亭主もおかげさまで本日ン十ン歳の誕生日を無事迎えることができました。お客様には日ごろのご愛顧を心より御礼申し上げます。
さて先日はマンドリン、今日は温泉かい、とお叱りをうけそうですが、忙中閑あり、人生には楽しみが必要であります。
軽井沢を愛した堀辰雄に捧ぐ
〜東京とニューヨークのアーティストがジャズとクラシックで綴るコンサート〜
露天風呂愛好会を石田了一さんと結成してから35年ほどになります。
刷り師と版元という関係が、やがて温泉の師匠(石田さん)と不肖の弟子の関係になりました。
やもめ時代の夜中、「今晩どうかしら」と亭主が誘い、師匠が運転する車の助手席で弟子は高いびき。明け方に目的地について温泉にポチャンと入り、トンボがえりしてそのまま仕事に入るというような時代から、ともに再婚し、夫婦ずれでの温泉行になりました。
北に南に、日本中を湯煙目差して走り回ってきました。
雨降る中、強風と波の飛沫に震えながら入った西伊豆の海ベリの温泉。
知床半島の海岸でパンツひとつで熱い温泉と海水の混じりあう満潮の一瞬を待っていた夏の日。
スコップ片手に登山客がぞろぞろ歩く国道沿いの河原で温泉を掘った白馬の朝。
大分の壁湯温泉でうっかり旅館代を払わずに出発してしまいあやうく踏み倒しそうになりながら、阿蘇から宮崎へ抜ける途中、一日で14箇所の温泉に浸かった九州大遠征。
社長が免許取り立ての頃、ワイパーが猛吹雪で動かなくなり助手席の窓を開けて素手でフロントガラスの雪をふりはらいながら行進、危うく遭難しかかった福島の高湯温泉。
思い起こすとまあ、粗食の宿に耐えつつ、元気だった。
粗食といえば那須・北温泉のそれは露天風呂愛好会の歴史で今でも語り草になるほどだった(嵐山光三郎さんもご推薦の素晴らしい温泉です)。
歳を重ねるごとに肉体は軟弱になり、口も驕り、ハードな温泉行からソフトで贅沢な旅へ。
今年の例会はどうしようかと悩んでいたら、MIXI仲間の書家・一川さんから<リーフレットに「風立ちぬ、いざ生きめやも」と書かせていただきました>と、下記のコンサートのご案内をいただきました。
「軽井沢を愛した堀辰雄に捧ぐ Sept 25 Karuizawa Concert」東京とニューヨークのジャズの才能が9月25日、軽井沢に集まる。

軽井沢をこよなく愛し、「風立ちぬ」や「美しい村」など、清らかで余情あふれる作品を数多く残した堀辰雄。その堀辰雄に縁のある霧生トシ子と東京、ニューヨークで活躍するアーティストの仲間が集まって堀辰雄に捧げるジャズとクラシック曲で綴るコンサートを開きます。東京からは、霧生トシ子とバップ・ピアノの実力派ピアニスト太田寛二、ニューヨークで学び東京で活躍するベースの増原巌、そして天才ドラマーといわれる横山和明ら。ニューヨークからは、ジャズの本場で認められたボーカリスト霧生ナブ子、デューク・エリントン楽団のレギュラーメンバーとして世界各国で活躍するジェームス・D・ゾラー、タップ界の形而上学者と評されたデビッド・ギルモアが来日します。初秋の軽井沢に吹く爽やかな風の中に、堀辰雄の小説のイメージと堀辰雄がよく聴いていた曲などを交えたジャズとクラシック音楽の一時をお楽しみください。
2010年9月25日(土) 軽井沢大賀ホール
開場/17:45 開演/18:30 終演/20:30
******************
大賀ホールはいちど行ってみたいと思っていたので、楽しみです。
宿は昔から大好きな小瀬温泉です。
堀辰雄と親しかった画家に、深沢紅子先生がいます。
ご紹介するのは紅子先生が80歳のときに制作されたリトグラフ「野の花」連作です。
深沢紅子「野の花」連作6点
リトグラフ 1983年
シートサイズ 54.5×44cm
限定75部 鉛筆サイン有り
*現代版画センターとMORIOKA第一画廊の共同エディション


