『ジョナス・メカス映画美術館建設賛助計画 オリジナル版画入りカタログ』
<自分の作品カタログに序言を書いたことはこれまでに一度もない。
これはわたしの作品について制作される初めてのカタログである。
新しい経験になると思う。
ジョナス・メカス>

ジョナス・メカス映画美術館建設賛助計画
オリジナル版画入りカタログ
本カタログはA版及びB版の二種、合計1,000部製作した。
A版:限定500部
ジョナス・メカス、靉嘔、大沢昌助の3作家によるオリジナル・シルクスクリーン3点を挿入。(内、ジョナス・メカス作品のみはB版と共通、従ってメカス作品の限定は1,000部である。)
ジョナス・メカス「Oona Mekas」
靉嘔「Crashed Rainbow」
大沢昌助「茶色」
B版:限定500部
ジョナス・メカスによるオリジナル・シルクスクリーン1点を挿入。(作品はA版と共通)
企画:ジョナス・メカス展実行委員会
編集:ジョナス・メカス展カタログ編集室(現代版画センター企画室内)
執筆:ジョナス・メカス、鈴木志郎康、山口勝弘
翻訳:木下哲夫
デザイン:古谷卓
写真:酒井猛、田中誠一
オリジナル版画制作:ジョナス・メカス/靉嘔/大沢昌助
シルクスクリーン刷り:岡部徳三
印刷:クリキ企画印刷株式会社
発行日:1983年12月1日
発行人:木下哲夫
発行:ジョナス・メカス展実行委員会
編集協力:イッカン・アート・インターナショナル
ジョナス・メカス展実行委員会:呼びかけ人:
磯崎新(建築家)
かわなかのぶひろ(映像作家)
谷川俊太郎(詩人)
松本俊夫(映像作家)
山口勝弘(造形作家)
事務局長:木下哲夫
協力:R.Y.U. 現代版画センター イメージフォーラム
メカスさんを初めて日本にお招きした。
メカスさんのアンソロジー・フィルム・アーカイヴス(個人映画、実験的映画のフィルムの保存、上映、研究、制作援助を目的とする)を応援しよう(もちろん金銭的に)とジョナス・メカス展実行委員会(代表:木下哲夫)をつくり、原美術館はじめいくつかの会場で展覧会を開き、メカスさんの友人たち(ウォーホルやボイス、セラ、ラウシェンバーグ、ピーター・ビアード、ヘレン・レヴィット他26人)が寄贈した版画と写真のエディション作品を展示販売しました。
メカスさんは「フィルムはあるが金がない」というし、助っ人の私たちは「情熱はあるが金がない」状況でしたが、たくさんの写真を用意してくれたメカスさんのおかげで『ジョナス・メカス映画美術館建設賛助計画 オリジナル版画入りカタログ』を制作できました。
中に挿入する版画(靉嘔、大沢昌助、ジョナス・メカス)の制作と編集は現代版画センターが担当しました。
カタログの冒頭にはメカスさん自筆(タイプ)の「メッセージ」と「(自)伝記的ノート」が掲載されています。






●ジョナス・メカス (自)伝記的ノート
誕生 1922年12月24日 夜明け寸前 日曜日
星座 カプリコーン(山羊座)
生地 リトアニアのセメニスキアイ(20家族、約100人の住む村ラトビアとの国境まで20マイル、人口5000の町ビルザイから15マイル)
言葉 リトアニア語(バルト語系、ロシア語とは関わりなし)
両親 エルズビエータ・メカス
婚前の姓/ヤシンスカス
1887年3月19日生、1983年2月12日歿。
ポヴィラス・メカス
1869年生、1951年歿。農夫、大工
兄弟 エルズビエータ 1911年12月19日生、農婦
ポヴィラス 1914年1月14日生、死亡 獣医
ぺトラス 1915年5月15日生 農夫
アドルファス 1925年9月30日生 映画作家/作家
1928-32 野や森で家畜の世話をする。
1932 ラウザディスキスの小学校入学。(4マイルを徒歩で通う)
1933 夏の間、牧童として働く。
冬、ラウザディスキスの小学校に通学。
1934 夏、家畜の世話と野良仕事。
冬、小学校3年。
1935 夏、家畜の世話と野良仕事。
冬、小学校4年。
1936 5月、小学校(4年制)卒業。
夏~秋、近隣の村ネシウナイにて雇人として働く。初めての映画を観る(ディズニー、パットとパタション、そしてメロドラマ)初めて詩を出版。
1937 夏、野良仕事。
冬、パピリスの学校で5学年目に就学(5マイルの距離を専ら自転車で通う)、学校新聞を編集する。






この「(自)伝記的ノート」は1981年12月7日のセバスチャン誕生で終わっています。
私たちが1983年春に初めてNYに渡り、ウォーホルとの契約を済ませた後、メカスさんのアパートを訪ねたときにいたのがまだ幼いセバスチャンでした。
<自分の作品カタログに序言を書いたことはこれまでに一度もない。
これはわたしの作品について制作される初めてのカタログである。
新しい経験になると思う。
ジョナス・メカス>

