美術展のおこぼれ17
「イケムラレイコ うつりゆくもの」
会期:2011年8月23日―10月23日
会場:東京国立近代美術館


このひとについて、じつはほとんど知らなかった。過去に国内で開かれた企画展にも行ってないので、実際に作品に接したのは今回がはじめてである。この回顧展はイケムラレイコというひとの全貌をとてもうまく、知的にまた詩的に感応させ伝えてくる。会場構成/デザインとカタログ編集/デザインが、ほかに同じような例を思い出せないほどよくつくられている。そして結局はイケムラレイコそのひとの魅力というか凄さが直截に迫ってくる。
会場入口でもらったパンフレットには「『時間』をさかのぼるようにして作品を展示しています」と説明され全部で15室に分けたプランも図示されている。その第1室には、横向きに眠っている少女の顔をクローズアップした油彩<青に浮かぶ>と、ブランクーシの<眠れるミューズ>を思い出させるような頭部だけのテラコッタ、<きつねヘッド>との2作品が展示されているだけだが、ここが会場の基点でもありビバーク・ポイントでもある。というのも第2室以降は予断を許さない「うつりゆくもの」に次々と見舞われるなかで、文句なく魅力的な上の2作品が初心者にとってひとつの依りどころになるように思えるからだ。展示室の大半をめぐり終えたあたりでまたこの第1室のわきに戻ってくる動線は、そうした不慣れな観客への配慮とさえ思える。
実際、第2室の<山水画>シリーズ、ついで赤い雲か波のなかに立つ赤い少女の謎めいた立像、さらにこれはよく知られているが、横たわり、眠り、ひざまずく少女たち(油彩、セラミック、ブロンズ)、一転して、何もない画面に夜や朝の光が水平に滲んでいる<うみのけしき>、あるいは燃えるような溶けるような<樹>のシリーズなど、どの作品群も出会った瞬間はどう対応していいか分からない。だがそれらは、ふつうなら作風の変遷とか多様な対象への旺盛な好奇心とかで説明されかねないアーティストの軌跡とは、じつは対極にあるものだと、だれもが直観するにちがいない。解読が拒まれている。しかしその最初の戸惑いが過ぎたあとは、これまで体験したことのないような共振が、その正体が判別できないままに、心のなかにみるみる兆してくる。なんというひとなのだろう。
15の展示室はその大小でめりはりをつけながら充実感は等質であるといってもよく、「本」の仕事の部屋とか、1980年代の作品を見せる部屋でのドローイングやこれまでの展覧会の記録を映像でたっぷり見せる仕掛けとか(これ、どちらも必見)、とても親切に構成されているのだ。でもこれらの仕事の魅力を伝えたいと思うと、片言をやっとつぶやきはじめた幼児みたいな気分になる。いまはそれでいいと自分に言いきかせる。
こういう展覧会で図録を読むのは降参のしるしである。これがまたじつに見事に編集され美しいブックデザインになっている。展示作品のレイアウト(結局はこれがいちばん難しいのではないか)はオーソドックスに見えるが会場の雰囲気を彷彿させるし、彼女をよく知る9人もの論考は作家と作品への読みの深さが、彼女を少しでも知りたいとねがう人々にとって基本軸をつくっている。そしてなによりもイケムラレイコそのひとのロング・インタビューでの話しかたが、希望といえるほどの、じつに厳しくじつに率直に開かれた、描くことつくること書くことの大きな世界を見せている。こうした作家論、年譜、文献欄、作品リストは作品頁とは用紙を切り替えているのでとても楽な気持ちになれる。
そしてさいごの奥付けがあって図録をいったん完結させたあと、唐突に川内倫子撮影によるアーティストのアトリエと製作現場とを見せる、エンディングとしてのオールカラー16ページは展覧会図録としてまったく斬新だ。その最終ページにカメラを正面から見つめるイケムラレイコがやっと登場する。その眼差しは賢者のうさぎみたいな印象。いずれにしてもこの会場構成と図録にはアーティストへの愛があふれている。それによってこそイケムラレイコの全貌を感じるのだ。
肝心の作品そのものに触れることからは今回は逃げておくが、いつかはそこに自分なりの言葉を発見したい。これはアートを見る慣習そのものが問いつめられるような回顧展だった。
(2011.10.7 うえだまこと)
*本展覧会は東京国立近代美術館での開催後、三重県立美術館で巡回開催されます。
会期:2011年11月8日(火)-2012年1月22日(日)
「イケムラレイコ うつりゆくもの」
