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植田実のエッセイ 本との関係13

編集の内側(続きの続き)

 長谷川愛子の名が『建築』1961年1月号の編集スタッフのなかに入っている。彼女はそれ以前からいたのかも知れない。もともとは妹の静子さんがスタッフとして創刊準備の作業に加わっていたのだが結婚して、多分創刊号が出る前に渡米した、そのあとに姉の愛子さんが入ってきたのだが、正確な時期は分からない。目次に編集スタッフや編集委員の名が初めて記載されるようになるのが上の61年1月号からなので。
 それまでは編集人と発行人の名が入っているだけだった。他の雑誌でもそれが当然だった。単行本は今でも奥付けには発行人の名だけがあって編集人の名さえないのが一般的である。印刷所と製本所名はしっかり記載されている。これが慣例である。だから著者が「あとがき」で担当編集者あるいは本文作成上の協力者の名を挙げて謝辞を述べることが多いがこれも慣例である。欧米の本で、こうした謝辞を含めた「あとがき」を見ることはほとんどない。その必要がある場合は巻頭に置かれている。例えばスティーヴン・キングの『トミーノッカーズ』では巻頭に批評家としての妻、編集者、技術上の文章チェックをしてくれた人、あるいはパイロット、歯科医、地質学者、等々への感謝が捧げられている。巻頭に置くのが礼儀なのだろう。これに対して大沢在昌の「新宿鮫シリーズ5」の『炎蛹』では「後記」に東京消防庁、農林水産省の専門家たち、編集者たちへの謝意が述べられているが、日本人にはこの方がしっくりするのではないか。巻頭ではどうしても仰々しく思えてしまうのだが、それは「あとがき」への馴染みにすぎないかもしれない。1冊の本を書きあげ形にするという行為をあくまで著者という、ひとりに収斂させるか、それとも多数の人間という複合体の所産として見せるかの違いは、本を文化としてとらえるイメージの違いにも関わってくるはずである。
「あとがき」で「協力を得た人々はあまりに多く、その名をすべては挙げられないのでここでは感謝の念だけを記しておく」と書かれたりしていることがあるが、いかにも日本人的というか情緒的だ。欧米の著者は感謝という言葉を口に出す以上は何がなんでも具体的な人名を列挙する。映画や演劇の受賞式でのスピーチが、誰もが判で押したように協力者たちの名を限られた時間内に流麗な早口で挙げるのと、それは同じだろう。最近の映画ではエンド・マークのあとに延々とその作品に関わった人々の名が続くが、そこにも協力者への感謝あるいは協力者の権利を明確にする欧米の伝統がさらに徹底した形で表れている気がする。日本映画もこれに倣うようになってきたが。
 また余談になってしまった。話を元に戻すと、『建築』61年1月号から記載されるスタッフや編集委員の名はローマ字表記にとどまる。日本語で(!)名を出すにはどこか遠慮があったからか一種のデザインとして処理したのだと思う。目次頁のレイアウトは私の担当だったので、欧米の建築誌の目次に盛り込まれた情報を調べて真似したように覚えている。
 さて、長谷川愛子さんについてだが、当時の私にとって忘れ難い印象を受けたのはこんなことだった。
 1961年10月号はアントニン・レーモンド特集である。レーモンドに焦点に当てたいとは編集委員も編集長もずいぶん前から口にしていたが彼の事務所に連絡しないでぐずぐずしていた。要するに誰もレーモンドとのコネがなかった。すると長谷川さんが、じゃあ私が先方の意向を訊いてみると言って電話し、あっさり解決してしまった。レーモンドはこの企画に好意的かつ積極的で、結果としては、この大建築家の生身の息づかいが感じられるという意味でも、二度とつくれない素晴らしい特集号になった。
 知らない人に電話をかけて頼みごとをする、たったこれだけの話である。しかし今でも長谷川さんといえばまずこのことを思い出すほど深い感銘を受けた。というより、深く自分を恥じた。自分だってそのくらいのことはできたはずなのにできなかった。猫に鈴をつけることができなかった。以来、現在まで私はどの編集者に対してもまずこうした資質から判断しているような気がする。実際、コネがない建築家にはまったく交渉したりせず、仲間うちだけで動いている編集者がいる。
 「モダンリビング」の創刊に関わり、1950年代の同誌の名編集者として知られる渡辺曙さんにインタヴューしたとき、「モダンリビング」版ケーススタディ・ハウスの企画実現の際、新聞記事でその名を知った丹下健三にその日のうちに電話して自宅を訪ねたという。丹下さんは企画に賛成はしたが多忙なときだったので池辺陽を紹介した。渡辺さんは丹下邸を出るなり近くの公衆電話から池辺さんに連絡をとり、そのまま会いに行き、ケーススタディ・ハウスの企画が動き出した。その迅速な行動に驚く私に、ぼくは天皇に対してだって同じだよ、天皇に電話しないのは用事がないからさ、と渡辺さんは笑っていた。こんな編集者もいる。いや編集者に限らず誰にも必要な行動力だろう。例えばパーティは未知の人に出会い、自分の知らなかった世界に触れ、自分からも新しい興味ある話題を提供することに努める場である。仕事や病気の話題は御法度という暗黙のルールが欧米のパーティでは厳しいのも、仲間うちでじゃれ合っているのではパーティ参加の意味がないからだろう。
