磯崎新『栖十二』より第十信小堀遠州[孤篷庵 忘筌]
「磯崎新銅版画展 栖十二」は本日が最終日です。
夕方からはささやかに納会(忘年会)を開きます。年末のお忙しい時期でしょうが、どうぞお出かけください。
昨日は細江英公先生、宮脇愛子先生とそれぞれ来年の個展についての打合せをさせていただきました。お二人とも80歳を超えておられますがきっと素晴らしい展示を見せていただけると思います。
2011年の営業は本日をもって終了します。
311の大震災が全てを覆ってしまった1年でした。
亡くなられた方、行方不明の方、被災されいまだ故郷に帰れない人々のことを思うと、心がいたみます。自分たちの非力を感じ、自然の前に傲慢だった私たちの来し方を反省せずにはおられません。
後日詳しくご報告しますが、昨日「桃・柿育英会」に485,285円を送金しました。
ジョック・スタージスさんからの作品寄贈による厚意に、私たちの志も加えて、前回は7月1日に102万円を日本赤十字社に送金しましたが、今回は震災による孤児や遺児のための育英資金にと安藤忠雄先生が立ち上げた桃・柿育英会に寄付しました。
継続して今後も出来ることをするつもりです。
作品をご購入することで参加協力して下さったお客様に心より謝意を表します。
画廊は休みに入りますが、このブログは「年中無休 毎日更新」、年末年始も来年個展を予定している作家の皆さんやエッセイの寄稿者たちの応援を得て、休まず発信しますので、ぜひお読みください。
磯崎新が古今東西の建築家12人に捧げた銅版画連作〈栖十二〉の全40点は1998年夏から翌1999年9月にかけての僅か1年間に制作されました。
予め予約購読者を募り、書簡形式の連刊画文集『栖 十二』―十二章のエッセイと十二点の銅版画―を十二の場所から、十二の日付のある書簡として限定35人に郵送するという、住まいの図書館出版局の植田実編集長のたくみな企画(アイデア)が磯崎先生の制作へのモチベーションを高めたことは間違いありません。
このとき書き下ろした十二章のエッセイは、1999年に住まい学大系第100巻『栖すみか十二』として出版されました。
その経緯は先日のブログをお読みいただくとして、1998~1999年の制作と頒布の同時進行のドキュメントを、各作品と事務局からの毎月(号)の「お便り」を再録することで皆様にご紹介しています。
第十信は小堀遠州[孤篷庵 忘筌]です。
残り二つの「栖」十一、十二信については、このブログで引き続き明日、明後日とご紹介します。
磯崎新『栖十二』第十信パッケージ
磯崎新〈栖 十二〉第十信より《挿画31》
小堀遠州[孤篷庵 忘筌] 1643(寛永20)年 京都
磯崎新〈栖 十二〉第十信より《挿画32》
小堀遠州[孤篷庵 忘筌] 1643(寛永20)年 京都
磯崎新〈栖 十二〉第十信より《挿画33》
小堀遠州[孤篷庵 忘筌] 1643(寛永20)年 京都
磯崎新〈栖 十二〉第十信より《挿画34》
小堀遠州[孤篷庵 忘筌] 1643(寛永20)年 京都
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第十信・事務局連絡
一九九九年八月一日京都市・京都中央郵便局より発送
第十信をお届けします。小堀遠州の孤篷庵・忘筌です。
パッケージ、エッチング、書簡の挿図のすべては、このために久しぶりに孤篷庵を訪ねた磯崎さんのスケッチ(メモ入りにご注目下さい!)をそのまま活かしています。このシリーズのなかでもとりわけくつろいだ雰囲気で、いつまでも見飽きません。これまで写真などを眺めていてもいまひとつ分からなかった、この茶室のライブ感が伝わってきます。しかも単独に賞味しようとしても分かるはずのない茶室の位置づけが、そこに至る流れまで教えられて、はじめてはっきりと見えてきた。これはたいへんな機会でした。
書簡は、利休の待庵を五〇年前、学生時代の磯崎さんが訪ねたところからはじまっています。今では一般の見学者は外から拝見するだけというおそれ多い存在ですが、当時はほこりが舞うくらいに、あまり丁寧に扱われていなかったという茶室は、異化作用をおこすほどに生々しい感触で、いきなり私たちの目の前に現れます。ここから利休、織部にいたる歴史が一気にたどられている。例によってざっくばらんな書簡体で、しかも茶室についてという以上に、政治と文化が語られています。私は途中で何度も「そうか、そういうことなのだ」と声に出して納得したほどですが、それほど一瞬にして、長年あいまいな理解のままに放っておいた茶席の意味が明快に見えてきたのでした。
