画廊主のエッセイ
このコ-ナ-では、画廊の亭主が新聞や雑誌などに依頼されて執筆したエッセイを再録します。

駒井哲郎 -福原コレクションをめぐって-

綿貫不二夫  2000年4月
「駒井哲郎展 福原コレクション」図録(2000年4月、世田谷美術館)より転載

 ひとつのコレクションが形成されるにはさまざまな条件が必要だろう。作家や作品との出会い、蒐集への持続する意思、チャンスを逃さず作品を入手する決断力と資金力、何よりもコレクタ-本人の作品への愛着と執念。そしてその裏には本人も与かり知らぬ「運命の糸」ともいうべき因縁が隠されているのではなかろうか。

 このたび世田谷美術館に寄託された駒井作品は約80点、すべて福原さんが40年かかって個人で蒐集したものである。初期のコレクションには、1960年に南画廊から送られた〈駒井展案内状(二匹の魚)〉や、「版画友の会」などから購入した〈詩画集 からんどりえ〉〈黄色い家〉〈虹彩の太陽(Novembre 樹木)〉がある。このデ-タを見ただけで、色彩を重視し、研ぎ澄まされた鋭い感性の溢れた作品を選ぶという福原さんの選択基準がはっきりとわかる。

 駒井先生は1953年1月資生堂ギャラリーで初個展を開いた。このとき福原さんは資生堂入社直前のまだ慶応大学の学生で、残念ながらこの展覧会は見ていない。その頃、山本孝さんと東京画廊をやっていた志水楠男さんが、1956年6月に独立して南画廊をつくった。開廊記念展は駒井哲郎展だった。その後、志水さんはフォ-トリエ展など画期的な展覧会を開いて、戦後の現代美術をリ-ドしたが、1979年52歳の若さで逝ってしまった(註1)。 

 南画廊が開廊した翌1957年6月、美術出版社の大下正男、美術評論家の今泉篤男、小コレクタ-運動を提唱した大コレクタ-久保貞次郎(後に町田市立国際版画美術館初代館長)の三氏が創立したのが「版画友の会」である。岡鹿之助など多くの画家たちの版画作品を頒布し、現代版画の普及、啓蒙に先駆的な役割を果たした。駒井作品も第2回頒布会から登場している。初年度に入会したのは66名、機関誌『版画』第5号(1965年)巻末の会員名簿(補遺)には福原義春の名もみえる。福原さんは戦後のサラリ-マン・コレクタ-のはしりであったといえば語弊があるだろうか。一口に40年といっても、その間ずっと駒井作品を追いかけていたわけではないだろうし、「私の履歴書」(註2)を読めば、企業戦士としてコレクションどころではない時代もあったことは想像に難くない。だが、少なくとも駒井作品を集めるには実に筋の良いスタ-トを切ったといえるだろう。

 蒐集のお手伝いをさせていただいた私が何か書くとすれば、福原さんにとって「とくべつの感情」(註3)の対象であるこのコレクションと直接の関係はないのだが、資生堂ギャラリーの歴史について述べないわけにはゆかない。

 「駒井さんは、私もコレクタ-です 福原」。使用済みのカレンダ-の裏に書かれた短いメッセ-ジは、1991年春、休館中だった資生堂ギャラリーを再開するにあたり、駒井哲郎回顧展の企画書を読んだ、当時の資生堂社長福原さんから企業文化部の柿崎孝夫氏あてのものだった。それを見せてもらった私は、福原さんが駒井作品を所蔵していることを初めて知った。福原さん所蔵の〈黄色い家〉他も出品され、6月1日~16日の会期で開かれた駒井展は決して大展覧会ではなかったが、入場者は異例ともいえる 4,700名を数えた。企画と図録の編集に携わった私にとっては二度目の駒井展だった。最初は駒井先生の生前、1975年秋の新作発表の折り、盛岡や秋田の大曲など地方都市の画廊での全国巡回展を組織し、以来私は画商として多くの駒井作品を扱うことになる。

