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駒井哲郎を追いかけて 第1回〜第10回
第11回〜第20回>

呑まれてしまった原版〜駒井哲郎を追いかけて第10回

駒井哲郎「夜に」 駒井先生が手がけた作品は油彩、水彩、銅版画、リトグラフ、木版画、モノタイプなど多岐にわたりますが、総数がいったいどのくらいになるのか、実はいまだによくわかりません。
正確なレゾネがないからですが、これも繰り返し展覧会が行われていくうちには段々と究明されていくでしょう。
 いままで最も大規模な展覧会だったのは、1980年に上野の東京都美術館で開催された「駒井哲郎銅版画展」ですが、その図録には409点が収録されています。うち銅版画は357点。
このとき、駒井哲郎の銅版画を可能なかぎり集め展示しようと関係者が尽力したことは、その展覧会名からもあきらかですが、美術館はもちろん遺族のもとにもない作品が少なくありませんでした。
そのため「出品作品の一部はこの展覧会の為遺族の許可をえて関係者の刷った後刷りの作品です。」(同図録凡例より)という注記からわかるように、没後の後刷りがされました。
 
 ちょっとわき道にそれますが、このときの図録は古書価も高く、駒井哲郎研究には欠かせない便利な文献ですが、残念な欠陥がある。大部な図録なのに「ページ」の記載がない!
だから引用しても「何ページから」という記載ができない。不便です。

 それはともかく、当時現物がなかった作品は遺族のもとにあった原版から後刷りしたので、全部をカバーできたはず、と思うのは素人の・・・・
実は「原版」そのものが失われてしまったものが少なくない。
 駒井哲郎先生は、この連載の<「束の間の幻影」はいったい何枚刷られたか>の項でご説明したとおり、生前ご自分の作品を何回も刷る(セカンド・エディション)ことを躊躇しなかった。むしろ諸般の事情(経済的など〜)から積極的に後刷りをしたふしもあります。
また見込みのある弟子に原版を預け、勉強のためか後刷りさせたこともたびたびありました。
 特に評価の高かった(需要の多かった)1940〜50年代の初期名作のうち、例えば「丸の内風景(1938)」「足場(1942)」「束の間の幻影(1951)」等はその後何度も刷られ(セカンドエディション)、市場にも出ます。版も遺族のもとに残されています。
 ところがある種の作品についてはほとんど市場に出てきません。ここで具体的な作品名を挙げたいのですが、駒井作品を商売にしている以上、企業秘密というものがある。
申し訳ありませんが、これは勘弁してください。
 なぜ市場に出てこないか。「原版」そのものが失われてしまった可能性が非常に高いのですね。したがって、ある種の作品に関しては、駒井先生自身の後刷りももちろんありません。
 つい先日、名編集者としてならしたM先生にお会いする機会があり、そのことをお話したところ、「そういえば 駒井さんに名作●●●●●について取材したことがあり、版はどうしたかと尋ねたら、駒井さんが呑んじまった、といってたなあ」というたいへん貴重な証言をいただきました。
えっ呑んじまった?
 いまの人にはおわかりにならないでしょうが、私も子どもの頃、銅線(あか)を拾って集め屑屋にもっていくと、結構なお小遣いになった記憶があります。
 製版された<銅版>を売るということはあの当時ならあり得ました。
駒井先生はいつも呑み代に困っていたので、ご自分の銅版の原版を作品としてではなく、ただの物体として売り払ってしまったということでしょう。
〜ん、なんともったいないことを・・・・


新発掘の初期作品〜駒井哲郎を追いかけて第9回

駒井哲郎「風景」初期新発掘駒井哲郎「風景(仮題)」 制作年不祥 銅版(エッチング)
15.9×10.3cm(シート21.5×15.3cm) 鉛筆サイン(T.Komai)
*レゾネ未収録

 長年、駒井哲郎作品を扱ってきましたが、「世紀の大発見」といえるような幸運に恵まれたことがいくつかあります。
その中で、「よくぞ出て来た」と思った逸品をご紹介します。私が調べた範囲ではどの文献にも載っておらず、新発掘の作品です。