 長谷川さんは『建築』に入る以前は東京大学建築学部の内田祥哉研究室におられたと記憶する。そのせいか、人に関しては実によく知っていて、たいていの人については立ちどころにそのプロファイリングを引き出してみせる、信じられないような記憶力の持ち主だった。誌面構成を考えたり文章を書いたりすることには控えめだったが、こうした編集者能力で『建築』を支え、のちに平良さんと始める『SD』ではいっそうパワーアップし、同誌編集長となってからは長谷川カラーが歴然となった。
 なんだか仲間うちだけで動く編集者はダメ、みたいに聞こえるかもしれないが、別の面から見れば違ってくる。主義主張を重んじる雑誌なら自分たちの目指す方向と異なる建築家の仕事は扱うべきではなく、面白そうな建築家に見境なく声をかけるのは単なるスノビズムということになる。(ことわっておくが長谷川さんはそういう編集者ではない。むしろ好き嫌いがはっきりしていた。彼女は誰に対しても臆せず電話をかけたというにすぎない。)『建築』での平良編集長は、編集スタッフのやりたいことを掣肘することはなかった。しかし、だからといってスノビズムの許容ではなかったと思う。スタッフも『建築』の方向性を心得ていた。
 そういうことで、このレーモンド特集、その次号の菊竹清訓特集あたりまでは編集委員の意向が生かされていたと思うが、さらにそれに続く61年12月号の白井晟一特集には、自分たちの考えとは路線が違うのではないかという疑問が委員から出された。アントニオ・ガウディについての記事についても「ガウディはもういいよ」という声があった。白井もガウディも、これは宮嶋さんの意向が強かったのである。そして62年に入って、こちらは私の好みで選んだオスヴァルト・マティアス・ウンゲルス、エンリコ・カスティリオーニ、ヘントリッヒ/ペチュニッヒ設計事務所などの作品紹介にも委員は否定的あるいは消極的だった。しかし他に紹介できる国内作品が少なかったので、結局は採用になった。つまり『建築』というジャーナリズムの受け皿を前提としたとしても、別の建築観をもった編集者が参入し、あるいは育ってきたのでこのメディアの主義主張の輪郭が曖昧になってきたといえる。建築家特集とテーマ特集の割り振りもバランスを欠いてきた。編集委員会が開かれることも少なくなっていた。
 この年、私はフィリップ・ジョンソン、ピエル・ルイジ・ネルヴィ、清家清特集の企画をほとんど勝手に進め、平良さんには巻頭論文や巻頭対談をお願いするというかたちでスジを通している。あまりにも忙しかったこともあるが自分自身で建築について文章を書こうという気持ちはこの頃は皆無に等しかった。
 『建築』創刊から1967年4月号の磯崎新特集第2集あたりまで、私の担当したものについては、花田佳明さんが『植田実の編集現場』(ラトルズ刊、2005)でくわしく辿って下さっているので詳細はそちらに委ねることにする。こうした流れのなかで1963年、平良さんと長谷川さんは鹿島出版会に移り、65年に月刊『SD(スペース・デザイン)』を創刊、その2年後、私も平良さんに呼ばれて鹿島出版会に入り、翌年、月刊『都市住宅』の創刊に関わることになる。
 『SD』創刊の頃だが、私は『建築』の編集作業と並行して、月刊『a+a(aluminium and architecture)』という、40頁ほどの薄さだがA4変形判の雑誌を全面的に担当していた。発行・財団法人軽金属協会と目次にある。宮嶋さんが同協会から委託されたもので最初の頃は自分でやっていたが、その頃はもう『建築』の編集長であった宮嶋さんとしてはどうにもならないということで私にお鉢がまわってきた。小雑誌だがそれなりに編集長の体験をもてたかというと、そんなの全然ない。タイトル・ロゴと表紙デザインを自分でやってみた、という程度か。いま取り出してその表紙をみると宮嶋さんからの紛れもない影響と、そこから脱け出して自分の好きなパターンを探っている気配が多少は感じられる。この頃の私は街を歩いてもアルミニウムのカーテンウォールのビルばかりが気になった。『a+a』ではアルミの特許・実案の提示とか協会ニュースとかのレイアウト処理に追われていた。『建築』は私のなかで終りかけていたのかもしれない。(この項続く)

2007.9.13 植田実

『a+a』
1965年3、7、8、11月号
発行:財団法人軽金属協会
サイズほか:295mm×222mm、平綴じ、本文各40頁

























植田実のエッセイ



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