画廊主のエッセイ
このコ-ナ-では、画廊の亭主が新聞や雑誌などに依頼されて執筆したエッセイを再録します。

萩原朔太郎と井上房一郎 TMOと群響を結ぶ音楽への夢

綿貫不二夫(63期OB)
2003年 8月

 今から100年前、前橋中学生だった萩原朔太郎が父から買ってもらった1台のマンドリンが、群馬交響楽団(群響)の、そしてわが 高崎高校マンドリン・オーケストラ(TMO)のルーツでした。

 現役部員の減少から2年間定演を中断していたTMOは、2000年8月全国に散らばるOBたちを再結集して創立40周年記念第33回定期演奏会を復活することができました。
 あれから3年、部員激増とまではいきませんが、何とか今年も定演開催に漕ぎ着けることができました。
のみならず 、特別ゲストに群響首席奏者の秋葉美果さんをお迎えするという夢のようなステージが実現することになりました。かつて群響の指揮をつとめた塩谷明先生をゲスト指揮者に、群響団員だった矢吹けさみさんにも賛助出演していただきます。
   秋葉さんはじめゲストの皆さんへ感謝と敬意をこめて、萩原朔太郎(1886~1942)と井上房一郎(1898~1993)という二人の先人の播いた種が遺伝子のように、群響へ、そしてTMOへと伝わっていった軌跡をご紹介します。 県内で最も長い歴史をもつマンドリン合奏団であるTMOとはいえ、わが国初の地方オーケストラとして1945年に創立された群響と何の因縁があるのかといぶかる方もいらっしゃるでしょう。TMO40周年記念誌に中屋洋一君(72期OB)が執筆した「マンドリン小史 マンドリンの誕生からTMO第1回定期演奏会まで」をもとに、TMOと群響を結ぶ歴史の糸を、年表ふうに綴ってみましょう。

1903(明治36)年 前橋中学に在学中だった萩原朔太郎は、東京銀座の十字屋楽器店が輸入した3台のマンドリンのうち1台を父に買い与えられます。卒業後、熊本五高、岡山六高、慶應をいずれも中退しますが、「東京に放浪す。この間音楽家たらんと志し」(自伝)、当時のマンドリン界の指導者・比留間賢八らにマンドリン、ギターを習い、やがて帰郷し音楽と詩作活動を併行して展開します。

1915(大正4)年     朔太郎は前橋で音楽愛好家を集め「ゴンドラ洋楽会」(のちの「上毛マンドリン倶楽部」)を創立し、再び上京するまでの約10年間、自ら指揮者として県内各地で熱心に演奏活動を行ないました。1917(大正6)年処女詩集『月に吠える』を刊行した朔太郎は、群馬におけるマンドリン音楽、ひいてはクラシック音楽の先駆者でもありました。「群響」誕生の母体のひとつにもなった上毛マンドリン倶楽部ですが、朔太郎の上京後は斎藤総彦氏らに引き継がれ、そのメンバーには後述する藤沢林太郎氏らがいます。

1916(大正5)年 井上さんが高崎中学を卒業(15期、この文章では「井上房一郎」については以降「井上さん」と記す)。
早稲田大学に進みますが、やがて高崎市公会堂で県内初のレコードコンサートや、生涯の師と仰いだ山本鼎(1882~1946)の唱道する自由画教育の展覧会、さらには大正デモクラシーを代表する言論人・吉野作造の講演会などを開催します。その活動に関心を抱いた朔太郎が井上さんを訪ねたのもこの頃です。

1923(大正12)年 井上さんはフランスに留学。
1930(昭和5)年に帰国。

1931(昭和6)年頃 群響初期のメンバーとなる住谷昇三氏らが高崎で「リリアン・マンドリンクラブ」を結成。

1934(昭和9)年 高崎のリリアン・マンドリンクラブは前橋の上毛マンドリン倶楽部と合流。後に群響事務局長として活躍する丸山勝廣氏もテナーとしてメンバーのひとりでした。その後、高崎側のメンバーが中心になってヴァイオリンなどを加えて「高崎音楽協会」を結成し、井上さんは副会長に就任します。
戦争中は井上さんを団長とする「翼賛壮年団音楽挺身隊」と名を変え、戦後の「高崎市民オーケストラ」(群響の前身)へと発展していきます。

