去る3月14日、13時から青山ブックセンター本店で開催された<細江英公スライドトークショー「細江英公 『鎌鼬』を語る」&大野慶人による舞踏>に参加して来ました。
P1050830「鎌鼬」のスライドを上映しながら細江先生のコメントを聞けるとあって、会場はほぼ満員。
1959年「全日本芸術舞踊協会・第6回新人舞踊公演」(第一生命ホール)で初めて見た土方巽氏の踊り「禁色」は、それまでの踊りの概念を壊すような実に衝撃的なもので、終演後、細江先生が楽屋を訪ねて行ったのが二人の出会いでした。1965年、土方氏にとっては故郷であり、細江先生にとっては少年時代を過ごした疎開先である「東北に帰ろう!」ということになり、何のプランもなく出かけていって、まさにハプニングを記録するがごとく三日間にわたって撮影は行われました。それは阿吽の呼吸で、稲を干す木組みを見つけて「あれ」と言うと、土方氏はそれにするすると上ってちょこんと座り、名作「鎌鼬#8」が生まれました。(この作品は、土方氏の顔がつぶれないようにプリントするのがポイントだそうです)
鎌鼬#8,1965
鎌鼬#8, 1965
1965年
ピグメント・アーカイバル・プリント
60.9×50.8cm サインあり

「鎌鼬#17」の見事なジャンプは、画面の外に木の切り株があり、それを踏み台にしてなされたものでした。
鎌鼬#17,1965
鎌鼬#17, 1965
1965年 ピグメント・アーカイバル・プリント
50.8×60.9cm サインあり

また、農民が畦道でお茶を飲んでいるのを見つけると、その中に入っていってぺたりと座り込んで笑いを誘い、有合せのもので御輿を作り、農民に「テレビだ、テレビだ!」と細江先生のカメラのことをテレビといって担がせたり、畦に赤ん坊の籠があれば「ちょっとお借りします!」と言って、その赤ん坊を抱きかかえて走り出すなど、ひとつ間違えば犯罪になりそうなこともしたそうですが、あとで、一升瓶二本をぶら下げてお詫びに行くことは忘れなかったそうで、逸話は尽きません。後日談として、2000年から2001年にかけて松濤美術館で開催された「細江英公の写真」展のときに、「この赤ん坊は私です。」と言って帰った方がいるとか。

鎌鼬#13,1965
鎌鼬#13, 1965
1965年 ピグメント・アーカイバル・プリント
50.8×60.9cm サインあり

鎌鼬#14,1965
鎌鼬#14, 1965
1965年 ピグメント・アーカイバル・プリント
50.8×60.9cm サインあり

鎌鼬#37,1965
鎌鼬#37, 1968
1968年 ピグメント・アーカイバル・プリント
50.8×60.9cm サインあり

「鎌鼬」は、「記憶の記録」または「主観的ドキュメンタリー」として、このあと、断続的に1968年まで撮影が続けられました。

つぎに、大野慶人さんの舞踏があり、大野さんが語る土方さんの思い出は、今まで知らなかった土方像を見る思いでした。1959年のその舞台は三島由紀夫の「禁色」にインスパイアされたものだったそうですが、大野氏自身は、まだ若く、意味もわからないまま舞台に上がり、土方氏の指示で動いたそうで、いきなり鶏を渡されたり、土方氏に上に乗っかられたりして、訳が分からなかったとのこと。あとでこの舞台のテーマを尋ねたら、「男の友情だ。」という答えだったそうです。当時、土方氏は「踊りは消えるからいいんだよ。」と言っていたそうですが、数年間のブランクがあった後、今度は「ショパンだって200年続いているんだから、踊りも振り付けを伝えることで、残して行こう。」と考えが変り、大野氏に振り付けをして後世に伝えることを言い残したとのこと。
大野氏によると、土方氏は言葉で振付けたようです。つまり、「秋草を踏んで歩く」「遠くの沼を見る」「鳥が一羽飛び立って行く」「滝になる」「死の匂い」など、具体的な動作を指示するのではなく、踊り手のイメージを触発する言葉を与えて行くという方法でした。大野氏は、その土方氏に振付けてもらったという舞踏3作を土方氏がどのような言葉を与えたかを口でいいながら、舞って見せてくださいました。それはとても興味深いものでした。

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