画廊主のエッセイ
このコ-ナ-では、画廊の亭主が新聞や雑誌などに依頼されて執筆したエッセイを再録します。

難波田龍起先生の銅版画

綿貫不二夫 1998年 3月
難波田龍起追悼文集『翔』(1998年 3月 東京オペラシティ文化財団)に収録。

「駒井君が《難波田さんの線は銅版に向いているからぜひやって下さい、僕が手伝いますよ》と勧めてくれてね」。版画に意欲を燃やされる理由をこう私におっしゃったことがある。駒井哲郎先生の早すぎる死(1976年)によって、駒井アトリエでの制作は実現しなかったのだが、ちょうどその頃、私は版元として銅版画やリトグラフの制作依頼に経堂のご自宅にお伺いしたのだった。

近く刊行予定の版画レゾネ(*1)には、52年の孔版画「無題」から始まって木版画、リトグラフ、銅版画など、難波田先生が40数年間に手掛けた版画約 150点(その他にもコラージュやモノタイプが15点程)が収録されると聞く。最も多いのが銅版画で 105点、その七割近くに私は版元として関わったことになる。前述の駒井先生の死去の翌77年と78年の二年間だけで63点を制作されている。いや実はもっと制作されたのだが、それらの多くは試刷りのみで結局発表されなかったのである。レゾネに収録予定の 105点の銅版画でさえ、その内少なくとも27点はEAのみ数部が刷られただけである。せっかく制作された銅版を日の目を見ることなく埋もれさせてしまった元凶はこの私である。

初めてお伺いした頃、先生はもう七〇歳を越えておられ、74年に「現代版画センター」(*2)を設立し本格的な版画の版元を目指していた私はやっと三〇歳になったばかりだった。先生は60年代に美術家連盟の工房などで既に数点の銅版画を手掛けておられ、駒井先生の勧めもあったのだろう、若僧の私のエディション制作の依頼を快く受けて下さった。最初は奈良の木村茂先生が製版と刷りを引き受けて下さった。しかし、ご自身が作家でもある木村先生にばかりご無理をお願いする訳にもゆかず、あらためて山村常夫・素夫兄弟の銅版画工房に協力を依頼したのだった。山村兄弟は工房のポリシーとして刷りのみを行ない、製版にはノータッチだった。製版は気鋭の銅版画家O先生が協力して下さってようやく銅版画に本格的に取り組む体制が整った。それからの二年間はもう版画一筋、先生は面白くて面白くてたまらないという感じで、昨日持っていった何枚もの銅版が翌日にはびっしりと描き込まれているといった具合で、私たちは次から次へと 100枚を越える銅版を先生のアトリエに持ち込んだのだった。

技法的にはエッチング(腐蝕銅版画)が多かったのだが、これは銅版を力をこめて刻むのではなく、銅版に薄く挽いたグランド(防蝕膜)の上からニードルという鉄針で軽く描画しグランド層をはがす技法である。はがれた所だけが薬品で腐蝕される。腐蝕された溝にインキを詰め、プレス機で紙に刷るのである。従って銅版を直接刻むビュランやドライポイントとは異なり、一本の線の始点から終点まで、均一な力でグランドをスーとはがさなければならない。先生は専門の版画家ではないから、紙に鉛筆やペンで描くのと同じ調子で夢中になってニードルを使われてしまう。その結果グランドが綺麗にはがれず、一本の線だけならまだしも、沢山の線が描かれる場合など、いざ製版すると線と線とが交差する点がみなつぶれてしまい、ぐちゃぐちゃになってしまうのである。試刷りをお持ちすると先生は嬉しそうにご覧になるのだが、細い線一本一本が見事に交差する長谷川潔先生の銅版画を指標としていた生意気ざかりの私はどうしてもつぶれた線が気に入らない。版元の強権でそれらの版をみなボツにしてしまったのである。

それから何年も経って、現代版画センターを潰してしまった私は妻と二人だけで「ときの忘れもの」というギャラリー&編集事務所を始めたのだが、あるとき街で可憐な程に美しく手彩色された銅版画を見かけたのだった。それこそ私が数枚づつ試刷りをお持ちしたあげくボツにした版画ではないか。先生はご自分の作品はどんなものでもとても大切にされていた。ボツになった試刷り作品に丁寧に手彩色を加えて楽しんでおられたらしい。それが画商の目にとまり市場に出たに違いない。当時は不遜にもつぶれて醜いと思っていた線が生き生きと躍動している。細部にばかり拘り作品の生命を見抜けなかった未熟さ。懐かしさよりも恥ずかしさだけが胸を駆け巡った。清潔な描線、透明な色彩。なんて素晴らしい銅版画なのだろう。 先生の版画への情熱は九十歳を過ぎても衰えることはなかった。昨秋日本経済新聞社より刊行された『瑛九作品集』(*3)の編集者として私は先生の銅版画制作に再び関わることができた。病院のベッドで旧友瑛九に捧げた最後の銅版画「森の中の生物」に震える手でサインを書き入れて下さったのは亡くなる三週間程前だった。銅版画に始まり、そして銅版画で終わった先生との二〇年であった。

*1『難波田龍起全版画作品集』1998年 7月・阿部出版刊
*2「現代版画センタ-」は会員制による現代版画の共同版元として1974年 5月創立、
 綿貫不二夫が代表をつとめたが1985年 2月倒産。
*3『瑛九作品集』1997年10月・日本経済新聞社刊

この追悼文は、1998年 3月に東京オペラシティ文化財団より刊行された難波田龍起追悼文集『翔』のために書いた。難波田龍起先生には現代版画センタ-時代から版画を制作していただき、1995年 6月のときの忘れものの開廊記念展にも出品していただいた。

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難波田龍起「形象」
1978年頃 銅版手彩色 
E.A.のみ数部



難波田龍起「古代を想うA」
1991-95年 Ed.35 
銅版手彩色(1/35~20/35)



難波田龍起「昼と夜」
1978年 Ed.75 銅版カラー 20.0x15.0cm

 


ときの忘れものにて、
難波田龍起先生(写真左)
1995年11月。


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