1942(昭和17)年 朔太郎死去。

1945(昭和20)年 終戦から間もない11月、群響の母体「高崎市民オーケストラ」が結成され、井上さん夫妻の仲人をした作家・有島生馬(有島武郎の弟)の甥・山本直忠氏が常任指揮者に就任します。
翌年「群馬フィルハーモニーオーケストラ」と改称され、井上さんは理事長に就任し(~1963) 、物心両面から群響を支えました。前橋中学出身の小林桂樹さんが出演した映画「ここに泉あり」は、群響初期の情熱と苦闘を伝えて多くの人に感動を与えました。私のような標高815mの山の小学生でも、群響の移動音楽教室で初めてクラシック音楽に触れることができました。

1960(昭和35)年 高崎高校の文化祭である翠巒祭で数学教師の上條乃夫彦先生がマンドラという楽器でロシア民謡「灯」を独奏されたのをきっかけに5人の高校生がTMOを結成。
翌年、群響の本拠として群馬音楽センターが完成します。当時、井上さんは毎日のように学校に来られ、自ら植えた数百株の薔薇の手入れをし、音楽部や美術部の後輩の面倒を見てくださっていました。未熟な私たちのために前述の藤沢林太郎氏、住谷昇三氏を紹介してくださり、両氏の指導を受けることができました。群馬県で戦後初のマンドリン・オーケストラとして結成されたTMOは、いわば朔太郎の孫弟子にあたります。
因みにTMO創立の数年後、朔太郎の母校・前橋高校にもマンドリンクラブが誕生した。

1966(昭和41)年7月29日 群響の定演会場でもある群馬音楽センターでTMO第1回定演を開催。満員の観客席には既に高々を去っていた上條先生、そして井上さんの姿がありました。当時同センターの1階正面は食堂になっており、定演のときの昼食はいつも井上さんが全員にカレーライスをご馳走してくださったものです。
その後も定演はもちろん、新年会や3年生の送別会などに井上さんは時間を割いて出席してくださいました。

1993(平成5)年 井上さん死去。群馬音楽センターでの盛大な葬儀では群響のメンバーが別れの演奏を捧げました。
享年95の大往生でした。 

 このように、群響の創立を支えた井上さんは、私たちTMOにとっても創立者の上條先生とともに大恩人です。
 井上さんは日本を代表する文化のパトロンでした。事業家・井上保三郎の長男として生まれ、早くから文化・社会活動に参加します。フランスに留学し、建築や美術、音楽を学ぶ一方、ヨーロッパの近代思想に触れ、1927年にはサッコとヴァンゼッティの処刑反対デモに参加し拘留されるということもありました。自由を尊ぶ精神は筋金入りでした。
 帰国後は家業の土木建築業を継ぐかたわら、美術、音楽の啓蒙運動を展開します。ナチスの迫害を逃れ来日した建築家ブルーノ・タウト(1880~1938)を高崎に招き庇護したのも井上さんでした。
 少年の私たちに語ってくれた井上さんの夢は「音楽、美術、哲学する場」を高崎に作ることでした。
群響の創設に関わり、その本拠として1961年にアントニン・レーモンド(1888~1976)設計による群馬音楽センターを完成させました。さらに、1974年には長年かけて集めたコレクションを寄贈し、設計者に若き日の磯崎新氏(1931~ )を抜擢して群馬県立近代美術館の開館に尽力されました。
最後の夢「哲学堂」は生前には実現しませんでしたが、私たちが高校生の頃、しょっちゅう呼ばれ居間で演奏したこともある八島町のご自宅が、没後「高崎哲学堂」として保存公開され、内外の市民団体・文化団体の活動の場として活用されています。東京麻布笄町にあったレー モンド自邸をコピーしたもので、レーモンド建築の粋を知ることのできる貴重な木造建築です。
 今から思うとTMOの草創期は、不幸なことに井上さんと群響との関係がぎくしゃくしていった時期と重なります。井上さんが群響に託した夢の激しさは、当時の高校生にはわかりませんでしたが、少年たちの未熟だがひたむきな演奏にきっと何かを感じて応援してくださったのだと思います。
 萩原朔太郎と井上房一郎、二人の夢の軌跡に私たちTMOも連なっていることは密かな誇りですが、今度は私たちが新たな夢を紡ぎ、次の世代の人たちに伝えていかなければと強く思います。


1964年当時のTMO部員と、井上房一郎氏(中央眼鏡の老紳士)。右端で俯いている紅顔の美少年が綿貫不二夫です。


2003年8月10日、TMO第36回定期演奏会、於・高崎市文化会館。真ん中、最後列、団旗の右端に立つ<たこ入道>が40年後の厚顔の綿貫不二夫です。

*2003年8月10日 高崎市文化会館で開催された「高崎高校マンドリン・オーケストラ第36回定期演奏会」パンフレットに所収、主催/高崎高校マンドリン・オーケストラOB会
綿貫不二夫





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