「ル・コルビュジエ展」が盛況のうちに終了しました。
夏の暑い時期なので、出足を心配したのですが、おかげさまでたくさんのお客様にご来場いただきました。作品をお買い上げいただいた皆さんにも心より御礼を申し上げます。
ル・コルビュジエの展覧会は2002年、2007年についで三度目ですが、相変わらず若い人から年配の方まで、幅広い層に人気があることを再認識いたしました。
このあとは、先ず9月9日~17日まで「第21回瑛九展 46の光のかけら/フォトデッサン型紙」を開催。続いて9月28日からは「安藤忠雄展」を予定していますので、どうぞご期待ください。
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自分の勉強不足を棚にあげていうのもなんですが、日本にはずいぶんたくさんの美術館があるんですね。
愛知県に清須市はるひ美術館というのがあるのをご存知ですか。
清洲ではなくて、清須市というのも初めて聞く地名だし、はるひ美術館という名も亭主は知りませんでした。
同館で「特別展 童画家 武井武雄 創造のおもちゃ箱」が開催されています。
会期=平成23年7月9日(土曜日)から9月4日(日曜日)まで
大正から昭和にかけて活躍した童画家、武井武雄(たけい・たけお 1894-1983)の「童画」「版画」「刊本作品」の代表作150点による展示とのことです。
< 「童画」という言葉をご存じですか?
子どもの教育にスポットが当たり始めた大正時代、いわゆる大正児童文化ルネッサンスが花開き、童話や童謡に続いて、絵の分野でも質の高いものをつくろうという動きが出てきます。この運動の先頭を切った一人が武井武雄でした。武井は子どものために描かれた絵を「童画」と命名。今で言う絵本作家のパイオニアです。それまでのような物語の単なる付属物としてではなく、絵それ自体で芸術である挿絵を多く生みだし、絵本画家の地位向上に努めました。『コドモノクニ』や『キンダーブック』など、絵雑誌に掲載された彼の絵はモダンで洗練されており、半世紀以上たった現在の私たちが見ても全く古びていません。>(同館HPより引用)
武井武雄年譜
1894(明治27) 長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)に生まれる。
1913(大正 2) 単身上京。本郷洋画研究所に学ぶ。
1919(大正 8) 東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科卒業。
1921(大正10) 絵雑誌『子供之友』他に子ども向きの絵を描き始める。
1922(大正11) 絵雑誌『コドモノクニ』創刊。企画から参加し、表紙・題字を描く。
1925(大正14) 東京銀座資生堂画廊にて初個展。「童画」という言葉を初めて使う。
1926(大正15) 長編童話『ラムラム王』出版。
1927(昭和 2) 日本童画家協会結成(~1941)。
1935(昭和10) 刊本作品の第一号となる『十二支絵本』刊行。
1938(昭和13) 銅版絵本『地上の祭』出版。
1944(昭和19) 日本版画協会会員となる。
1945(昭和20) 郷里岡谷に疎開(~1948)。空襲で池袋の家を消失。作品も失う。
1946(昭和21) 日本童画会結成(~1961)。
1955(昭和30) フレーベル館『観察絵本キンダーブック』編集顧問となる。
1959(昭和34) 児童文化に貢献した功績により紫綬褒章を受ける。
1962(昭和37) 日本童画家協会結成(戦前の同名の協会とは異なる)。
1964(昭和39) 美術著作権連合結成。
1967(昭和42) 勲四等旭日小綬章を受ける。
1975(昭和50) 童画の代表作を掲載した『武井武雄作品集Ⅰ(童画)』が「世界でもっとも美しい本」としてライプチヒ書籍版画展にてグランプリ受賞。
1983(昭和58) 2月、心筋梗塞のため逝去。享年89歳。(同館HPより転載)
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長々と同館のホームページから年譜を転載させていただきましたが、年譜の1925(大正14)の項をご注目ください。