遠州は書簡の後半に登場します。完結的な極小空間である待庵に対して、書院の一コーナーに組み込まれた茶席はさらにとっつきにくいものだったのですが、その「意図的解体工作」という説明がすべてを氷解させてくれる思いでした。あとは直接書簡にあたっていただければ十分ですが、もともとこうした茶室観は磯崎さんの独壇場。ほかにも数多く論考があり、実作や展示作品もあります。改めて読み直し、見直すきっかけができました。例えば珠光—利休—織部—遠州という流れを、磯崎さんは近—現代建築のなかでの日本のとらえ方と参照することを強く意識しているようで、近代主義によって桂を解読してきた展開を、タウトには珠光の茶を、堀口捨己には利休を、丹下健三には織部を比喩的に見立てている。そして「さしずめ次の読解装置は、”遠州”の茶のようでなければなるまい。」といっています。新しい発見がなくても、茶の知識と手法の集積から「独自の好みを抽出し、キッチュ化することもおそれずに、これを一般化するシステムへと変換した遠州の姿勢」が、丹下以降の世代にとって「只ひとつ残された道」(「桂——その両義的な空間」岩波書店、一九八三)というのですが、そこに読者が磯崎新の名を入れたくなるのは当然です。
それにしても、ここでの栖は、さらに「終の栖」の性格を一段と深めてきたようです。
あと二信を残すのみとなりました。
前回の第九信には、西池袋郵便局の消印が押されているのに気づかれましたか。
フランク・ロイド・ライトはハリウッドから出したかったのですが、それはあきらめて、日本に残された自由学園の明日館のある地から、というわけでした。お茶をにごしたみたいですが、磯崎さんの書簡はライトのどの住宅を選ぶかというより、ライトというある意味では複雑な建築家の全体像について語っています。そのライトはアメリカからの逃避行の途上で、フィレンツェの市街を見下ろす丘の上に立っています。そこに彼を立たしめた、いくつかの住宅とそのクライアントとの因縁が挙げられている。オークパークのチェニー邸、さらには大邸宅マコーミック邸計画の挫折、日本の掛け軸の構図をとりこんだことで知られるハーディ邸。ハリウッドのバーンスダール邸、ミラード邸。そして今回エッチングに描かれたフリーマン邸。この書簡はコンパクトなライトの住宅論であるといってもいいでしょう。そのなかから「眺望」する場所との深い関係という、これまでにあまり語られることのなかったライトの住宅の特性が次第に浮き彫りにされてきます。
それに磯崎さん自身が手掛けられた軽井沢の辻邸が重なり、次いでヒッチコックの監督した『北北西に進路をとれ』に登場する空中テラス状の住宅まで引き合いに出される。ヒッチコックがフランソワ・トリュフォーに打ち明けていますが、このスパイの隠れ家もライトの設計した邸宅のコピーだそうです。そしてスーパーマンの家からタトリンの人力飛行機まで、空に向かう建築や飛行機が、勢いづくように次々と現れてきたのにはまいりました。
『栖十二』は、回を追うにつれて一軒一軒を対象にすることから、建築家やジャンルの包括的な記述へと広がり、広がるほどにより強烈な磯崎さんのヴィジョンの光で照らし出されてきているように思えます。第九信のライトはその最たるものでした。以前、長谷川堯さんの『神殿か獄舎か』が建築界で大きな話題になったとき、支配する者と虐げられる者という構図での理解がほとんどだったなかで、磯崎さんが、「要するに長谷川は高所恐怖症で、オレは閉所恐怖症という違いにすぎないのさ」と話されていたことを、なぜか、にわかに思い出したのでした。
(文責・植田)
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1999年7月26日第十信の原稿、銅版画も完成、最後の追い込みに入り軽井沢へ。
磯崎先生の手料理をいただきながら打ち合わせ。
宮脇愛子先生、磯崎先生、亭主。
このときお隣の辻邦生先生にもお目にかかったのだが、3日後の7月29日急逝される。