 しかし、私が福原さんの知遇を得ることができたのは、画商としてより『資生堂ギャラリー75年史』(註4)という大部な本の編集者としてである。1990年から足掛け6年をかけて編集したこの本は、私たち社外スタッフが国会図書館に通い、膨大な新聞雑誌の記事の中から資生堂ギャラリーの記録をひとつずつ探しだし調査することから始まった。その過程で資生堂という一企業に、地下水のように蓄積された文化的遺産ともいうべき興味深い事実が次々と明らかとなった。その中間報告が企業文化部から社長室に届けられ、折り返し感想やら質問やらが私にも回ってくるようになったのがそもそものきっかけである。 

 1872年(明治5年)福原さんの祖父有信が創業した資生堂は、伯父の信三の代の1919年(大正8年)にギャラリーを開設した。今でいうノンプロフィット・ギャラリーである。現存する画廊として日本最古の歴史を持ち(現在は建て直しのため休館中)、いままでに開催された展覧会は 3,000回を越す。先の『ギャラリー史』巻末に収録した人名索引は約 5,000名、日本の近現代美術史を網羅するといっても過言ではない。その中には戦前の須田國太郎や山本丘人の初個展、戦後の駒井哲郎の初個展など、作家の重要な出発点になった展覧会もあれば、歴史の波間に消えてしまったものもある。

 いまでこそ資生堂は世界的な大企業であるが、戦前は規模も小さく、関東大震災、昭和大恐慌、太平洋戦争の荒波をもろに受け幾度も経営危機に陥っている。化粧品製造は平和の時代でこその産業で、戦争中に香水などは商売にならない。勧奨退職と召集令状で社員は激減し、作る商品さえなく、ついには身売り話がでていた戦争末期にもかかわらず、資生堂は1944年(昭和19年)12月末までギャラリーを閉鎖せず、年間80回もの展覧会を開催している。美術団体は解散させられ、画材とて不足する時代、他にそんな企業、画廊はほとんどなかった。9月には「第3回新人画会展」が開かれている。美術史研究では誰ひとり知らぬ者はない松本竣介、靉光、麻生三郎たち8人の最後のグループ展である。そして12月(敗戦の8ヵ月前)に開催されたのが、弁護士正木ひろし主催の「第7回失明勇士に感謝する素人美術展」である。個人誌『近きより』に拠って反軍、反権力の言論を展開し、特高警察の目の上のたんこぶだった正木だが、華族など上流階級を顧客にもつ銀座の高級店資生堂で開くこの展覧会が「弾圧回避に役立った」のである(註5,6)。

 わずか一行の新聞記事から発掘されたこの展覧会の内容は、当初は全く見当もつかなかったのだが、やがて『近きより』復刻版(註7)にその全記録が正木自身によって克明に記録されているのを知り、編集者として大きな感動を覚えた。詳しくは同書に譲るが、かつて治安維持法違反で検挙、拷問を受け、1945年5月新宿駅で空襲に遭い悲劇的な死を遂げた柳瀬正夢も出品者のひとりだった。柳瀬が作った帯留めを岩波書店の岩波茂雄が購入したという記録を読むだけで、この展覧会の歴史的意義が想像できよう。戦時中、資生堂で毎年開かれたこの展覧会は、ギャラリーの灯をぎりぎりまで消さなかった経営陣と社員のリベラルな姿勢あってこそ可能だった。メセナ活動を継続する今日の資生堂にも、それは遺伝子のように受け継がれている。

 あるとき、福原さんにこの展覧会のことをお話した(もちろん福原さんもこんな展覧会があったとは知らなかった)。黙って私の報告を聞かれた後のリアクションを今でも忘れることができない。「戦後、正木さんが出したカッパブックスの『裁判官』の表紙の写真は僕が撮ったんです」。驚いた。こんなことってあるだろうか。福原さんも驚いたに違いない、単なる偶然ではなく因縁としか言いようがない。1955年、正木は八海事件判決を批判して『裁判官』を出版、ベストセラ-になったが、表紙にはインパクトあるものをと光文社の神吉晴夫社長と塩濱方美編集長は、新進の写真家福原義春を起用したのである(註8)。大学卒業したてのこの青年写真家が、昔自分の展覧会に会場を提供してくれた資生堂の一族であることを、著者の正木は気づいていたのだろうか。

