画廊主のエッセイ
このコ-ナ-では、画廊の亭主が新聞や雑誌などに依頼されて執筆したエッセイを再録します。

久保先生の授業

1997年
話し手・北沢長子(跡見学園女子短大卒)   聞き書き・綿貫令子(跡見学園女子短大卒)
『久保貞次郎を語る』に掲載(文化書房博文社)

 三〇年近く前のことだから、少々曖昧なものもあるけれど。久保先生の最初の印象は、へンなおじいさん。
 とても大学教授とは思えなくていつも紙袋をいくつかぶらさげてらして、その中にいろいろな版画とかの小品が入っていて、それを授業に持って来て下さるような、そんな授業だったと思う。学生誰彼となく、そば通る人に声をかけて、「キミ、これ持って下さい」とか言って、そんな感じの方で。
 
 最初の授業の印象というと、私は現代美術をほとんど知らなかったその時に、 AY-O とか、北川民次。そう、北川先生の「聖母子像」とか、「花」をずいぶん見せてもらって、それがすごい印象的で、今まで聞いたことのない作家の名前が出てきて。
 いきなり「自分自身の作品を持っている人いますか」という問いかけがあって、絶対一つでもいいから作品を持つことを勧めますというような話をされて。
 それから、小さな版画を何かの景品に私達にくれたり。私が最初にもらったごほうぴは、へンリ ー・ミラーの全集の一冊。最初の頃、伊勢丹美術館でへンリー・ミラーの水彩画展をやっていて、それを個々で見に行くように言われて、その感想文を書かされた時のごほうびにいただいた。私、厚かましくもその本に久保先生のサインをしてもらった。
 先生は、立ってお話にならないで、腰掛けて授業をした。といっても、とてもまめな方だから、立ったり、すわったり、黒板にチョロッと字をお書きになったりとか。それと、作品をさわらせてくれた。前に置いて飾って見るだけでなく、回してくれて、実際に手に取って見せてくれた。

 タイトルは忘れたけれど、私は勝手に「カバのおしり」と思っている作品があって、多分 AY-Oの作品で、ウレタンでカバのおしりみたいにポコッとなっているのと二つ位見せられて、「いやだな、と思う人は手をあげて」と言ったら、割りと人数が多くて、「すごく好きだな、という人は」と言ったら、それはいなかった気がする。「いやじゃない、と思う人は」と言ったら、私だけでなく何人かいたと思う。そんなにグロテスクではないんだけれど、これまでの固定観念から見れば、それに近いものをそういうふうに見なかったことを、先生は評価して下さった。あれはとてもチャーミングだったなと思う。

 久保先生の授業は、教室に止まらず、まず美術鑑賞で上野の美術館に連れていっていただき、それこそ荒川修作さんとか、三木さんの耳とか見て。それからジャスパー・ジョーンズ、アンディ・ウォーホルとか、アメリカの現代作家の作品を私は初めて、目にした。美術館に行っても、先生は一切作品についての解説をしない。どう感じたかを開くのを楽しみにしていた授業だった。

 画廊のパーティーとかも、強要でなく、好きな人にというので、私達は万障繰り合わせて行ったのだけれど、その会場に来ている作家達に、私達を紹介して下さる。それで「キミ達、サインしてもらいなさい」と言って、作家にサインしてもらうことが、一応礼儀としてしなければいけないふうに教えられた。
 それから、授業の中で、小野忠重先生のアトリエに連れて行って下さった時も、小野先生がどっかそこら辺にいるご隠居さんみたいな感じで、目の前でご自分の作品を摺るところを見せて下さって、又、学生にも摺らせて下さった。
 ともかく、新しい世界を見せてもらっているなという感じ。常にドキドキして、授業をうけていた。
 
 児童美術の授業というと、「親と教師に語る」 (ホーマー・レイン著、小此木眞三郎訳 ) という本を渡されて、読むように言われた。とてもおもしろい内容で、その中にも出てくるけれど、接触の快楽というのか、握手したり、肩たたいてくれたり、寒いなんていうと、先生が「寒いんですか」と言って、背中さすってくれたりすることで、実践して私達にわからせてくれた。そういう一連の行動と、この本の中に書いてあることはピッタリ重なる気がする。
 
 プリミティブ・アートのことも先生が随分話して下さって、子供は学校で教育をうけてしまうと絵がよくなくなると言っていらして、いろんな国の子供の絵を見せて下さって、あれはすばらしい授業だったなと思う。ずいぶん黒板に並べて見せて下さった。それが印刷物で本の中、教科書の中で見るものと、本物は子供たちの絵でも何でも随分違うものがあって、先生のおっしゃる本物にふれることの大事さを知らされた。
 それから先生が黒板に氷山の絵を描いて、深層心理の話で、自分が意識しているのはほんの氷山の一角でその下にこんな大きな無意識の意識というのがあって、その無意識のものをどれだけ自分が意識出来るかということが大事みたいなこと、それは思ったことを表現しなさいということの一環だったと思う。私なんか高校で、保守的な考えの学校にいたから、そういう環境にいた子供たちを「はばからないで、どんどん言ってみたらいいよ」みたいな雰囲気をつくって下さって、安心して思ったことが言えた。

