大竹昭子のエッセイ「レンズ通り午前零時」第10回
10.鋼鉄の街の女神
「清掃車の破れたポスター」
都市の景観は、その街を造りあげている素材によってもたらされる部分が大きいように思う。東京はビルばかりになったとはいえ、どこかに木の材質感が漂っているし、バンコックや香港などのアジアの都市には竹の感触がにおうような気がする。
これがヨーロッパの都市となると、圧倒的な力を持っているのは石である。地中から石を切り出し、積み上げ、人の生活する空間を造ってきた経緯が、そのまま形になって残された強固な質感に覆われている。それに比べると、東京のビルなどは「木と紙の家」の名残りを引きずっているようにあやうく、出自は争えないものだと思う。
ではニューヨークはどのような素材の街かというと、石が使われているのはもちろんだが、それ以上に強く迫ってくるのは鋼鉄の感触である。はじめて地下鉄のプラットホーム立ったとき、駅構内というよりも炭坑内にいるようで、あの暗いトンネルの奥から本当に電車が出てくるのだろうかと訝しんだ。ホームもトンネル坑内も柱がすべて鋼鉄製で、しかも何の覆いもなくむきだしなのだった。材質が見えたほうが安心だろうと言わんばかりのこの率直さは、日本では見たことのないものであり、思わずたじろいだのだった。
不安になって待つうちに電車が滑り込んできたが、これもまた鋼鉄の固まりのような代物で、力の有り余った巨漢の黒人がドアを蹴飛ばしてもびくともしない。どうやら、堅牢さこそがこの都市の設備に必要とされる条件であるらしかった。
石造りとばかり思っていたビルのファサードが、よく見れば鋼鉄製だったのにも驚いた。キャストアイロン・ビルと呼ばれるこの建物はダウンタウンに多く、とくにソーホーの倉庫などはほとんどこの工法で造られており、近よって手で触れ、細部を見て、やっぱりこれもそうだと発見するのは、本物そっくりにできた観葉植物が模造品であるのを確かめるときのおもしろさに似ていた。
かように重みのあるものにあふれた街中で、日々出会っていた重量級のものと言えばゴミ清掃車である。どこの街でも清掃車には存在感があるが、ニューヨークのそれはどこよりもその武骨さを強く主張していた。ゴミそのものが大きくてかさばり、荒っぽいなりをしているので、それに対抗するには頑強でなければもたないのである。
朝のストリートにうなりを上げてこの鋼鉄の箱を引っ張ったゴミ車がやってくる。高さのある巨体なボックスが、路上の業務用ゴミ容器(これすら結構なサイズだ)に入っている粗大ゴミをつぎつぎと呑み込んでいく。アスター・プレイスの駅前広場からグリニッジ・ビレッジのほうに抜けようとした秋の日、それに出くわした。車両の通行が滞るほどの巨体からふてぶてしさがにじみ出ている。
横を通ろうとしたとき、視線を感じて箱の上部を見上げると、美女が微笑んでいた。開いた口元から真っ白な歯がのぞき、ぱっちりと開いた瞳は遠くに注がれている。「希望」という文字を当てはめたくなるような快活さによって、箱の汚れや傷さえもが健康の象徴のように見えた。
皮肉なのは、彼女の顔の横に「張り紙禁止」の文字があることだった。彼女もまた肉体のない、張り紙の上の人物だったのである。文字はもとからあったものではなく、なんども張られて業を煮やした清掃局員がその場で手書きしたようないまいましさが満ちていた。そうしたせめぎ合う主張の数々を鉄の壁は難なく吸収していた。
彼女がもとは何を訴えていたのかはわからない。何者かの手によってポスターの宣伝文句が顔だけが浮き立つように削り取られていた。言うべきせりふを忘れた彼女は、いま鉄の壁に切られた窓のなかから、「永遠」というものにむかって微笑んでいるのだった。
(おおたけ あきこ)
10.鋼鉄の街の女神

都市の景観は、その街を造りあげている素材によってもたらされる部分が大きいように思う。東京はビルばかりになったとはいえ、どこかに木の材質感が漂っているし、バンコックや香港などのアジアの都市には竹の感触がにおうような気がする。
これがヨーロッパの都市となると、圧倒的な力を持っているのは石である。地中から石を切り出し、積み上げ、人の生活する空間を造ってきた経緯が、そのまま形になって残された強固な質感に覆われている。それに比べると、東京のビルなどは「木と紙の家」の名残りを引きずっているようにあやうく、出自は争えないものだと思う。
ではニューヨークはどのような素材の街かというと、石が使われているのはもちろんだが、それ以上に強く迫ってくるのは鋼鉄の感触である。はじめて地下鉄のプラットホーム立ったとき、駅構内というよりも炭坑内にいるようで、あの暗いトンネルの奥から本当に電車が出てくるのだろうかと訝しんだ。ホームもトンネル坑内も柱がすべて鋼鉄製で、しかも何の覆いもなくむきだしなのだった。材質が見えたほうが安心だろうと言わんばかりのこの率直さは、日本では見たことのないものであり、思わずたじろいだのだった。
不安になって待つうちに電車が滑り込んできたが、これもまた鋼鉄の固まりのような代物で、力の有り余った巨漢の黒人がドアを蹴飛ばしてもびくともしない。どうやら、堅牢さこそがこの都市の設備に必要とされる条件であるらしかった。
石造りとばかり思っていたビルのファサードが、よく見れば鋼鉄製だったのにも驚いた。キャストアイロン・ビルと呼ばれるこの建物はダウンタウンに多く、とくにソーホーの倉庫などはほとんどこの工法で造られており、近よって手で触れ、細部を見て、やっぱりこれもそうだと発見するのは、本物そっくりにできた観葉植物が模造品であるのを確かめるときのおもしろさに似ていた。
かように重みのあるものにあふれた街中で、日々出会っていた重量級のものと言えばゴミ清掃車である。どこの街でも清掃車には存在感があるが、ニューヨークのそれはどこよりもその武骨さを強く主張していた。ゴミそのものが大きくてかさばり、荒っぽいなりをしているので、それに対抗するには頑強でなければもたないのである。
朝のストリートにうなりを上げてこの鋼鉄の箱を引っ張ったゴミ車がやってくる。高さのある巨体なボックスが、路上の業務用ゴミ容器(これすら結構なサイズだ)に入っている粗大ゴミをつぎつぎと呑み込んでいく。アスター・プレイスの駅前広場からグリニッジ・ビレッジのほうに抜けようとした秋の日、それに出くわした。車両の通行が滞るほどの巨体からふてぶてしさがにじみ出ている。
横を通ろうとしたとき、視線を感じて箱の上部を見上げると、美女が微笑んでいた。開いた口元から真っ白な歯がのぞき、ぱっちりと開いた瞳は遠くに注がれている。「希望」という文字を当てはめたくなるような快活さによって、箱の汚れや傷さえもが健康の象徴のように見えた。
皮肉なのは、彼女の顔の横に「張り紙禁止」の文字があることだった。彼女もまた肉体のない、張り紙の上の人物だったのである。文字はもとからあったものではなく、なんども張られて業を煮やした清掃局員がその場で手書きしたようないまいましさが満ちていた。そうしたせめぎ合う主張の数々を鉄の壁は難なく吸収していた。
彼女がもとは何を訴えていたのかはわからない。何者かの手によってポスターの宣伝文句が顔だけが浮き立つように削り取られていた。言うべきせりふを忘れた彼女は、いま鉄の壁に切られた窓のなかから、「永遠」というものにむかって微笑んでいるのだった。
(おおたけ あきこ)
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