 創業者一族に生まれ、資生堂の語り部としてつねづね企業の文化的資産の大切さを説いてきた福原さんにとって、資生堂ギャラリーの長い歴史に秘められたいくつものドラマは、経営者としての自らの信念と、福原家や資生堂が激動の歴史の中で必死に守ってきたものの価値を再確認させるものであったと思う。

 また、駒井先生の生涯で、最も縁の長かったのが資生堂ギャラリーであったことも指摘しておきたい。最初の出品は1940年12月、師の西田武雄が主催した「第1回日本エッチング展覧会」で20歳のとき。以後1953年1月の初個展を含め、亡くなる直前の1976年10月の「九人の会展」まで7回出品している。

 このような縁があり、ましてや早くから作品をコレクションしていた福原さんが、慶応幼稚舎の先輩でもある駒井先生と会おうと思えばいくらでも機会があったと思うのだが、ご自身の回想によれば出会いは晩年のたった一度、それもギャラリーでの立ち話に近いものだった(註3)。作品も、南画廊からの個展案内状を除きすべて画商や版元、古書店から身銭を切って買われており、作家から直接手に入れたものは一点もない。都会的なダンディズムに裏打ちされた、きっとそれが福原さんのコレクション哲学で、嫌いなものは買わないという性分が良く出ている。この図録に寄せた文章では、ある頃から「多少はバランスも考えて蒐集するようになった」と述懐されてはいるが、80点のリストをあらためて見るとバランスなんか少しもとれてなくてかなり過激である。初期の希少作品と色彩作品の充実ぶりは福原コレクションの大きな特徴だが、〈Radio Activity in my Room〉〈虹彩の太陽(Novembre樹木)〉〈阿呆 (Fou)〉〈死んだ鳥の静物〉〈黒い鏡〉〈通過〉などの作品を好きと言い切り、買ってきた福原さんの眼は、抒情的な雰囲気や文学的な側面に偏りがちな一般的な見方とはかなり異なる。

 資生堂ギャラリーでの1953年の初個展の際に駒井先生が「壁面が淋しいからと、あわてて作った」初めての色彩銅版画は「白と黒の世界」とは違うもうひとつの世界を展開させるきっかけになった重要な作品である。中の一点〈分割された顔(分割されたる自画像)〉は駒井家にも残されていなくて、1991年の資生堂ギャラリーでの回顧展の際に八方手を尽くして探したのだが見つからなかった。ところが昨年、佐谷画廊の壁にそれが展示されているのを偶然福原さん自身が見つけて即座に購入された。昨年7月東京都現代美術館で開催された「銅版画憧憬 -駒井哲郎と浜田知明の1950年代」展に出品され、図録の表紙を飾ったのがその作品である。運も実力のうちというが、作品を呼び寄せる力が福原さんに宿っているのだろう。

 
註1 『志水楠男と南画廊』 1985年 同刊行会

註2 福原義春「私の履歴書」は日本経済新聞に1997年10月 1日~10月31日にかけて30回連載された

註3 福原義春「とくべつの感情」『第1回資生堂ギャラリーとそのア-ティスト達 没後15年 銅版画の詩人 駒井哲郎回顧展』図録所収 1991年 資生堂企業文化部

註4 富山秀男監修『資生堂ギャラリー75年史 1919~1994』 1995年 資生堂

註5 『正木ひろし著作集』全6巻 1983年 三省堂

註6 栗原敦「正木ひろしと〈近きより〉」前掲『資生堂ギャラリー75年史 1919~1994』227頁所収

註7 正木ひろし『近きより』全5巻 1979年 旺文社文庫

註8 福原義春『蘭学事始』 1998年 集英社

 

 2000年4月、企業メセナ協議会の創立を主導した福原義春氏(資生堂会長、この秋東京都写真美術館館長に就任)が40年にわたりコレクションした駒井哲郎作品約80点が世田谷美術館に寄託されました。寄託記念展の図録に書いた拙文を再録しました。

*「駒井哲郎展 福原コレクション」図録(2000年4月、世田谷美術館)より転載
 

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駒井哲郎、初個展の案内状
(1953年資生堂ギャラリー)

 


駒井哲郎 「不在の人達」
水彩 29.4x37.5cm
(福原コレクション)


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