ジョナス・メカス映画美術館建設賛助計画
オリジナル版画入りカタログ
本カタログはA版及びB版の二種、合計1,000部製作した。
A版:限定500部
ジョナス・メカス、靉嘔、大沢昌助の3作家によるオリジナル・シルクスクリーン3点を挿入。(内、ジョナス・メカス作品のみはB版と共通、従ってメカス作品の限定は1,000部である。)
ジョナス・メカス「Oona Mekas」
靉嘔「Crashed Rainbow」
大沢昌助「茶色」
B版:限定500部
ジョナス・メカスによるオリジナル・シルクスクリーン1点を挿入。(作品はA版と共通)
企画:ジョナス・メカス展実行委員会
編集:ジョナス・メカス展カタログ編集室(現代版画センター企画室内)
執筆:ジョナス・メカス、鈴木志郎康、山口勝弘
翻訳:木下哲夫
デザイン:古谷卓
写真:酒井猛、田中誠一
オリジナル版画制作:ジョナス・メカス/靉嘔/大沢昌助
シルクスクリーン刷り:岡部徳三
印刷:クリキ企画印刷株式会社
発行日:1983年12月1日
発行人:木下哲夫
発行:ジョナス・メカス展実行委員会
編集協力:イッカン・アート・インターナショナル
ジョナス・メカス展実行委員会:呼びかけ人:
磯崎新(建築家)
かわなかのぶひろ(映像作家)
谷川俊太郎(詩人)
松本俊夫(映像作家)
山口勝弘(造形作家)
事務局長:木下哲夫
協力:R.Y.U. 現代版画センター イメージフォーラム
メカスさんを初めて日本にお招きした。
メカスさんのアンソロジー・フィルム・アーカイヴス(個人映画、実験的映画のフィルムの保存、上映、研究、制作援助を目的とする)を応援しよう(もちろん金銭的に)とジョナス・メカス展実行委員会(代表:木下哲夫)をつくり、原美術館はじめいくつかの会場で展覧会を開き、メカスさんの友人たち(ウォーホルやボイス、セラ、ラウシェンバーグ、ピーター・ビアード、ヘレン・レヴィット他26人)が寄贈した版画と写真のエディション作品を展示販売しました。
メカスさんは「フィルムはあるが金がない」というし、助っ人の私たちは「情熱はあるが金がない」状況でしたが、たくさんの写真を用意してくれたメカスさんのおかげで『ジョナス・メカス映画美術館建設賛助計画 オリジナル版画入りカタログ』を制作できました。
中に挿入する版画(靉嘔、大沢昌助、ジョナス・メカス)の制作と編集は現代版画センターが担当しました。
カタログの冒頭にはメカスさん自筆(タイプ)の「メッセージ」と「(自)伝記的ノート」が掲載されています。






●ジョナス・メカス (自)伝記的ノート
誕生 1922年12月24日 夜明け寸前 日曜日
星座 カプリコーン(山羊座)
生地 リトアニアのセメニスキアイ(20家族、約100人の住む村ラトビアとの国境まで20マイル、人口5000の町ビルザイから15マイル)
言葉 リトアニア語(バルト語系、ロシア語とは関わりなし)
両親 エルズビエータ・メカス
婚前の姓/ヤシンスカス
1887年3月19日生、1983年2月12日歿。
ポヴィラス・メカス
1869年生、1951年歿。農夫、大工
兄弟 エルズビエータ 1911年12月19日生、農婦
ポヴィラス 1914年1月14日生、死亡 獣医
ぺトラス 1915年5月15日生 農夫
アドルファス 1925年9月30日生 映画作家/作家
1928-32 野や森で家畜の世話をする。
1932 ラウザディスキスの小学校入学。(4マイルを徒歩で通う)
1933 夏の間、牧童として働く。
冬、ラウザディスキスの小学校に通学。
1934 夏、家畜の世話と野良仕事。
冬、小学校3年。
1935 夏、家畜の世話と野良仕事。
冬、小学校4年。
1936 5月、小学校(4年制)卒業。
夏~秋、近隣の村ネシウナイにて雇人として働く。初めての映画を観る(ディズニー、パットとパタション、そしてメロドラマ)初めて詩を出版。
1937 夏、野良仕事。
冬、パピリスの学校で5学年目に就学(5マイルの距離を専ら自転車で通う)、学校新聞を編集する。






この「(自)伝記的ノート」は1981年12月7日のセバスチャン誕生で終わっています。
私たちが1983年春に初めてNYに渡り、ウォーホルとの契約を済ませた後、メカスさんのアパートを訪ねたときにいたのがまだ幼いセバスチャンでした。
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