毎日愛着のある作家の作品を眺めて仕事できるのは幸せです。
ル・コルビュジエ展」も今日が最終日です。19時まで開廊していますので、ぜひお出かけください。
昨日は出勤早々、30数年来の遠方のお客様から電話が入り、30分近くの長電話の末、ル・コルビュジエの作品をお買いあげいただきました。ネットはご覧になれないので当方からお送りした出品リストと画像のプリントだけを見てご注文いただいたのですが、長年のお付き合いで信頼されているということの有難さをしみじみと感じました。
その電話が終わるや否や、これもまた30数年来のお客様が久しぶりに見えられ、「ケルテスの写真ある?」とのご下問。このところアートフェアなどで作品の移動が激しく、売るほどあったはずのケルテスを汗だくで社長が探索するのですが杳として見つからない。呆れたお客様が「また来るからいいよ」とおっしゃるのを、「いやあるはずですから」と必死にひき止め、ようやく発見!!
めでたく2点もお買い上げいただきました。今までアメリカ現代美術など素晴らしいコレクションをお持ちの方なのですが、写真は初めてお買いになるとのこと。光栄です。
ニューヨークに戻る寸前の山田陽さんも挨拶に寄ってくれました。引き続き「山田陽のエッセイ」も執筆していただきますのでお楽しみに。
夕方には井桁裕子さんも来廊。来年はぜひときの忘れもので個展を開催したいと思っています。
忙しく、また心躍る嬉しい一日でありました。
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亭主は建築と音楽が少年時代から好きでした。
美術の世界に迷い込んだのは偶然からですが、導いてくださった方がいます。
その恩人の評伝が出たので、ご紹介します。

亭主は1961(昭和36)年4月に群馬県吾妻郡嬬恋村の山奥から煌くばかりの大都会・高崎に出て、高崎高校に入学しました。通称「高高=タカタカ」という。
部活は中学でテニス部だったので、先ずはテニス部に入部。
新入生へのオリエンテーションで、演劇部の部長(既に20歳になったオジサンである)が「ここ数年新入部員が一人も入ってこない。僕が卒業してしまうと自動的に部員ゼロとなり廃部になってしまう。誰か演劇部を救うと思って入部して欲しい」と演説した。演劇部存続のために落第しているというわけですね。演劇に何の興味もなかったのですが、ついつい義侠心を起こして演劇部にも入部します。
三つ目は「薔薇の会」。
当時、高崎高校はほぼ全員が朴歯の下駄で登校するというバンカラな校風でした。
(朴歯=ホウバ、と亭主は思い込んでおり、確認のために広辞苑を見たら、ホウバの項目がない! もう死語なんですね。高下駄ともいったような気がする、高さ10cm以上。)
にもかかわらず、700本もの薔薇が植えられていました。ご存知のように、薔薇はほっておいたら枯れる。手入れが大変なんです。
結局、亭主は4つ目に「マンドリン・ギター愛好会」(二年のとき部に昇格し、TMO高崎高校マンドリン・オーケストラとなる)に入り、以来半世紀のマンドリン少年となるのですが、ここまでが長い前置き。

亭主はタカタカが好きでした。
毎朝校門が開くと同時に誰よりも早く一番に登校していました。自転車でしたが、途中、三つ揃いの背広を着ててくてく歩く小柄な老人を追い越します。
その老人は、亭主より少し遅れて校門をくぐり、700本もの薔薇の手入れを始めるのです。
それが一段落すると、傍若無人にも土足(ぴかぴかの革靴)のまま、校長室にとことこ入り一服される。
やがて8時過ぎになると、黒塗りの高級車が校門にあらわれる。老人は井上工業という建設会社の社長で、運転手に早朝出勤をさせるのは気の毒だからと、自宅から母校タカタカには徒歩で通い、通常の勤務時間になるとお抱え運転手がお迎えに参上するという次第。
老人は気が向くと、勝手に美術の授業もした。セザンヌがいつもテーマでした。
15歳の少年は、もう60歳を超えていた井上房一郎(1898~1993)さんがどういう人かも知らず、薔薇の会に入ってときどき手伝い、自宅に呼ばれてマンドリンを弾き、卒業後もしょっちゅう遊びに行っていました。自慢じゃないが歴代の彼女、女房は全員連れていきました。もちろん若き日の社長も。
井上さんは少年たちに夢を語り続けました。
高崎に音楽、美術、そして哲学の場をつくりたい。
その場というのは、建物のことではなく、「精神の拠り所」という意味でした。
だから土建屋のくせにいつも「建物は最後でいい、先ず中味をつくらなければ」とおっしゃっていました。言うのは簡単です、でもそれを営々と続けるのはどんなに大変なことか。
音楽は、地方初のオーケストラとして群馬交響楽団をつくり、その本拠・群馬音楽センターの建設に尽力し、設計は長年親交のあったアントニン・レーモンドに依頼します。当時東洋一といわれた建物は亭主がタカタカに入学した1961年に竣工します。群馬交響楽団と井上さんについては亭主のエッセイをお読みください。

美術は、自分の会社の三階に群馬県美術館設立準備会ファウンデーションギャラリーを開設し46回もの展覧会を開催し、市民に群馬県立近代美術館の設立を呼びかけ自らのコレクションを寄贈します。設計者に若き日の磯崎新先生を起用したのも井上さんです。
このときのことはよく覚えています。ある日、井上さんのお屋敷に伺うと「君はイソザキアラタという建築家を知っているか」と尋ねられました。亭主はまだ磯崎先生の建築は見たことはなく、著書だけは読んでいたので、ない頭を振り絞りイソザキアラタがいかに素晴らしい建築家かということを論じました(今思うと冷や汗もんですが)。
新しい人と知り合ったりすると必ず若い人たちにその人のことを聞くのが井上さんの流儀でした。
後日、磯崎新先生をどういう経緯で知ったのですかと伺うと、「斎藤義重さんから薦められた」とおっしゃっていました。