繊細な線、どこか淋し気な建物の佇まい、間違い無く駒井先生の最初期の銅版です。
師匠の西田武雄の影響もはっきりと見てとれるもので、恐らく10代のころ、または20代はじめの作品だと思います。
従来全く知られていなかった作品です。絵の内容から推測して実際にある風景の写生がもとになっていると思われます。駒井家周辺に詳しい人が見れば、場所を特定できるかも知れません。

 ごく初期に作家の周辺にいて、重要な役割を果たした方が作品を所蔵していたことがわかっていても、実際にそれが出てくることは稀です。
 数年前、5点一括で出てきた作品の中の一点で、他の作品に記載された献辞から旧蔵者が、Hさんと特定できました。名作「R夫人」のモデルとも擬された方です。
 Hさんと駒井先生の交流については、1999年に美術出版社から刊行された加藤和平・駒井美子編『駒井哲郎 若き日の手紙 「夢」の連作から「マルドロオルの歌」へ』に詳しく綴られています。この本は、Hさん宛私信を所蔵する加藤氏が「清書」したものをもとにしているため、正確度、資料性という点で若干疑問符がつくのですが、1950年前後の駒井先生の創作の経緯が生々しく叙述されており、出来上がったばかりの作品(試刷り)を次々に病床のHさんへ送り批評を求めたことが詳しく書かれています。
 Hさんは女子美出で、高名な建築家夫人、画家としても活躍し、素顔社という女子美出身者のグループに属していました。
 駒井先生が初めてHさんを訪ねたのは1940年(昭和15)8月、20歳を迎えたばかりで、以後約10年にわたり「無名のころから才能を認め励ましてくれた唯一の人」として交流が続きます。
 「当時彼が手がけていた作品のすべてについてその試刷りを、ときには未完成段階の作品の試刷りまで夫人に送って、彼女の批評を乞い、彼女の批評によって励まされ、教示を懇願している。」(中村稔、前掲書32頁)というような親密な、ある意味師弟のような関係だったようです。
 Hさんが駒井先生の初期の創作活動に及ぼした大きな影響力は、駒井先生の生前には周辺の噂話程度でしか知られず、前掲書で公開された駒井先生の私信で初めてその具体的な状況が明らかになったわけで、駒井研究にとってこの時期(1940〜1951年)の検証が今後はたいへん重要になってきます。
 この新発掘の作品は、前掲『駒井哲郎 若き日の手紙』で明らかになった「当時彼が手がけていた作品のすべてについてその試刷りを、ときには未完成段階の作品の試刷りまで夫人に送っ」た事実を裏付ける実物ということができます。
 空白の初期を明らかにする「文献と実物」がともに揃ったことになるといえるかも知れません。


駒井哲郎と日本橋〜駒井哲郎を追いかけて第8回

 駒井哲郎先生は1920年(大正9年)6月14日、東京市日本橋区魚河岸(現在の東京都中央区日本橋室町1丁目)に生まれました。10数代続いた扇子問屋の家系ですからちゃきちゃきの江戸っ子です。明治維新で扇子を持つ侍が廃業となり、駒井先生が生まれた頃は、魚河岸で氷問屋(長谷川氷室)を営んでいました。
戦争で日本橋の店も焼けて、世田谷へ移りますが、本籍はずっと日本橋においたままでした。日本橋への思いは格別のものがあったのでしょう。

 その日本橋界隈をテリトリーとするタウン雑誌『日本橋』の3月号(通巻323号)が、何と15頁にわたる駒井哲郎特集を組みました。
カラー図版を含み作品紹介も豊富。夫人の駒井美子さんの「日本橋つ子だった駒井哲郎」、不忍画廊の荒井一章さんの「駒井哲郎と不忍画廊」をはじめ「駒井哲郎が描いた日本橋」、「駒井哲郎の生まれたところ」、「魚河岸に駒井商店があった頃」「世田谷美術館福原コレクション」、「駒井哲郎の本」、「人物語 福原義春/駒井哲郎のコレクターとしても名高い」など、読み物も充実しています。
日本橋近辺の商店などで配付しているでしょうから、お近くの方はぜひ入手して下さい。


