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植田実のエッセイ 本との関係11

編集の内側

 前回の続き。私が社会に出るなり参加した月刊『建築』について、その履歴をまずまとめておく。
 1960年9月号 創刊 編集長・平良敬一。
 1961年1月号 編集スタッフに長谷川愛子の名が入る。
 1961年4月号 発行・槇書店の最終号。これを以て槇書店は『建築』から撤退。編集部が自立し、また槇書店の2人が加わって「建築同人」を立ち上げる。
 1961年5月号 発行・建築同人となる。編集スタッフに宮嶋圀夫の名が入る。
 1961年8月号 建築同人を「青銅社」と改名。
 1963月7号 平良敬一、長谷川愛子の名が消える。2人は鹿島出版会に。
 1966年8月号 この号をもって植田は青銅社を退職、翌年に鹿島出版会に入社。
 『建築』はその後75年まで宮嶋編集長の下に続けられる。

 雑誌の内容にはまるで触れず、発行元の変遷と編集者の出入りだけという、第三者にはほとんど意味のないデータである。だからここは読み飛ばして下さっていい。あとで参照していただくことがあるだろう。

 前回紹介した企画メモにあるように、『建築』は隔月ごとに「architect(or engineer)」の特集を行った。1960年9月創刊号は増沢洵、11月号は横山公男、61年1月号は構造家の坪井善勝という具合で、当時の私には、どの人にも作品(撮影助手として訪ねた)にも興味が尽きなかったが、現在の眼で見直してもその人選と構成はとても冴えていたと思う。編集長と編集委員(編集同人とも呼ばれた。本欄9、10回を参照)とが、このメディアにかけたエネルギーが否応なくうかがわれる。
そのあいだを縫う隔月はテーマ特集が一応考えられていたのだと思う。創刊第2号の60年10月号は「鉄筋コンクリートをプレキャストする」というタイトルの特集。建築家あるいは技術家の特集を主軸にしながらも作品主義に偏ることを避け、建築がつくり出される社会的技術的背景の厚味を誌面に表現するのがテーマ特集だと、知識はまるでないにもかかわらず新鮮に感じられる企画だった。
 さて、このように号を追って『建築』の展開を解説するつもりはない。ここで私が書いておきたいのは、編集・出版の内側である。最初に掲げた履歴に戻る所以だが、「内側」といっても裏側ではない。いきなりこの世界に入りこんで、雑誌の編集とは、また出版とはこういうものだと強く意識したいくつかのポイントを記録しておきたいのである。
 60年12月号、つまり創刊号から4号目のために私ははじめて大阪出張となった。前回に触れた平山忠治さんの撮影助手を務めたのである。ホテルの個室に泊まったのも、たしかこのときが初体験だった。この号ではテーマ特集はなく、新しい建築作品を集めて紹介、ということになっていたと思う。奈良市登美ヶ丘というところに近鉄が、建築家の設計による建売住宅団地を企画、実現した。そのなかでRIA建築総合研究所の手がけた「集成材による木造住宅(通称ラムダ・ハウス)」と鉄筋コンクリートの「壁式構造による住宅」、坂倉準三建築研究所の手がけた「連続店舗付き住宅(5棟が計画され、実現したのはこの時点では1棟)」と、松田平田設計事務所による「近鉄ハウス」があり、この4件を撮影することが出張の目的だった。余談だが、このときRIAの住宅の水際立った美しさに私は圧倒された。この団地には、他にもいくつかの関西設計事務所による住宅も軒を連ねていた。いわば建築家の住宅の博覧会的、見本市的な性格の団地で、関西にはこうした民間鉄道会社による沿線の住宅団地づくりは戦前からの歴史がある。戦後はそれに東京のいわば前衛建築家あるいはチームの参加という新しい試みが加味されたわけだが、建築を見るという経験が皆無に等しかったそのときの私にとって、いきなり西と東の建築家たちの住宅設計競技の実物を見る機会を得たわけである。その第一印象は外観のプロポーションの著しい違いだった。RIAの住宅の美しさはまずプロポーションにあった。後年、「ラムダ・ハウス」は結果としてRIAの住宅のピークに位置づけられるほどの評価を与えられるが、それはとくにプランニング(間取り)においてである。
このあたりを説明し出すと切りがない。ここまではあくまで余談である。

