『現代と声』作品集制作基金のお願い
9作家の作品集を制作するための基金の呼びかけを全国の支部、会員に行なった。


一九六二年一月、蒲田の喫茶店でオノサト・トシノブ展を開いた後――それは第一回の北川民次展に続く第二回目の東京小コレクターの会の展覧会で――第三回目の出品を山口薫に頼みに行った時のことでした。
紹介者の消息や、瑛九やオノサトとの関係を聞いた後で、趣旨を了解して出品を承諾してくれた先生が、会場が喫茶店であることを聞くや急に態度を改めて、
「あなたは、喫茶店で展覧会を開くんですか。あなたは絵を見に来た人に見せるんじゃなくて、道を歩いている人に見せようとしているんですね。それじゃまるで、駅前などで絵を並べて売っているあれと同じじゃないですか。絵はね、大根やりんごと同じものじゃないんですよ。
画商さんはね、僕から絵を買って行くとね、それを何倍にもして売りますよ。それは私にはわかっています。しかしね、彼等はそれだけのことをして呉れるんですよ。彼等は僕の絵をそれだけの値打ちのあるものにして呉れるんです。」
私は一月であったにも拘らず腋の下に冷汗を流しながらそれを聞いていました。私は常に瑛九のエッチングをカルトンに挟んでさまよい、少しでも絵に関心を示す人がいればその場に絵を並べたものでした。もし絵を見て呉れる人がいたならば道端に広げることだっていとわない気持ちでいたでしょうから。
あれから十五年、美術品に対する人々の関心は随分変って来ました。版画の普及によって絵は特権的な階層の占有物ではなく、壁紙の一部か何かのようにさえ買われるようになって参りました。
しかし、版画は芸術家の感動を伝える為に売られ、買われているのでしょうか?瑛九は私に「尾崎さん、僕の絵は着物の柄のようなものだよ。女の人にはね、洋服か帽子でも選ぶように好きなものを取りなっていうんですよ。」と言ったものでしたけれども………。
道端に並べて絵に関心を示さない人にも絵を見て貰いたいという願いと、あの誇り高き芸術家の自尊心の怒りにふれた悔恨との間をさまよい、私の版画普及の旅が続いて来ました。 夏休み四十日を費やして北海道の根室、宗谷から九州は鹿児島、天草まで。北海道は三回、九州は二回、多くの人に会い、瑛九・オノサトのこころを伝えることが出来ました。
そうして日本中どこへ行っても美術を愛好する人がおり、郷土の文化について真剣に考えている人、骨身を惜しまない方々に会うことが出来ました。ただ残念なことは私が小学校の教師として時間を拘束されており、理想を述べるに止まってそれを具現的に表現することがなかなか難しいということでした。
けれども、現代版画センターは設立以来四年目に入り、島・関根全国縦断展、菅井汲全国展と実績を積み上げ、版画普及の歴史にいくらかの貢献を果すことが出来ました。
そして今、〝現代と声〟の企画を前にして、私は、かすかながら私の年来の希望が実現の曙光を見た想いがします。今、皆さんにお見せすることが出来ないで残念ですが、センターには九人の先生方から続々下絵のデッザンや試刷りが寄せられています。それは、どれをとってみても、六十五×五○㎝の規格いっぱい、刷り師に過酷をも思われる技術を要求する作品がそろっています。
私は一つの企画が人と人とを結び合わせ、信じ合えることがこんなにもすばらしいことであることを知って、あらためて感動に心ふるわせています。
どうかこの〝現代と声〟企画の実現に力をかして下さい。
ご理解いただけると思いますが、これだけの企画を遂行するためには、膨大な人手と、莫大な費用を要します。皆様それぞれの事情をお持ちのところへ、予約前金のような形でお願いすることは大変恐縮ですが、この企画をスムーズに進めるためにはどうしても皆様のご協力が必要です。そして、今迄の実績が決して皆様を欺くことがないことをお約束していると思います。
どうぞ宜敷くお願い致します。
一九七七年七月
現代版画センター
事務局長 尾 崎 正 教