タウン誌「日本橋」12


「束の間の幻影」はいったい何枚刷られたか(5)〜駒井哲郎を追いかけて第7回

 なかなか纏まった時間がとれずすいません。
そろそろ結論に入りましょうか。
名作「束の間の幻影」は今まで見て来た公刊された資料によれば、少なくとも70部は刷られたようです。これはレゾネなど各資料に明記された限定部数を単純に足した数字が根拠です。

しかし、駒井先生の時代の限定部数には以下のようなやっかいな場合もあります。
駒井先生の没後の1979年、美術出版社から刊行された『駒井哲郎版画作品集』には366点が収録されており、生前の『駒井哲郎銅版画作品集』に漏れたものやデータの遺漏を修正しています。
近くにいらした加藤清美先生がこの『駒井哲郎版画作品集』の中で重要なことを書かれています。以下< >内が引用です。

<初期作品など、限定総数のすべてが市場に出たとは考えられないものもあり、また第一の限定数未満で打ち切られ、第二の限定に移った作品もあると思われる。>

 困りましたねえ。ここでいう<初期作品など>に「束の間の幻影」も含まれるとしたら、私が前述した「少なくとも70部は刷られた」という根拠自体が怪しくなってしまいます。
加藤先生の上述の文章は私たちプロにはすぐに合点がいくことなのですが、一般の方には何のことかおわかりにならないでしょう。

 駒井先生のみならず、版画家にとって1950年代の日本には制作をサポートしてくれる版元や工房が少なく、また画商による版画の流通システムも、市場自体も非常に未成熟でした。
どういうことが起こるかといいますと、作品に記入された限定部数の分母は必ずしも実際の刷り部数を反映せず(つまりいっぺんに限定部数を刷るということは稀でした)、版画家たちは注文に応じて少しづつ刷って、その都度次の限定番号(分子)を記入していくという具合でした。
 駒井先生のような若くしてスターになった作家ですらそうだったようですから、まして売れない版画家たちは、例えば限定50部と記入されていても、50部を一度に刷り切ることなんかなかったわけです(売れないのに刷っても紙代はかかる)。
実務的な版画家や、優秀なマネージャー(多くは夫人)がいて、きちんと限定番号の記録をノートしておけば問題はないのですが、長年のあいだには記録の漏れや紛失も起こることもあるでしょう。ついつい記録をしそびれることもあるかも知れない。
そうなると、何番まで刷ったかわからず、結局<第一の限定数未満で打ち切られ、第二の限定に移>らざるを得ない状況になります。駒井先生もそういうことがあったと、加藤清美先生は証言しておられるわけです。

 駒井先生は1954年のパリ留学時にはこの「束の間の幻影」の原版を持参し、パリでも刷っていました。記録にはない「Ep.」もきっとあったに違い無いと私は推測しています。
こういう話しをやり出すときりがありませんね。
 結論は、名作「束の間の幻影」は何度も刷られた、その部数は70部前後、もしくはそれ以上刷られたのではないか。にも拘わらず、この作品の評価は益々高騰している、ということでどうでしょうか。


「束の間の幻影」はいったい何枚刷られたか(4)〜駒井哲郎を追いかけて第6回

6119392e.jpg『沈黙の雄弁』
お客様にお貸しした『沈黙の雄弁』という本が戻ってきたので、御紹介します。
先ず、奥付ですが、

  沈黙の雄弁
  二〇〇五年十一月二十日発行
  著者  駒井哲郎
  著者  駒井美子
  発行者 大竹正次
     *
     製作 校倉書房
     非売品

以上です。他に何も記載されていません。
縦245×横197×厚さ45mmの白い箱に入った667ページの分厚い本です。
駒井哲郎先生の命日に出され、関係者に配られた非売品です。
この駒井先生が書かれたたくさんの文章を可能な限り集めた「駒井哲郎文集を編輯」したのは河口清巳という方です。
この本に関する説明は機会があったらそのうちするとして、657ページから始まる長い『編者あとがき』に「束の間の幻影」について、触れられているのでご紹介します(< >内が引用」。