 さっきも出たけど、先生は自分で作品を持つことを勧めますと言ったけれど、私達って当時はおこづかいだってそんなになかったし、多分五〇〇円位づつだったと思うけど、希望者を募って月々積み立てた。というのは一部の学生の中から、「教師がお金でものを売るというのはどういうものか」と、家で言われたということがあって、強制ではなく、でも是非持つようにということで。
一番最初に私が、何ヶ月か積み立てて、久保先生に本当に破格で作品をわけてもらったのは、民次先生の一点だった。ともかく手に入れた作品を自分の部屋に飾った時に、うれしくて、見るたびに顔がほほえんでしまうような。

 それから、作家のエピソードを、例えば竹田鎮三郎からの手紙の話とか。その手紙なんてね、みんなの前でビラッ、ビラッと開いて「うーん、これは全部は見せられないな」みたいなこと言って、それから藤田嗣治がどこか地方のお金持ちの所へ行って、頼まれて絵描いた時に、誰かに「股間の部分をもっと強調してくれ」と言われて、絵の具を重ねたというような話をしてくれた。嗣治の絵を必ずしも好きではないけれど、でもそんな事言われると、ちょっと見てみようかなと思ったりして、すごく作家が身近に感じられた。それと瑛九さんのことは、ずいぶん話してくれたわね。


 余談だけど、短大の応接室みたいな所に、押しかけて行くと、先生はよく食べ物をもってらして、小さなパックに一つ一つ入ったおせんべいを、最近はパックの端がギザギザになって開けやすくなっているけど、あの当時はそういう配慮がなかったから、開かないと言って、ものすごく癇癪をおこされていた。
 それと皆にご馳走してくれた。「キミたち、何でもいいです」とおっしゃるのだけれど、本当に何でもいいかどうかわからなくて、紅茶だけで少し遠慮すると、「ケーキはいらないのですか、女の子はケーキ好きでしょ」とか言って、テーブルの回りはいつもワイワイ、ガヤガヤだった。
 先生は、食べ物にはすごく注意されていて、「海外に行く時は、圧力釜と玄米を持って行く。特に白米、砂糖とか白いものは体によくない。でもそういう事を公の場所で言うと、暗殺されそうだからここだけの話ですよ」と。

 一年生の内は一〇〇名位の単位で授業をうけていたけど、二年になる時に芸術鑑賞でそれぞれの先生にクラスが分かれる時に、久保先生が人気が高くて、くじ引きかなにかでやった記憶がある。割り箸に番号とか、○印がついているとかで、それが当たった人に作品をくれたりもしたその割り箸で、クラス分けをしたような気がする。
 その年に授業の内容としてやったのは、自分の好きな作家についての資料を集めなさいということで、神田の古本屋街を暇さえあれば歩き回って、古いみづゑとか、美術手帖とか、芸新とか探し求めてファイルを作った。
多分入れ込み過ぎて、他にも事情はあったけど、教職は捨てた。お金と時間をかけて古本屋を歩いたということは、自分が知りたいものに関しては、この位努力しなくてはいけないとわかった。私達だけではなく、他の子もすごく熱心に集めてファイルしていた。
 よく先生に言われたことは、「キミたちは今、学生だからこうやって熱心でいるけれど、これが卒業して家庭に入ると、全くダメになるんですよね。」とおっしゃったのが、耳に痛い。あの時代に学んだ事、体験させてもらった経験というのがどんなにすごいものだったか、というのをあらためて感じる。

 私はへンな子で、かなりコンプレックスがあったけれど、へンな子をちゃんと認めてくれるというのか、そういう子を自立させてくれるカがあった。

 握手していた先生の手の感触が思い出される。大きな手でなくて、少しヒンヤりした手で、ずいぶん先生と握手したわね。久保先生にお目にかかったおかげで、いろんな方に出会い、知ることが出来た。やっぱり不思議な人だね。いつでも自分の中にいる先生というのは、あの短大の時の久保貞次郎でしかなくて『私の久保先生』よ、みたいな所がある。それって、すごいことだと思うのよね。
 最後に付け加えておいてね。これは久保シンパの話であって、そういう私達を目障りに思っていた人達もいただろうと思うから。
一九九七年五月十二日
( 一九七 O 年跡見学園短期大学生活芸術科卒業生 )



エスペランチスト、美術評論家、児童画教育運動のリーダー、跡見女子短大学長、町田市立国際版画美術館初代館長などを歴任して、日本の美術界に大きな足跡を残した久保貞次郎先生は、私たちにとって恩師である。
妻の令子は大学で久保先生に学び、親衛隊長を務めた。
1996年10月31日、久保先生が87歳で亡くなると、追悼集の出版が計画され、私も編集委員のひとりとして参加した。翌1997年10月に『久保貞次郎を語る』が文化書房博文社から刊行された。教え子の皆さんが何人も寄稿されたが、妻令子も同級生だった北沢長子さんにインタビューした。
久保先生がいかにユニークな授業をなさっていたかお分かりになるでしょう。

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『久保貞次郎を語る』
(文化書房博文社)所収

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