哲学は、哲学堂設立運動を起こし、建物の設計はレーモンドに依頼していましたが、生前には遂に完成しませんでした。しかし、中味は残した。
亭主を含め少年たちは、井上さんの真の偉大さを知るのは高崎を出たあとでした。
知らないというのは幸いなもので、少年たちは井上さんに「講演会に湯川秀樹を呼んできてくれ」などという無茶苦茶な希望を平気で言った。
ノーベル賞受賞者で当時京都大学教授の湯川博士がお付の人をぞろぞろ連れてタカタカに来たのは亭主が高校一年のときでした。湯川博士の言葉を二つだけ覚えています。
「井上さんに呼ばれて高崎に来たが、私が高校生のために講演するのはこれが初めてで最後です。」
「科学者の使命は新規な発見や発明ではない。人類のために何がいいのか、選択することです。」
井上さんが京都まで出かけ田舎の高校生のために呼んできてくれたのを少年たちは当然のように思っていました。
後述する哲学堂講演会に、若い人が例えば「吉本隆明がいい」などと勝手なことを言うと、また出かけていって吉本さんを高崎に連れてくる、そういう人でした。
歌舞伎の玉三郎の才能にいちはやく注目し、初代後援会長をつとめたのも井上さんです。

文字通り「文化のパトロン」でした。
それを顕彰する熊倉浩靖著『井上房一郎・人と功績』が出版されました。
井上房一郎・人と功績
熊倉浩靖『井上房一郎・人と功績』
2011年7月 みやま文庫刊
231頁

みやま文庫とは、群馬県の郷土史関連の書籍を刊行し、会員に頒布しているところです。従って本書には定価もない。同文庫に頼んで、10冊取り寄せました。
ときの忘れものにありますので、ご興味のある方は、お申し込みください。
頒価:1,500円(送料200円)

著者の熊倉さんは亭主より7,8年後輩で、在学中から井上さんの薫陶を受け、京都大学理学部に進みますが学生運動にのめりこみ中退。高崎に戻り、井上さんの「助手」として文化活動に従事。現在は群馬県立女子大学群馬学センター副センター長・教授。
井上さんが95歳で亡くなるまで側近として仕え、井上さんを最もよく知る人です。


目次
はじめに

第一章 父・井上保三郎 ―「只是一誠」を貫いた地域産業資本家―
 ・高崎の明治維新の子
 ・市制施行・市是具現にかけて
 ・発揮された本領 ―商工業都市高崎の建設―
 ・昭和四年 ―保三郎父子の転機―
 ・白衣大観音建立の心 ―只是一誠―

第二章 房一郎の人間形成と戦前の活動
 ・実母との死別と生涯の師・山本鼎との出会い
 ・パリ ―セザンヌと自我の発見―
 ・帰国 ―工芸運動の日々と房一郎の構想―
 ・タウトとの協働 ―「招聘」の真実―

第三章 戦後三枚の絵 ―郡響・音楽センター、美術館、哲学堂―
 ・郡響 ―物がなくても人々の心に灯を―
 ・群馬音楽センター ―戦後高崎における文化活動の金字塔―
 ・美の托鉢行 ―美術館設立準備会と戸方庵コレクション―
 ・高崎哲学堂の構想と到達点 ―世界大の課題を地域で考えあう―
 ・結びに代えて ―文化遺産としての井上房一郎―

あとがき
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一般に頒布される本ではないので、井上さんへの個人的な亭主の思い出を含め、3回にわけて本書のご紹介をします。
その1その2その3)。

井上さんが愛した画家・山口薫の版画代表作をご紹介しましょう。
山口薫
山口薫昼の月と馬
リトグラフ 37.5x53.5cm
Ed.100 Signed

群馬県の榛名山麓の村、箕輪(現箕郷町)に、11人兄弟の末子として生まれた山口薫(1907~1968)は、自然豊かな風土に絵の好きな少年として育ち、高崎中学(現・高崎高校)に学び、1930年東京美術学校を卒業し、3年間フランスに留学します。
つまり井上さんの中学の後輩にあたります(ということは亭主の大先輩でもあります)。
帰国後は滞仏時代の友人である村井正誠、矢橋六郎らと新時代洋画展、自由美術家協会展、モダンアート協会展を次々と結成し、そこを拠点に日本におけるモダンアート運動の中心的な存在として作品を発表し続けました。抽象と具象の微妙に溶け合ったモダンな造形の中に叙情と幻想を湛えた心象風景を描いた作品は、サンパウロ・ビエンナーレ展やヴェネツィア・ビエンナーレ展などにも出品され、国内ばかりではなく、海外でも高い評価を獲得します。
1958年、第2回グッゲンハイム賞国内賞、1959年毎日美術賞、1960年芸術選奨文部大臣賞などを次々と受賞。1952年からは東京芸術大学で教鞭をとり、多くの作家を育てますが、1968年死去。
「昼の月と馬」は、山口薫の得意としたモチーフのひとつで、少ない色数ながら簡潔な造形と抒情に溢れた秀作リトグラフといえるでしょう。

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