<1925(大正14) 東京銀座資生堂画廊にて初個展。「童画」という言葉を初めて使う。>とあります。
亭主が長年切望していた「年譜の誤りの訂正」がやっとなされた、安堵とともに10数年前の『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』の編集作業の日々を思いおこし、多少の感慨を覚えます。
同書編纂については、画廊主のエッセイにも書きましたが、足掛け6年かかった編集作業の中で最も苦心したのは、ギャラリー活動の記録を「資料の孫引きはせず、すべてを当時の一次資料のみで構成」することでした。
資生堂は1923年の関東大震災で銀座の社屋他が壊滅、太平洋戦争末期には米軍の東京大空襲でこれまた資料を保管していた工場が全焼してしまいます。つまり社内には資生堂ギャラリーの一次資料(案内状、出品リスト、新聞雑誌の記事など)の多くが失われており、私たち編集スタッフは国会図書館に通い、75年間の新聞雑誌を虱潰しに悉皆調査するという、今から思うと気の遠くなるような作業を繰り返しました。
メセナの先駆的企業である資生堂は上記の資料散逸にもめげず、私たちの編集作業より以前に、何度かの社史、創業者たちの伝記、宣伝史、研究所史、販売会社史などの編纂作業を通じ、実に丁寧にまた根気よく資料を集め、保管し、記録してきました。一化粧品企業に過ぎない資生堂のその努力にはただただ頭が下がります。
資生堂が刊行した社史類の中でも評価が高いのが、1957(昭和32)年11月に創業85年を記念して刊行された『資生堂社史ー資生堂と銀座のあゆみ八五年』です。
編集後記に<資生堂は、銀座の資生堂として長い歳月の間銀座と消長を共にした。幾たびか耐えがたい苦難をも乗り越えてさえきた。もはや資生堂の歴史から銀座を切り離すことはできな
い。その意味からも、こんどの社史は、銀座の変遷と並行して記述することにした。>とある通り、明治からの銀座と資生堂、初代社長・福原信三を知る多くの文化人に寄稿をもとめ、多数の銀座関係の資料と図版を収録しており、銀座に関する第一級の基本文献となっています。
さてここからが本題。
『資生堂社史ー資生堂と銀座のあゆみ八五年』には、武井武雄が寄稿しています。
以下、全文を引用します。
童画は資生堂生れ
武井武雄
大正の中期「赤い鳥」を口火として子供の為の文学が次々と興ったが、画の方もそれ等の要求から発足した為かその目的が挿画にあるかのように思われていた。童謡画だとか童話挿画と呼ばれていたのがその証拠である。なるほど挿画という分野も用途としては確かに存在するけれど、そうした応用的な面を離れても子供に与える美術とし絵画としてまず独立性があるべきだ、という事を言いたいのだが出版を通してでは当時その機会は望めなかった。そこでこれは一つ個展をやる外方法がないという事になって資生堂の画廊を借りる事にした。大震災の翌年で大正十三年、僕もまだ三十位の若ぞうだった。
資生堂画廊といっても震災直後の事で、位置だけは後年の画廊と同じ場所にあったが、一階建のバラックでとても画廊と呼べるものではなかった。多分資生堂美術部と呼んでいたと思う。さてその展覧会の名称だが、挿画からの独立運動なのにまさか童謡画とも言えないので、いろいろと考えた末「武井武雄童画展覧会」でいく事にした。これが今から思えば童画という言葉の誕生となったわけである。
招待日の朝早く出かけてまだ人通りのない会場前の歩道を掃除した記憶があるが、なぜモーニングを着ていたのか今の常識ではわからない。多分大正期というのは矢鱈にモーニングなどを着た時代だったのかもしれない。街路樹は或いは焼けて無かったかもしれないが、画にはアクセサリーにつけてしまった。
会期中に大正天皇銀婚式祝典というのがあって花電車が出たり、すごい人出で展覧会の入場者が一日二万を超えた。おそらく数だけでは資生堂展のレコードではないかと思うが、何分歩道が一杯で歩けないので、そのおこぼれがむしろ避難してなだれ込んだのかもしれない。こうなると画なんか見るどころの話ではない。