<(前略)
一九六六年九月二十六日、ギャルリー・エスパースで安東次男との詩画集の展覧、詩人のイメージのなかに飛ぶ雲はじつは画の詩人駒井哲郎のイメージ。食卓のパンは厳しい、。聖者のイメージである。詩より画、断然すぐれている。
この年五月このギャルリーで駒井哲郎先生に初めて会っている。そのときは旧作のはなしを少しする。
(中略)
この詩画集の報酬、画家の取分を詩人にもっていかれたしまったらしい。詩人はあるとき、画家のもっている長谷川潔の作品を詩人自作の色紙を交換しようといってとりあげる。画家は弱り切って悲しい目で夫人の顔を見る。物質の格差は子供が見ていても、ずるい、とわかる。畏友の社系詩人は画家の恩恵に浴し切っている。
駒井先生一、二週間して、とられた分を埋めるように「束の間の幻影」を、おそらく三十枚は刷ってこられた。包装をとり、真白に光るような紙束を、はだかのままギャルソンがトレイをもつように、きれいな五本の指で支えて大事そうにエスパースに渡す。主人、二十万円です、といって払う。画家「迷惑をおかけします」といい受けとり、折って内ポケットに入れる。「迷惑じゃないか」と呟く。
(中略)
駒井哲郎の名作「束の間の幻影」の価格は二万円であった。常客の克誠堂社長によれば、画商は画家に五千円払うということであった。
(以下略)>

以上が『編者あとがき』の一部の引用です。ギャルリー・エスパースの詩画展とは『人それを呼んで反歌という』の発表展だと思いますが、生々しいですね。私は編者の河口さんという方は存じ上げませんが、こういう証言を読むと駒井先生が「気軽にセカンド・エディションをした」なんてとても言えません。前言は撤回します。先生の苦衷を思うと、切ない気持ちになります。
この証言にあるように、原版制作から15年ほど経った1966年時点で「束の間の幻影」が「おそらく三十枚」刷られたようです。それにはどのような限定番号が入っていたのでしょうか。アラビア数字か、ローマ数字か、はたまたEp.だったのでしょうか。
東京都美術館の図録に記載された<Ed 20, 30, ?, E.A.10>のいずれかに該当したものでしょうか。それとも全くの別のエディションだったのでしょうか。


「束の間の幻影」はいったい何枚刷られたか(3)〜駒井哲郎を追いかけて第5回

閑話休題
前回、レゾネや東京都美術館図録などを援用して、「束の間の幻影」が最低でも70枚は刷られたらしい、と述べましたが、駒井先生が生前、セカンド・エディションを気軽に(?)おやりになっていたことは、コレクターの方々はともかく、画商の間では周知のことでした。繰り返しますが、私はそのことが悪いなどと言っているのではありません。
作品はその質で勝負すべきで、限定部数を過度に重要視することには反対です。
では名作「束の間の幻影」は最終的にはいったい何枚くらい刷られたかのでしょうか。
私なりの推測の数字はあるのですが、最近ちょっと面白い文献に触れたので、ぜひそれをご紹介しようと思っていたのですが、駒井ファンのお客さまがぜひ読みたいとおっしゃってその本を貸してしまいました。かえってくるまで、しばらくお待ち下さい。


「束の間の幻影」はいったい何枚刷られたか(2)〜駒井哲郎を追いかけて第4回

 前回掲載した「束の間の幻影」の限定番号は<Ep>です。
駒井哲郎の文献にはどのように説明されているかをみましょう。
駒井先生の生前昭和48年11月30日付で美術出版社から刊行された最初のレゾネ「駒井哲郎銅版画作品集」には、
29 束の間の幻影 アクワチント 18.0×29.0cm 1951 
  限定30部(1/20-20/20, I/X-X/X印刷) E.A.