左)「ゆりの木の花」
右)「てっせん」


左)「ほうの花」
右)「あけび」


左)「松虫草」
右)「ふしぐろせんのう」
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◆深沢紅子(ふかざわ こうこ)1903年盛岡生まれ。12歳頃から日本画を習い始め、1919年盛岡高女を卒業すると、東京女子美術学校(現女子美大)日本画科に入学。2年後ゴッホの「ひまわり」に魅了され、油絵科に転科、岡田三郎助に師事。1925年二科会に初入選、以後1936年まで出品。1927年和田三造の日本標準色協会創立に参加、2年間従事する。安井曽太郎らが二科会を脱退したのに続き、一水会創立に参加。1945年盛岡に帰り、岩手美術研究所、盛岡生活学校などで美術指導を行う。1948年女流画家協会創立委員。1949年盛岡短期大学美工科創立と同時に教授として就任(1955年まで)。1961年日米交歓美術展招待出品、ソビエト日本美術展招待出品など内外の展覧会に出品。1979年アトリエが全焼し、作品をほとんど焼失。1985年舌癌に侵されながらも一水会展、女流画家協会展への出品を続ける。1993年就寝中に永眠。享年90。没後1996年には、軽井沢と盛岡に相次いで「深沢紅子野の花美術館」が開館した。
さて先日はマンドリン、今日は温泉かい、とお叱りをうけそうですが、忙中閑あり、人生には楽しみが必要であります。
軽井沢を愛した堀辰雄に捧ぐ
〜東京とニューヨークのアーティストがジャズとクラシックで綴るコンサート〜
露天風呂愛好会を石田了一さんと結成してから35年ほどになります。
刷り師と版元という関係が、やがて温泉の師匠(石田さん)と不肖の弟子の関係になりました。
やもめ時代の夜中、「今晩どうかしら」と亭主が誘い、師匠が運転する車の助手席で弟子は高いびき。明け方に目的地について温泉にポチャンと入り、トンボがえりしてそのまま仕事に入るというような時代から、ともに再婚し、夫婦ずれでの温泉行になりました。
北に南に、日本中を湯煙目差して走り回ってきました。
雨降る中、強風と波の飛沫に震えながら入った西伊豆の海ベリの温泉。
知床半島の海岸でパンツひとつで熱い温泉と海水の混じりあう満潮の一瞬を待っていた夏の日。
スコップ片手に登山客がぞろぞろ歩く国道沿いの河原で温泉を掘った白馬の朝。
大分の壁湯温泉でうっかり旅館代を払わずに出発してしまいあやうく踏み倒しそうになりながら、阿蘇から宮崎へ抜ける途中、一日で14箇所の温泉に浸かった九州大遠征。
社長が免許取り立ての頃、ワイパーが猛吹雪で動かなくなり助手席の窓を開けて素手でフロントガラスの雪をふりはらいながら行進、危うく遭難しかかった福島の高湯温泉。
思い起こすとまあ、粗食の宿に耐えつつ、元気だった。
粗食といえば那須・北温泉のそれは露天風呂愛好会の歴史で今でも語り草になるほどだった(嵐山光三郎さんもご推薦の素晴らしい温泉です)。
歳を重ねるごとに肉体は軟弱になり、口も驕り、ハードな温泉行からソフトで贅沢な旅へ。
今年の例会はどうしようかと悩んでいたら、MIXI仲間の書家・一川さんから<リーフレットに「風立ちぬ、いざ生きめやも」と書かせていただきました>と、下記のコンサートのご案内をいただきました。
「軽井沢を愛した堀辰雄に捧ぐ Sept 25 Karuizawa Concert」東京とニューヨークのジャズの才能が9月25日、軽井沢に集まる。

軽井沢をこよなく愛し、「風立ちぬ」や「美しい村」など、清らかで余情あふれる作品を数多く残した堀辰雄。その堀辰雄に縁のある霧生トシ子と東京、ニューヨークで活躍するアーティストの仲間が集まって堀辰雄に捧げるジャズとクラシック曲で綴るコンサートを開きます。東京からは、霧生トシ子とバップ・ピアノの実力派ピアニスト太田寛二、ニューヨークで学び東京で活躍するベースの増原巌、そして天才ドラマーといわれる横山和明ら。ニューヨークからは、ジャズの本場で認められたボーカリスト霧生ナブ子、デューク・エリントン楽団のレギュラーメンバーとして世界各国で活躍するジェームス・D・ゾラー、タップ界の形而上学者と評されたデビッド・ギルモアが来日します。初秋の軽井沢に吹く爽やかな風の中に、堀辰雄の小説のイメージと堀辰雄がよく聴いていた曲などを交えたジャズとクラシック音楽の一時をお楽しみください。
2010年9月25日(土) 軽井沢大賀ホール
開場/17:45 開演/18:30 終演/20:30
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大賀ホールはいちど行ってみたいと思っていたので、楽しみです。
宿は昔から大好きな小瀬温泉です。
堀辰雄と親しかった画家に、深沢紅子先生がいます。
ご紹介するのは紅子先生が80歳のときに制作されたリトグラフ「野の花」連作です。
深沢紅子「野の花」連作6点
リトグラフ 1983年
シートサイズ 54.5×44cm
限定75部 鉛筆サイン有り
*現代版画センターとMORIOKA第一画廊の共同エディション


左)「ゆりの木の花」
右)「てっせん」


左)「ほうの花」
右)「あけび」


左)「松虫草」
右)「ふしぐろせんのう」
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◆深沢紅子(ふかざわ こうこ)1903年盛岡生まれ。12歳頃から日本画を習い始め、1919年盛岡高女を卒業すると、東京女子美術学校(現女子美大)日本画科に入学。2年後ゴッホの「ひまわり」に魅了され、油絵科に転科、岡田三郎助に師事。1925年二科会に初入選、以後1936年まで出品。1927年和田三造の日本標準色協会創立に参加、2年間従事する。安井曽太郎らが二科会を脱退したのに続き、一水会創立に参加。1945年盛岡に帰り、岩手美術研究所、盛岡生活学校などで美術指導を行う。1948年女流画家協会創立委員。1949年盛岡短期大学美工科創立と同時に教授として就任(1955年まで)。1961年日米交歓美術展招待出品、ソビエト日本美術展招待出品など内外の展覧会に出品。1979年アトリエが全焼し、作品をほとんど焼失。1985年舌癌に侵されながらも一水会展、女流画家協会展への出品を続ける。1993年就寝中に永眠。享年90。没後1996年には、軽井沢と盛岡に相次いで「深沢紅子野の花美術館」が開館した。
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