ある日田舎の県会議員みたいな顔をしたおじさんが昂然としてはいって来て、「なんじゃこれは、表に童画展と出ているのに、はいって見れば大人の描いたもんじゃないか」と甚だ御機嫌が斜めである。そこで「まあ一寸待って下さい。大人が画いても童話と言い童謡と言う、それとどうようなんだ。画だけがなんで大人が描いて童画でいけないのか」といったらおじさんはじめて頭をかいて「なある程、そういえばその通りじゃ」……それ程童画という言葉がめずらしかったのだった。今では子供に見せる方のが童画で、子供の描く方のが児童画、同じ意味だが習慣上そう区別される常識になっている。
それから市川延若(実川ではない)という役者が夫妻ではいって来て、めぼしいの六七点に景気よく赤札を貼って出て行ったので、一寸あっけにとられて意外な方角にファンは居るものだなァ、と感心していると、やがて一時間程すると電話であっさり解約を申込んで来た。現場ではさすがに言いにくかったものらしい。又女学生が五十銭出してこれで送料まで、というのもあった。これは双方とも雑誌の口絵などから価格を錯覚して円と銭と単位をとり違えていたものである。こうした展覧会をはじめて見たのだから印刷物と区別のつかないのも亦無理のない話である。然しはじめての試みという点で東京の新聞は全部写真を載せたし、五〇点の作品は九割まで売約された。
新聞広告で一週間だけ受付に傭った娘さんに資生堂の奥さん(信三氏夫人)が惚れこんで、あの子はお宅に居る人か、会期中だけの人か、というので、閉会と同時にお別れだといったら、すぐに御採用、閉会の翌る日からもう化粧品部で包装をやっていた。全くいい時代だった。

*左は同書に掲載された武井武雄自筆の挿画。
1924とはっきり書いてあります。
つまり作家本人が、初個展を関東大震災の翌年1924年(大正13)と記述しています。
以後、本人の著書、ご遺族の著書、文学史の研究者たちの論文などなど、全ての文献には、武井武雄の資生堂における初個展は1924年(大正13)というのが定説になってしまった。
さきほど、述べたように私たち編集方針は「資料の孫引きはせず、すべてを当時の一次資料のみで構成」することでしたから、この社史の記述も孫引きするわけには行かず、確認作業に入りました。
ところが、捜せど捜せど当時の新聞雑誌には一行たりとも1924年(大正13)に武井武雄の展覧会が開かれたという記述は見当たりません。
これには往生しました。
結局数年間、資料を渉猟しつくして、最終的には武井武雄の思い違いであり、事実は、1925年(大正14)年5月8日~5月13日に「武井武雄氏童画展覧会」が開催されていることを正式な記録として確定しました。
もちろん裏づけとなる当時の記録(東京朝日新聞、萬朝報、雑誌『コドモノクニ』も掘り起こすことができました。
研究者にとっては、本人とご遺族の言うことさえも疑ってかかる姿勢が必要ということですね。
夏の暑い時期なので、出足を心配したのですが、おかげさまでたくさんのお客様にご来場いただきました。作品をお買い上げいただいた皆さんにも心より御礼を申し上げます。
ル・コルビュジエの展覧会は2002年、2007年についで三度目ですが、相変わらず若い人から年配の方まで、幅広い層に人気があることを再認識いたしました。
このあとは、先ず9月9日~17日まで「第21回瑛九展 46の光のかけら/フォトデッサン型紙」を開催。続いて9月28日からは「安藤忠雄展」を予定していますので、どうぞご期待ください。
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自分の勉強不足を棚にあげていうのもなんですが、日本にはずいぶんたくさんの美術館があるんですね。
愛知県に清須市はるひ美術館というのがあるのをご存知ですか。
清洲ではなくて、清須市というのも初めて聞く地名だし、はるひ美術館という名も亭主は知りませんでした。
同館で「特別展 童画家 武井武雄 創造のおもちゃ箱」が開催されています。
会期=平成23年7月9日(土曜日)から9月4日(日曜日)まで
大正から昭和にかけて活躍した童画家、武井武雄(たけい・たけお 1894-1983)の「童画」「版画」「刊本作品」の代表作150点による展示とのことです。
< 「童画」という言葉をご存じですか?