と記載されています。
う〜ん、難しいですね。つまりこれをそのまま読むと、この生前のレゾネ刊行時の1973年時点での駒井先生自らの記録によれば、2回にわけて20部(1/20-20/20)と10部(I/X-X/X)が刷られ、その他にE.A.が何部かあることになる。

次に、没後の1980年の大回顧展、東京都美術館「駒井哲郎銅版画展」図録には、
36 束の間の幻影 アクァチント 18×29cm 1951 
  Ed 20, 30, X, E.A.10
と記載されています。
ますますわけがわからなくなる。
相当の部数が増えています。生前のレゾネの記載が間違っていたのか、それとも1973年の刊行後から亡くなる1976年までの間に、新たに刷ったのか。これだけではわかりません。単純に計算すると、20+30+X+E.A.10=70部となります。

それでは、私の手許にある資料から実物の限定番号を拾ってみましょう。
1)東京都現代美術館
  同館は2点所蔵しており、<Ep.>と<V/X>です。
2)埼玉県立美術館
  図録を見ると<E.A.>と記載されています。
3) 町田市立国際版画美術館
  図録を見ると<IV/X>です。
4)福原コレクション
  世田谷美術館に寄託されており、<Ep.>です。
5)佐谷画廊
  同画廊が1999年5月に展示したリストには、<III/X>と記載されています。
6)不忍画廊 2001年6月 
  同画廊が2001年6月に展示したリストには、<E.A.>と記載されています。
  尚、4)と6)の作品は別のものです。

(私はマックで書き込みしているのですが、ローマ数字がウインドウズでは文字化けしてしまいます。III/Xなどと記載したのはアルファベットで代用したためです)
上記の資料でお分かりの通り、駒井哲郎「束の間の幻影」という名作は、1951年に原版が制作され、その後何度も番号入りや、Ep.が刷られました。
最低でも70部は刷られたことになります。
ではそれだけか?


「束の間の幻影」はいったい何枚刷られたか(1)〜駒井哲郎を追いかけて第3回

fbf61b99.jpg「束の間の幻影」はいったい何枚刷られたか

 駒井哲郎の代表作はと問われたら1951年の「束の間の幻影」と答えるのが、まあ常識だと思いますし、画商として言えば、この作品が最も高いということは間違いありません。
昭和26年4月の第28回春陽会に出品され、会員に推挙。同年秋の第一回サンパウロ・ビエンナーレで受賞、駒井先生の出世作となった作品です。
 私も何度か扱いましたが、額の裏に貼付するシールにはレゾネに従って「1951年作 銅版 限定20部(E.A.)」というように記載してきました。
この記述は間違いではないのですが、正確かといわれると、はなはだ心許ない。
駒井哲郎の「限定部数」というのは実に難しいのです。
少しでも駒井作品に詳しい方ならば、生前、駒井先生が人気作品をセカンド・エディション、あるいはサード・エディションというように、何度も後刷りをしたことは御存じでしょう。私が先生にお目にかかったのはもう晩年でしたが、あれほどのスター作家でありながら、版画を専門にする画商さんには必ずしも評判がよいとはいえませんでした。
なぜかと言うと、当時は(1970年代)まだまだ版画の地位は低く、例えば美術市場で圧倒的な力を誇るデパートは版画など見向きもしない時代でした。版画を置いているのは新宿の京王デパート(京王版画サロン)ただひとつでした。そういう中で、画商さんたちは版画の価値を油彩や日本画に負けないように必死に努力していました。その意義付けとして使われたのが「オリジナル版画」という言葉であり、「限定部数」という言葉でした。
「印刷と違い、限定部数しか刷りませんよ、だから価値があるのですよ」とアッピールしたわけです。
 
 ここで、1974年に版画の世界に入った私自身の「限定部数」に関する所見を述べておきます。
私が現代版画センターを創立して最初に発表したエディションは靉嘔先生の「I love you」でした。シルクスクリーン、限定11,111部、すべてに靉嘔先生のサインが入っています。
版画をイメージの共有という面から考えれば、テレビと版画は同じだ、靉嘔先生のこの言葉は忘れられません。だとすれば、何十億人が見るテレビと比べて「僅か11,111部」なんてゼロに等しい。
版画が問われるべきは、その質で、限定部数なんかではない。ずつとそう思ってきました。とはいえ、限定部数なんかいい加減でいいとは考えていません。いつ、何部刷ったかの「情報」はコレクターに対してきちんと明らかにされるべきだといいたいのです。
だから、当時から駒井先生が何度同じ作品を刷ろうといいではないか、と私自身は思ってきました。
さて、名作の誉れ高い「束の間の幻影」はいったい何枚刷られたのか、詳しくは次回に検証しましょう。