 撮影を終えてホテルに戻ったところで、東京の編集部からびっくりするような電話が入った。今月は紹介する建築作品が少ないので、大阪であと数件探して取材・撮影してきてほしいという。東京で取材するものはないかと訊くと、何もないという。では大阪のどういう建築事務所に取材すればよいか編集長の意向をうかがってくれと頼むと、ここしばらく編集長とは連絡がとれないという返事である。創刊からたった3号分を経験したばかり、使い走り程度の集稿や自分流の文字校正、先輩がやるのを横から見ていてレイアウトのやり方がやっとおぼろに分かってきた段階の私にとって、とりわけ建築事務所との関係なんてあるはずがない。まったく戦力にならないシンマイ編集者を連れた平山さんが、これまでの仕事のツテのある事務所あちこちに連絡をとってくれて、結局はオフィスビル2件を撮影し、その乏しい戦果を携えて帰京することが一応はできた。
 この大阪での数日間は、笑い話みたいな気分で覚えていたのだけれど、その記憶を再現しようとすると、急場の無理を設計事務所にも建て主にもお願いしての撮影現場で途方にくれている当時の自分に正面から出会ってしまいそうで憂鬱になってくる。その頃すでに私としてはすっかり心酔していた平山さんを、オフィスの若い女性が「写真屋さーん」なんて呼ぶのに腹が立ったことまで思い出されてくる。
 これで私がつくづく思い知ったのは、建築家特集やテーマ特集で強い思想性を打ち出そうとするメディアは、日々の建築取材にも十全の体制を敷いていないとつねにアキレス腱を抱えることになるという、至極当然の原則である。
 今度の取材も、もっと早く準備していれば登美ヶ丘住宅団地を中心とした関西建築の歴史と現在、みたいな特集も可能だったと思うけれど、全体としては雑然とした1960年12月号になってしまった。しかしその次の61年1月号では、坪井善勝の構造設計を通して丹下健三その他の建築を展望する、堂々たる画期的特集をまとめ上げているのだから、出たとこ勝負の取材と、時間と打ち合わせを十分に重ねた特集企画との格差が激しいというか、全体の流れがチグハグというか。
 当時の『建築』は、編集長以外には建築誌編集の経験が3年ほどある女性スタッフ(私には「3年」が大ベテランと同義に思われたが)がひとりいるだけで、あとは編集には強いが建築界には没交渉だったり、建築界には精通しているが編集は未経験だったり、そしてそのどちらもほとんど白紙状態の私だったりのスタッフ事情だった。写真面での毎月のルーティンワークをひとりで支えている平山さんは大阪のことがあって以来、またいつ編集長が連絡のとれない考えごとの離れ小島に行ってしまうかも知れないことを心配したのだろう、ある日、宮嶋圀夫を伴って槇書店に現れた。というシーンとなって記憶されているのだが、実際は編集長が呼んだのかもしれない。
 宮嶋さんもその名を知られる名編集者で(もちろん当時の私はそんなこと知らなかった)、かの1957年の「『新建築』問題」に関わって川添登、平良敬一、宮内嘉久とともに、同誌を解雇された編集者4人のひとりである。その後は『近代建築』の編集に携わっていたと思うが結核のため療養生活に入り、そこからやっと復帰された頃だった。とにかくそれ以来、折につけ編集部に顔を出し、ある建築作品の紹介頁だけに限ってレイアウトする、みたいなかたちで手伝ってくれるようになった。そんなころの宮嶋さんの自己紹介は「ぼくはここ数ヶ月は風呂に入ってないよ」で、女性スタッフのヒンシュクを買って喜んだりしていたが、本格的なデッサンをやった画家でもあり、多分『建築』ではじめて宮嶋さんが手がけた、アントニン・レーモンド事務所設計の「門司クラブ・ハウス」(61年3月号)の写真割り付けの見事さには舌を巻いたものだ。全体のバランスを見ながら、絵柄の流れを組み立てていくその的確さと仕事の速さはそれまで見たことがなかった。そんな調子で号を追って宮嶋さんは『建築』をまず誌面から調整し、やがて本格的に参加してくれることになったその矢先に、版元の槇書店から『建築』のスポンサーを降りることを伝えられたのだった。(この項続く)

2007.8.30 植田実


























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