子どもの教育にスポットが当たり始めた大正時代、いわゆる大正児童文化ルネッサンスが花開き、童話や童謡に続いて、絵の分野でも質の高いものをつくろうという動きが出てきます。この運動の先頭を切った一人が武井武雄でした。武井は子どものために描かれた絵を「童画」と命名。今で言う絵本作家のパイオニアです。それまでのような物語の単なる付属物としてではなく、絵それ自体で芸術である挿絵を多く生みだし、絵本画家の地位向上に努めました。『コドモノクニ』や『キンダーブック』など、絵雑誌に掲載された彼の絵はモダンで洗練されており、半世紀以上たった現在の私たちが見ても全く古びていません。>(同館HPより引用)
武井武雄年譜
1894(明治27) 長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)に生まれる。
1913(大正 2) 単身上京。本郷洋画研究所に学ぶ。
1919(大正 8) 東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科卒業。
1921(大正10) 絵雑誌『子供之友』他に子ども向きの絵を描き始める。
1922(大正11) 絵雑誌『コドモノクニ』創刊。企画から参加し、表紙・題字を描く。
1925(大正14) 東京銀座資生堂画廊にて初個展。「童画」という言葉を初めて使う。
1926(大正15) 長編童話『ラムラム王』出版。
1927(昭和 2) 日本童画家協会結成(~1941)。
1935(昭和10) 刊本作品の第一号となる『十二支絵本』刊行。
1938(昭和13) 銅版絵本『地上の祭』出版。
1944(昭和19) 日本版画協会会員となる。
1945(昭和20) 郷里岡谷に疎開(~1948)。空襲で池袋の家を消失。作品も失う。
1946(昭和21) 日本童画会結成(~1961)。
1955(昭和30) フレーベル館『観察絵本キンダーブック』編集顧問となる。
1959(昭和34) 児童文化に貢献した功績により紫綬褒章を受ける。
1962(昭和37) 日本童画家協会結成(戦前の同名の協会とは異なる)。
1964(昭和39) 美術著作権連合結成。
1967(昭和42) 勲四等旭日小綬章を受ける。
1975(昭和50) 童画の代表作を掲載した『武井武雄作品集Ⅰ(童画)』が「世界でもっとも美しい本」としてライプチヒ書籍版画展にてグランプリ受賞。
1983(昭和58) 2月、心筋梗塞のため逝去。享年89歳。(同館HPより転載)
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長々と同館のホームページから年譜を転載させていただきましたが、年譜の1925(大正14)の項をご注目ください。
<1925(大正14) 東京銀座資生堂画廊にて初個展。「童画」という言葉を初めて使う。>とあります。
亭主が長年切望していた「年譜の誤りの訂正」がやっとなされた、安堵とともに10数年前の『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』の編集作業の日々を思いおこし、多少の感慨を覚えます。
同書編纂については、画廊主のエッセイにも書きましたが、足掛け6年かかった編集作業の中で最も苦心したのは、ギャラリー活動の記録を「資料の孫引きはせず、すべてを当時の一次資料のみで構成」することでした。
資生堂は1923年の関東大震災で銀座の社屋他が壊滅、太平洋戦争末期には米軍の東京大空襲でこれまた資料を保管していた工場が全焼してしまいます。つまり社内には資生堂ギャラリーの一次資料(案内状、出品リスト、新聞雑誌の記事など)の多くが失われており、私たち編集スタッフは国会図書館に通い、75年間の新聞雑誌を虱潰しに悉皆調査するという、今から思うと気の遠くなるような作業を繰り返しました。
メセナの先駆的企業である資生堂は上記の資料散逸にもめげず、私たちの編集作業より以前に、何度かの社史、創業者たちの伝記、宣伝史、研究所史、販売会社史などの編纂作業を通じ、実に丁寧にまた根気よく資料を集め、保管し、記録してきました。一化粧品企業に過ぎない資生堂のその努力にはただただ頭が下がります。
資生堂が刊行した社史類の中でも評価が高いのが、1957(昭和32)年11月に創業85年を記念して刊行された『資生堂社史ー資生堂と銀座のあゆみ八五年』です。
編集後記に<資生堂は、銀座の資生堂として長い歳月の間銀座と消長を共にした。幾たびか耐えがたい苦難をも乗り越えてさえきた。もはや資生堂の歴史から銀座を切り離すことはできな
い。その意味からも、こんどの社史は、銀座の変遷と並行して記述することにした。>とある通り、明治からの銀座と資生堂、初代社長・福原信三を知る多くの文化人に寄稿をもとめ、多数の銀座関係の資料と図版を収録しており、銀座に関する第一級の基本文献となっています。
さてここからが本題。