岡安常武詩集<GOLGOTHA >〜駒井哲郎を追いかけて第2回

da3bd9c0.jpg岡安常武詩集<GOLGOTHA>

 つい先日、手にすることができた「岡安常武詩集」について書いてみます。
まず実物を紹介する前に、駒井哲郎の文献にはどのようにこの詩集が説明されているかをみます。
駒井哲郎の生前昭和48年11月30日付で美術出版社から刊行された最初のレゾネ「駒井哲郎銅版画作品集」には、1935年の「河岸」から、1973年の「街」まで227点の銅版画が収録されており、この「GOLGOTHA」に挿入された作品のデータは以下のように記載されています。


52 鬼火 アクワチント 12.8×10.5cm 1953 限定15部
 (52-53 岡安常武詩集<GOLGOTHA>挿絵,歴程社,1953)

53 GOLGOTHA アクワチント 12.8×10.5cm 1953 限定15部

また同書149ページの年譜欄・詩画集,オリジナル版画集のところには、「岡安常武詩集<GOLGOTHA>15部 歴程社刊, 1953」

以上です。
作家自選によるこの最初のレゾネの記述が後に刊行される没後のレゾネや、東京都美術館の1980年の「駒井哲郎銅版画展」図録にも踏襲されています。これだけ読むとこの銅版画は1953年に15部が刷られたと思わざるを得ない。

もうひとつ文献を参照しましょう。
駒井没後の1982年に形象社から刊行された『駒井哲郎ブックワーク』は岩部定男さんが編集した268ページの労作で、駒井研究には欠かせない資料ですが、その91ページに<GOLGOTHA>の表紙と挿入された2点の銅版画、合わせて3点の図版が掲載され、以下のように説明がされています。

『岡安常武詩集GOLGOTHA』への銅版画による挿絵は二点。「古い程村紙・・・ それに雁皮をつかって、自分で造ったインキで印刷した。」という。柔らかい紙に、灰色調に近いインキでパステル画のような刷りであっつあ。奥付には限定五〇部とあるが、銅版画の限定部数の書き込みは一五部であった。定価三千円。

なるほど、図版を詳しく見ると作品左下に4/15と読める限定番号が記載され、作品右下にTetsuro Komaiの鉛筆サインがされています。前述のレゾネの説明よりは丁寧ですが、「奥付には限定五〇部とあるが、銅版画の限定部数の書き込みは一五部であった。」という記述もいまひとつ曖昧な説明ですね。詩集の部数が50部であり、うち15部に限定部数が記載されていると読めますが、では残りの35部に駒井哲郎の版画が入っていたのかいなかったのか、よくわかりません。

では実物を見ましょう。
駒井哲郎の銅版画が2点挿入されています。作品にはサインも限定番号も記載されていません。奥付を正確に引用しましょう。


GOLGOTHA
昭和28年4月5日印刷・昭和28年4月10日発行・50部限定・No.24(*数字は手書き)
著作者岡安常武・刊行者草野心平・印刷者松本昌平・印刷所両毛印刷株式会社
定価2,000円
刊行所東京都練馬区下石神井1.403 歴程社

以上が全文です、あっさりしたものです。
駒井哲郎の名は奥付にはなく、9ページ目にあたるところに「装画 駒井哲郎」とあるのと、61ページの後記に「最後に、一面識もなかつた僕に 陸離として蒼明を幻ずる、すばらしい銅版画を送つて下さつた駒井哲郎氏に深謝します。昭和二十八年二月二十七日記」とある二ケ所にあるだけです。
私が手にした詩集は限定50部のうちの24番と記されたものですが、挿入された2作品にはサインも限定番号も入っていません。作品名もどこにも明記されていません。