9作家の作品集を制作するための基金の呼びかけを全国の支部、会員に行なった。


一九六二年一月、蒲田の喫茶店でオノサト・トシノブ展を開いた後――それは第一回の北川民次展に続く第二回目の東京小コレクターの会の展覧会で――第三回目の出品を山口薫に頼みに行った時のことでした。
紹介者の消息や、瑛九やオノサトとの関係を聞いた後で、趣旨を了解して出品を承諾してくれた先生が、会場が喫茶店であることを聞くや急に態度を改めて、
「あなたは、喫茶店で展覧会を開くんですか。あなたは絵を見に来た人に見せるんじゃなくて、道を歩いている人に見せようとしているんですね。それじゃまるで、駅前などで絵を並べて売っているあれと同じじゃないですか。絵はね、大根やりんごと同じものじゃないんですよ。
画商さんはね、僕から絵を買って行くとね、それを何倍にもして売りますよ。それは私にはわかっています。しかしね、彼等はそれだけのことをして呉れるんですよ。彼等は僕の絵をそれだけの値打ちのあるものにして呉れるんです。」
私は一月であったにも拘らず腋の下に冷汗を流しながらそれを聞いていました。私は常に瑛九のエッチングをカルトンに挟んでさまよい、少しでも絵に関心を示す人がいればその場に絵を並べたものでした。もし絵を見て呉れる人がいたならば道端に広げることだっていとわない気持ちでいたでしょうから。
あれから十五年、美術品に対する人々の関心は随分変って来ました。版画の普及によって絵は特権的な階層の占有物ではなく、壁紙の一部か何かのようにさえ買われるようになって参りました。
しかし、版画は芸術家の感動を伝える為に売られ、買われているのでしょうか?瑛九は私に「尾崎さん、僕の絵は着物の柄のようなものだよ。女の人にはね、洋服か帽子でも選ぶように好きなものを取りなっていうんですよ。」と言ったものでしたけれども………。
道端に並べて絵に関心を示さない人にも絵を見て貰いたいという願いと、あの誇り高き芸術家の自尊心の怒りにふれた悔恨との間をさまよい、私の版画普及の旅が続いて来ました。 夏休み四十日を費やして北海道の根室、宗谷から九州は鹿児島、天草まで。北海道は三回、九州は二回、多くの人に会い、瑛九・オノサトのこころを伝えることが出来ました。
そうして日本中どこへ行っても美術を愛好する人がおり、郷土の文化について真剣に考えている人、骨身を惜しまない方々に会うことが出来ました。ただ残念なことは私が小学校の教師として時間を拘束されており、理想を述べるに止まってそれを具現的に表現することがなかなか難しいということでした。
けれども、現代版画センターは設立以来四年目に入り、島・関根全国縦断展、菅井汲全国展と実績を積み上げ、版画普及の歴史にいくらかの貢献を果すことが出来ました。
そして今、〝現代と声〟の企画を前にして、私は、かすかながら私の年来の希望が実現の曙光を見た想いがします。今、皆さんにお見せすることが出来ないで残念ですが、センターには九人の先生方から続々下絵のデッザンや試刷りが寄せられています。それは、どれをとってみても、六十五×五○㎝の規格いっぱい、刷り師に過酷をも思われる技術を要求する作品がそろっています。
私は一つの企画が人と人とを結び合わせ、信じ合えることがこんなにもすばらしいことであることを知って、あらためて感動に心ふるわせています。
どうかこの〝現代と声〟企画の実現に力をかして下さい。
ご理解いただけると思いますが、これだけの企画を遂行するためには、膨大な人手と、莫大な費用を要します。皆様それぞれの事情をお持ちのところへ、予約前金のような形でお願いすることは大変恐縮ですが、この企画をスムーズに進めるためにはどうしても皆様のご協力が必要です。そして、今迄の実績が決して皆様を欺くことがないことをお約束していると思います。
どうぞ宜敷くお願い致します。
一九七七年七月
現代版画センター
事務局長 尾 崎 正 教
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