『資生堂社史ー資生堂と銀座のあゆみ八五年』には、武井武雄が寄稿しています。
以下、全文を引用します。
童画は資生堂生れ
武井武雄
大正の中期「赤い鳥」を口火として子供の為の文学が次々と興ったが、画の方もそれ等の要求から発足した為かその目的が挿画にあるかのように思われていた。童謡画だとか童話挿画と呼ばれていたのがその証拠である。なるほど挿画という分野も用途としては確かに存在するけれど、そうした応用的な面を離れても子供に与える美術とし絵画としてまず独立性があるべきだ、という事を言いたいのだが出版を通してでは当時その機会は望めなかった。そこでこれは一つ個展をやる外方法がないという事になって資生堂の画廊を借りる事にした。大震災の翌年で大正十三年、僕もまだ三十位の若ぞうだった。
資生堂画廊といっても震災直後の事で、位置だけは後年の画廊と同じ場所にあったが、一階建のバラックでとても画廊と呼べるものではなかった。多分資生堂美術部と呼んでいたと思う。さてその展覧会の名称だが、挿画からの独立運動なのにまさか童謡画とも言えないので、いろいろと考えた末「武井武雄童画展覧会」でいく事にした。これが今から思えば童画という言葉の誕生となったわけである。
招待日の朝早く出かけてまだ人通りのない会場前の歩道を掃除した記憶があるが、なぜモーニングを着ていたのか今の常識ではわからない。多分大正期というのは矢鱈にモーニングなどを着た時代だったのかもしれない。街路樹は或いは焼けて無かったかもしれないが、画にはアクセサリーにつけてしまった。
会期中に大正天皇銀婚式祝典というのがあって花電車が出たり、すごい人出で展覧会の入場者が一日二万を超えた。おそらく数だけでは資生堂展のレコードではないかと思うが、何分歩道が一杯で歩けないので、そのおこぼれがむしろ避難してなだれ込んだのかもしれない。こうなると画なんか見るどころの話ではない。
ある日田舎の県会議員みたいな顔をしたおじさんが昂然としてはいって来て、「なんじゃこれは、表に童画展と出ているのに、はいって見れば大人の描いたもんじゃないか」と甚だ御機嫌が斜めである。そこで「まあ一寸待って下さい。大人が画いても童話と言い童謡と言う、それとどうようなんだ。画だけがなんで大人が描いて童画でいけないのか」といったらおじさんはじめて頭をかいて「なある程、そういえばその通りじゃ」……それ程童画という言葉がめずらしかったのだった。今では子供に見せる方のが童画で、子供の描く方のが児童画、同じ意味だが習慣上そう区別される常識になっている。
それから市川延若(実川ではない)という役者が夫妻ではいって来て、めぼしいの六七点に景気よく赤札を貼って出て行ったので、一寸あっけにとられて意外な方角にファンは居るものだなァ、と感心していると、やがて一時間程すると電話であっさり解約を申込んで来た。現場ではさすがに言いにくかったものらしい。又女学生が五十銭出してこれで送料まで、というのもあった。これは双方とも雑誌の口絵などから価格を錯覚して円と銭と単位をとり違えていたものである。こうした展覧会をはじめて見たのだから印刷物と区別のつかないのも亦無理のない話である。然しはじめての試みという点で東京の新聞は全部写真を載せたし、五〇点の作品は九割まで売約された。
新聞広告で一週間だけ受付に傭った娘さんに資生堂の奥さん(信三氏夫人)が惚れこんで、あの子はお宅に居る人か、会期中だけの人か、というので、閉会と同時にお別れだといったら、すぐに御採用、閉会の翌る日からもう化粧品部で包装をやっていた。全くいい時代だった。

*左は同書に掲載された武井武雄自筆の挿画。
1924とはっきり書いてあります。
つまり作家本人が、初個展を関東大震災の翌年1924年(大正13)と記述しています。
以後、本人の著書、ご遺族の著書、文学史の研究者たちの論文などなど、全ての文献には、武井武雄の資生堂における初個展は1924年(大正13)というのが定説になってしまった。
さきほど、述べたように私たち編集方針は「資料の孫引きはせず、すべてを当時の一次資料のみで構成」することでしたから、この社史の記述も孫引きするわけには行かず、確認作業に入りました。
ところが、捜せど捜せど当時の新聞雑誌には一行たりとも1924年(大正13)に武井武雄の展覧会が開かれたという記述は見当たりません。
これには往生しました。
結局数年間、資料を渉猟しつくして、最終的には武井武雄の思い違いであり、事実は、1925年(大正14)年5月8日~5月13日に「武井武雄氏童画展覧会」が開催されていることを正式な記録として確定しました。
もちろん裏づけとなる当時の記録(東京朝日新聞、萬朝報、雑誌『コドモノクニ』も掘り起こすことができました。
研究者にとっては、本人とご遺族の言うことさえも疑ってかかる姿勢が必要ということですね。
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