上述の文献類と実物を確認してやっとこの詩集がいくつ出されたのか、私はわかりました。

つまり、レゾネの記載は正確ではなく、
『岡安常武詩集GOLGOTHA』は限定50部が制作され、駒井哲郎の銅版画2点が挿入された。うち15部に自筆サインと限定番号(1/15〜15/15)が記入され、残り35部にはサインも限定番号もない銅版画が挿入された。サイン入りの定価三千円、サイン無しの定二千円。
ということになります。
挿入された2点の銅版画はその後、駒井先生がセカンド・エディションしていますが、それについてはあらためて論じましょう。


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連載開始にあたって〜駒井哲郎を追いかけて第1回

 ときの忘れものの生命線は、瑛九と駒井哲郎です。つまりこの二人の物故作家の作品で食っているわけです。
こういう乱暴な言い方をするからお前は駄目なんだと言われそうですが、たくさんの作品を動かし、それが営業の「定番」になっているという意味で申し上 げています。
 画商にはそれぞれ得手、不得手があり、たとえば私はアンディ・ウォーホルには強いがジャスパー・ジョーンズはあまり得意ではない。
同じように、駒井哲郎にはめっぽう強いが、浜口陽三はほとんど扱ったことはない。
創作版画や建築家の作品なら無条件で心躍りますが、いまどきのアニメ風作品にはからきし弱い、苦手です。
 得手不得手の原因ですが、第一に好き嫌いがありますね。好きこそものの上手なれ、好きな作家ならどんなことでも耐えられるし、また勉強も苦にならな い。
 第二に(これが重要ですが)それを買って下さるお客さまを持っているか。いくら熱心に勉強し、また作品をたくさん在庫していたところで、画商はコレクターではないので、売れなければしようがない。つまり顧客あっての得手不得手です。
誰よりもその作家を愛し、たくさんの在庫を抱えながら、残念ながらそれを買って下さるお客さまがいない、これこそ画商の悲劇です。そういう例は実はたくさんあります。私たちもそのすれすれのところで生きているといってもいいでしょう。
 さて本題に戻り、瑛九と駒井哲郎ですが、ご承知の通り瑛九に関しては年に最低一回は展覧会を開き、いつでも油彩、水彩、版画、フォトデッサンと豊富な在庫作品を皆さんにお目にかけることができます。
 片や駒井哲郎ですが、看板とはいいながらあまり展覧会も開かず、数点の在庫はいつもあるものの、瑛九ほどにはない。お前、それじゃあ「看板に偽りあり」ではないかと言われそうですね。
 理由は簡単です、駒井哲郎があまりにメジャーになり(つまり仕入れも高く、良い作品は入手困難)、私どものような貧乏画商では多数の在庫を長期間抱えることができないのです。というより入れば直ぐに売れてしまう。
 私にとっては瑛九も駒井哲郎も同じように大切な作家ですが、仕入れの困難さは月とスッポンほど違います。
 駒井哲郎の代表作、例えば「束の間の幻影」は今なら300万円〜400万円は優にするでしょう。市場に出てくれば必ず複数の画商が競り合うに違いありません。
「束の間の幻影」ほどでなくとも、駒井哲郎の400点近い銅版画の中で、既に2割前後の作品は100万円以上でなければ入手できないでしょう。
 片や瑛九、代表作「旅人」は先年銀座の某画廊が200万円前後で売ったという話しを聞きましたが、私自身は1974年から30数年、いまだに瑛九の版画を100万円以上で売った(売れた)ことは一度もありません。
これを簡単に言えば、駒井の秀作を数点買うだけで、瑛九の版画(リトグラフ、銅版)を最低20点、うまくすれば30点〜40点は買える。そのくらい違うわけです。

 比較はそれ位にして、私が駒井哲郎先生にお目にかかった1974年から今日まで、たくさんの駒井作品(銅版画はもちろん、水彩、モノタイプなど)を扱うことができました。中には新発掘の珍しい作品や、文献にはなかった新事実を作品を実際に扱うことで知ることができました。
 いずれ、それらのことは専門の研究者によって精査されるでしょうが、ここでは一画商が直接触れることのできた駒井作品の中から、今まで明らかにされてこなかった事実やエピソードを書き綴ってみたいと思います。
先ずはご挨拶まで。

                  第11回〜第20回>

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