ときの忘れもの ギャラリー 版画
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小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」
第11回 古着を見つめる視線  2014年5月25日
季節の変わり目の衣替えの時期になると、娘の洋服や下着を仕分けて、サイズが小さくなったものを整理します。娘より年下のお子さんがいるお友だちにお譲りすることもありますが、大半のものは、何度も洗濯を繰り返して、生地の色も褪せたりくたびれたりしているので、拭き掃除用の布として使った後に処分しています。私自身が縫ったり編んだりした洋服やセーターなどは、作った過程の記憶も含めそれなりに思い入れもあるのですが、使い途がなくなると抜け殻のように持て余してしまいます。子どもは成長する過程で、脱皮を繰り返すように着る服を換えてゆき、親の方は、過ぎた時間の抜け殻のような洋服を後始末していくのでしょう。子どもの服を処分する時は、自分自身が着古した服を処分する時とはまた別に、子どもと関わった時間も含めて振り返るが故の感慨も湧いてくるように思います。

(図1)
オノデラユキ
「古着の肖像」No. 38, (1996)

(図2)
オノデラユキ
「古着の肖像」No.46, (1997)

着古した洋服を、過ぎ去った時間の記憶に重ね合わせて眺めるときに思い浮かぶ作品として、オノデラユキ(1962-)の「古着の肖像」というシリーズ作品があります(図1、2)。この作品は、オノデラが活動拠点をパリに移して間もない頃に制作したもので、モンマルトルのアパルトマンの窓から見える空を背景に、室内の白い壁全体にフラッシュをたき、光を反射させて約50点の古着を撮影しています。重たい雲の立ちこめる空を背景に、雲間から漏れる光とフラッシュの光に照らしだされた洋服の布の厚みやディテールが、かつてその洋服を着た、写真には写っていない人の身体の気配を帯びて佇んでいます。
一連の作品は子どもの洋服(図1)も、大人の洋服(図2)も、画面の中で同じ位の大きさを占めるように撮影され、1メートル四方を超える大きなプリントとして制作されています。したがって、作品を並べた展示風景(図3)を見ると、それぞれの洋服が実物とは全く異なるスケールで立ち上がり、子どもの服がより大きく手前に迫ってくるようにも感じ取られます。

(図3)
オノデラユキ 写真展
(東京都写真美術館)

(図4)
クリスチャン・ボルタンスキー
「No Man’s Land」(ニューヨーク、the Park Avenue Armory、2010)

「古着のポートレート」で撮影された古着は、1993年にパリで開催された現代美術家のクリスチャン・ボルタンスキー(Christian Boltanski, 1944-)の個展「Dispersion(離散)」で展示されたものです(展覧会を見に来た人たちは山積みされた古着を10フラン払って袋一杯もちかえることができたそうです)。ボルタンスキーは、世界各地で写真や古着などを用いた大掛かりなインスタレーション作品(図4)を制作することで知られていますが、彼の作品の中で古着は、無名の人々の生と死、記憶、自然災害やホロコーストのような歴史的な災難を象徴的に表すための素材として用いられています。
ボルタンスキーのインスタレーションに使用された古着の由来に照らし合わせてみると、オノデラが一点一点の古着をポートレートとして撮影した背景には、山積みの古着によって表されていた「無数の名もなき人々」の中から、個の人間の存在を引き出す意図があったと言えるでしょう。クリスチャン・ボルタンスキーとオノデラユキの作品のなかで、古着は過去の記憶や歴史的な出来事、人の存在に対して想像を巡らせるように促すための手がかりとして差し出されており、そこからどのようなことを想像するのかは観る側それぞれに委ねられてもいるのです。