会期:2011年8月23日―10月23日
会場:東京国立近代美術館


このひとについて、じつはほとんど知らなかった。過去に国内で開かれた企画展にも行ってないので、実際に作品に接したのは今回がはじめてである。この回顧展はイケムラレイコというひとの全貌をとてもうまく、知的にまた詩的に感応させ伝えてくる。会場構成/デザインとカタログ編集/デザインが、ほかに同じような例を思い出せないほどよくつくられている。そして結局はイケムラレイコそのひとの魅力というか凄さが直截に迫ってくる。
会場入口でもらったパンフレットには「『時間』をさかのぼるようにして作品を展示しています」と説明され全部で15室に分けたプランも図示されている。その第1室には、横向きに眠っている少女の顔をクローズアップした油彩<青に浮かぶ>と、ブランクーシの<眠れるミューズ>を思い出させるような頭部だけのテラコッタ、<きつねヘッド>との2作品が展示されているだけだが、ここが会場の基点でもありビバーク・ポイントでもある。というのも第2室以降は予断を許さない「うつりゆくもの」に次々と見舞われるなかで、文句なく魅力的な上の2作品が初心者にとってひとつの依りどころになるように思えるからだ。展示室の大半をめぐり終えたあたりでまたこの第1室のわきに戻ってくる動線は、そうした不慣れな観客への配慮とさえ思える。
実際、第2室の<山水画>シリーズ、ついで赤い雲か波のなかに立つ赤い少女の謎めいた立像、さらにこれはよく知られているが、横たわり、眠り、ひざまずく少女たち(油彩、セラミック、ブロンズ)、一転して、何もない画面に夜や朝の光が水平に滲んでいる<うみのけしき>、あるいは燃えるような溶けるような<樹>のシリーズなど、どの作品群も出会った瞬間はどう対応していいか分からない。だがそれらは、ふつうなら作風の変遷とか多様な対象への旺盛な好奇心とかで説明されかねないアーティストの軌跡とは、じつは対極にあるものだと、だれもが直観するにちがいない。解読が拒まれている。しかしその最初の戸惑いが過ぎたあとは、これまで体験したことのないような共振が、その正体が判別できないままに、心のなかにみるみる兆してくる。なんというひとなのだろう。
15の展示室はその大小でめりはりをつけながら充実感は等質であるといってもよく、「本」の仕事の部屋とか、1980年代の作品を見せる部屋でのドローイングやこれまでの展覧会の記録を映像でたっぷり見せる仕掛けとか(これ、どちらも必見)、とても親切に構成されているのだ。でもこれらの仕事の魅力を伝えたいと思うと、片言をやっとつぶやきはじめた幼児みたいな気分になる。いまはそれでいいと自分に言いきかせる。
こういう展覧会で図録を読むのは降参のしるしである。これがまたじつに見事に編集され美しいブックデザインになっている。展示作品のレイアウト(結局はこれがいちばん難しいのではないか)はオーソドックスに見えるが会場の雰囲気を彷彿させるし、彼女をよく知る9人もの論考は作家と作品への読みの深さが、彼女を少しでも知りたいとねがう人々にとって基本軸をつくっている。そしてなによりもイケムラレイコそのひとのロング・インタビューでの話しかたが、希望といえるほどの、じつに厳しくじつに率直に開かれた、描くことつくること書くことの大きな世界を見せている。こうした作家論、年譜、文献欄、作品リストは作品頁とは用紙を切り替えているのでとても楽な気持ちになれる。
そしてさいごの奥付けがあって図録をいったん完結させたあと、唐突に川内倫子撮影によるアーティストのアトリエと製作現場とを見せる、エンディングとしてのオールカラー16ページは展覧会図録としてまったく斬新だ。その最終ページにカメラを正面から見つめるイケムラレイコがやっと登場する。その眼差しは賢者のうさぎみたいな印象。いずれにしてもこの会場構成と図録にはアーティストへの愛があふれている。それによってこそイケムラレイコの全貌を感じるのだ。
肝心の作品そのものに触れることからは今回は逃げておくが、いつかはそこに自分なりの言葉を発見したい。これはアートを見る慣習そのものが問いつめられるような回顧展だった。
(2011.10.7 うえだまこと)
*本展覧会は東京国立近代美術館での開催後、三重県立美術館で巡回開催されます。
会期:2011年11月8日(火)-2012年1月22日(日)
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