げ向上に大きく貢献する。
メイザーの写真は時に暴力的でさえあり、大胆且つセクシュアルな緊張感を持った表現方法はコマーシャルフォト界のトレンドに影響を与えた。

■2012年02月29日(水)  ヤン・ソーデック「Gabina shaving」
saudek_09_gabina.jpg 475×600 78Kヤン・ソーデック
Gabina shaving
1982年
ゼラチンシルバープリント・手彩色
イメージサイズ:17.7×17.0cm
シートサイズ :25.2×19.8cm
サインあり

今回はモノクロ写真に手彩色した独特の色彩作品で知られるヤン・ソーデックの作品をご紹介します。
古い地下室の朽ちかけた壁に投影したイメージをバックに少女や熟年のモデルを配して特異な世界を展開するソーデックの写真は、ときにはグロテスクにも見えますが、あるものをただ写すのではなく、自らの伝えたいメッセージを様々なテクニックを駆使して創りあげる姿勢には一貫したものがあります。6人の兄弟を強制収容所で亡くすという悲劇を経験したソーデックがプラハで初個展を開いたのが1963年、チェコ事件後の1971年には、彼の重要なモチーフとなる「壁」を発見します。
白黒やセピアの写真に着色した彼の作品は、一枚の作品の中に濃厚な物語性を持たせた古典絵画のような趣がありますが、「自分の表現したいのは魂のポートレートだ」と言っているように、彼の作品からは生への讃歌、それも強烈な匂いを放つ毒々しい花のような性的な生命力と暴力的な死のイメージが立ち上ってきます。

■ヤン・ソーデック
1935年プラハ生まれ。6人の兄弟を強制収容所で亡くす。15歳の時初めてカメラを手にし、写真家を志す。プラハのグラフィックアートの学校で学んだ後、1983年まで写真製版のカメラマンとして働きながら写真を撮り続ける。1963年プラハで初個展。1971年彼の重要なモチーフとなる「壁」を発見する。この頃から世界的に知られるようになり、海外で多くの展覧会が開催される。
1977年頃からモノクロ写真に手彩色を始める。1984年フリーランスとなる。1990年フランスのレジオン・ド=ヌール勲章のシュバリエ章を受章。
パブリック・コレクション:ポンピドゥーセンター、メトロポリタン美術館、ポール・ゲティ美術館など。

■2012年02月20日(月)  国吉康雄「バーレスクの女王」
kuniyoshi_01_burlesquequeen.JPG 511×600 76K国吉康雄
Burlesque queen バーレスクの女王(第2版)
1936年 リトグラフ
29.8x24.4cm  Ed.100 signed
※レゾネNo.D-L61、第1版は1933年 Ed.25

今週はアメリカを代表する画家・国吉康雄(1889〜1953)のリトグラフを紹介します。
えっ、クニヨシって日本人じゃないのとお思いになるでしょうが、その死去に際し、かの国の新聞は「アメリカ最高の芸術家ヤスオ・クニヨシ死す」と報じ、アメリカ画壇における不動の地位と人望を讃えました。
国吉はその生涯に81点の石版画(リトグラフ)と47点の銅版画を制作しました。版画を手がけた巨匠たちの中では決して多い点数ではありませんが、いずれもモノトーンの憂愁や倦怠、孤独感などを漂わせた女性像が中心的モチーフになっています。

2004年に東京国立近代美術館で大規模な回顧展が開催され、本年7月にも岡山県立美術館で「福武コレクションによる 国吉康雄コレクション」展が開かれましたが、特筆すべきはアメリカでの生前からの高い評価です。
国吉は1948年ホイットニー美術館で、現存作家としては初の回顧展を開催します。さらに1952年には第26回ヴェネツィア・ビエンナーレに、アメリカ代表として出品します。同年の移民帰化法の成立により、ようやくアメリカ市民権を保有する資格が生じたものの、その手続きが完了する前に、翌年胃癌のため死去したのでした。
現在では、ベン・シャーン、エドワード・ホッパーらとともに、20世紀前半のアメリカを代表する画家の一人として評価され、その名声は世界的なものとなっています。

国吉康雄
1889年岡山県に生まれる。1906年アメリカ・シアトル移住。1910年ニューヨークに渡り、美術を学び始める。1914年ホーマー・ボッスの指導するニューヨーク市の進歩的な美術学校、インディペンデント・スクールに入学。1916年にはアート・スチューデンツ・リーグに入学し、1920年4月までそこで学ぶ(終わりの3年間は特待生であった)。 ケネス・ヘイズ・ミラーに師事し、多大な影響を受ける。1922年ニューヨークのダニエル画廊で「国吉康雄油絵素描展」を開催。 1928年、1925年につづきヨーロッパに旅行し、ジュール・パスキンらパリの美術家たちと親交を深める。この頃石版画制作に没頭する。 1929年ニューヨーク近代美術館での「19人の現代アメリカ作家展」出品作家に選ばれる。

1931年父親を見舞うため日本に旅行。日本での初個展が東京三越百貨店と大阪三越百貨店で同時開催される。1932年アメリカに帰国。 翌年からアート・スチューデント・リーグで教鞭をとる(1953年まで)。 1937年アメリカ美術家会議の一員として1940年まで活発に活動する。 1942年の真珠湾攻撃により、日本に向けて停戦勧告のため短波ラジオ放送を行うなど日本の軍事侵略に抗議する活動を行う。 1948年ホイットニー美術館で回顧展が開催。これは同美術館がアメリカの現存作家に関して行なう個人展覧会の最初のものであった。 1952年ヴェネチアビエンナーレのアメリカ代表に選ばれる。 1953年アメリカ市民権の獲得を目前にニューヨークで亡くなる。享年63歳。

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