(図5)
石内都『ひろしま』より
防空頭巾 ワンピース

歴史的な事件や災害を経た人の身に着けていた遺品としての古着は、後にそれを見る人間にとって、歴史的な事実の証拠が刻み込まれたものとしての重みを帯びます。遺品を見つめ、その持ち主がどのように生き、そして亡くなったのかということを推し測ることで、その事件や災害を人々がどのように経験したのかということを、より肉薄して感じ取ることができるのです。
遺品としての古着に対峙した際立った作品として、石内都が広島の原爆資料館に収蔵されている、被爆者が身につけていた洋服や装身具、靴などの遺品を撮影した『ひろしま』が挙げられます。石内は遺品の一部を特注のライトボックスの上に置いて撮影し、布地の模様やテクスチャー、縫い目、裂け目、血痕、焼け焦げの跡を丹念に写し取り、遺品の全体だけではなく細部に刻み込まれた被爆の痕跡を捉えています。ライトボックスの光に照らし出されたこれらのディテールは原爆の壮絶な破壊力を印象づけると同時に、被爆を経てもなお鮮明に残っている絵柄や縫い目のような細やかな手仕事の跡を浮かび上がらせています。子どもや若い女性が身につけていたと思われる防空頭巾(和服の生地を仕立てなおしたもの)やワンピースのような遺品(図5)は、身につけていた人の存在だけではなく、それを仕立てたのであろう母親の存在を色濃く漂わせているようにも思われます。

(図6)
シャノン・ジェンセン
「長い道程」より
難民たちの履きつぶした靴

(図7)
ムサ・シェプ(2歳)
南スーダンのガバニット村からの難民
20日間以上かけて南スーダンの北側の国境に辿り着いた。

石内都のように、今は亡き人たちと対話するように遺品を見つめる眼差しは、現在も世界各地で頻発する紛争が生み出した無数の犠牲者たちの存在に目を向け、その声に耳を傾ける写真家の姿勢にも通底するものがあります。アメリカのフォトジャーナリスト、シャノン・ジェンセン(Shannon Jensen) は2012年に、南スーダンのルーナイル州、ブルーナイル州、南コルドファン州の難民キャンプを訪れ、「長い道程(A Long Walk)」(図6)というシリーズを制作しています。このシリーズは、難民の姿を直接捉えたものではなく、紛争から逃れ、何日もかけて歩きキャンプに辿りついた難民達の履きつぶした靴をキャンプの地面の上で捉えたものです。左右別々のサンダル、つぎはぎや紐で補強され辛うじて靴としての体をなしているもの、靴底の一部がすり減ってなくなったものなど、それぞれの靴のディテールが、難民たちが命がけで逃れてきた過酷な道程を物語っています。
それぞれの写真には、難民の名前や年代、歩いてきた日数がキャプションとして添えられており、具体的な経緯や体験談を含む報道のストーリーよりも、「難民」という経験の過酷さが、靴というものの中に凝縮され、雄弁に語っています。とくに幼い子どもが履いていた靴(図7)は(子どもには自らの経験を十分に言葉で伝えることができないだけに、見る者の目を釘付けにするようなインパクトを具えています。写真を見る側にとっても身近な靴が地面の上に置かれて捉えられることによって、紛争や難民が遠い国の出来事としてではなく、地続きの場所での経験として読み取られることになるのです。古着や靴のような身に着けるものに向ける眼差しは、歴史や社会の問題を自分自身や身近にいる子どもの存在にひきつけて考え、想像を巡らせるための手掛かりを与えてくれるのではないでしょうか。
(こばやし みか)

小林美香 Mika KOBAYASHI
写真研究者。国内外の各種学校/機関で写真に関するレクチャー、 ワークショップ、展覧会を企画、雑誌に寄稿。
2007-08年にアメリカに滞在し、国際写 真センター(ICP)及びサンフランシスコ近代美術館で日本の写真を紹介する展覧会/研究活動に従事。
著書『写真を〈読む〉視点』(2005 年,青弓社)、訳書に『写真のキーワード 技術・表現・歴史』 (共訳 昭和堂、2001年)、『ReGeneration』 (赤々舎、2007年)、 『MAGNUM MAGNUM』(青幻舎、2007年)、『写真のエッセンス』(ピエブックス、2008年)などがある。

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