1999年7月31日第十信が完成、35通を画廊の床に並べて。
壁面には横尾忠則のポスター作品。

磯崎新設計「京都コンサートホール」にて。
社長と書簡受取人の西田考作さん(奈良・西田画廊のご主人)。

大徳寺孤篷庵にて。

1999年8月1日夜9時15分に京都中央郵便局の夜間受付より第十信の発送。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
◆ときの忘れものは、2011年12月16日[金]―12月29日[木]「磯崎新銅版画展 栖十二」を開催しています(会期中無休)。

磯崎新が古今東西の建築家12人に捧げたオマージュとして、12軒の栖を選び、描いた銅版画連作〈栖十二〉全40点を出品、全て作家自身により手彩色が施されています。
この連作を企画した植田実さんによる編集註をお読みください。
参考資料として銅版原版や書簡形式で35人に郵送されたファーストエディションも展示しています。
住まい学大系第100巻『栖すみか十二』も頒布しています(2,600円)。
「磯崎新銅版画展 栖十二」は本日が最終日です。
夕方からはささやかに納会(忘年会)を開きます。年末のお忙しい時期でしょうが、どうぞお出かけください。
昨日は細江英公先生、宮脇愛子先生とそれぞれ来年の個展についての打合せをさせていただきました。お二人とも80歳を超えておられますがきっと素晴らしい展示を見せていただけると思います。
2011年の営業は本日をもって終了します。
311の大震災が全てを覆ってしまった1年でした。
亡くなられた方、行方不明の方、被災されいまだ故郷に帰れない人々のことを思うと、心がいたみます。自分たちの非力を感じ、自然の前に傲慢だった私たちの来し方を反省せずにはおられません。
後日詳しくご報告しますが、昨日「桃・柿育英会」に485,285円を送金しました。
ジョック・スタージスさんからの作品寄贈による厚意に、私たちの志も加えて、前回は7月1日に102万円を日本赤十字社に送金しましたが、今回は震災による孤児や遺児のための育英資金にと安藤忠雄先生が立ち上げた桃・柿育英会に寄付しました。
継続して今後も出来ることをするつもりです。
作品をご購入することで参加協力して下さったお客様に心より謝意を表します。
画廊は休みに入りますが、このブログは「年中無休 毎日更新」、年末年始も来年個展を予定している作家の皆さんやエッセイの寄稿者たちの応援を得て、休まず発信しますので、ぜひお読みください。
磯崎新が古今東西の建築家12人に捧げた銅版画連作〈栖十二〉の全40点は1998年夏から翌1999年9月にかけての僅か1年間に制作されました。
予め予約購読者を募り、書簡形式の連刊画文集『栖 十二』―十二章のエッセイと十二点の銅版画―を十二の場所から、十二の日付のある書簡として限定35人に郵送するという、住まいの図書館出版局の植田実編集長のたくみな企画(アイデア)が磯崎先生の制作へのモチベーションを高めたことは間違いありません。
このとき書き下ろした十二章のエッセイは、1999年に住まい学大系第100巻『栖すみか十二』として出版されました。
その経緯は先日のブログをお読みいただくとして、1998~1999年の制作と頒布の同時進行のドキュメントを、各作品と事務局からの毎月(号)の「お便り」を再録することで皆様にご紹介しています。
第十信は小堀遠州[孤篷庵 忘筌]です。
残り二つの「栖」十一、十二信については、このブログで引き続き明日、明後日とご紹介します。


小堀遠州[孤篷庵 忘筌] 1643(寛永20)年 京都

小堀遠州[孤篷庵 忘筌] 1643(寛永20)年 京都

小堀遠州[孤篷庵 忘筌] 1643(寛永20)年 京都

小堀遠州[孤篷庵 忘筌] 1643(寛永20)年 京都
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第十信・事務局連絡
一九九九年八月一日京都市・京都中央郵便局より発送
第十信をお届けします。小堀遠州の孤篷庵・忘筌です。
パッケージ、エッチング、書簡の挿図のすべては、このために久しぶりに孤篷庵を訪ねた磯崎さんのスケッチ(メモ入りにご注目下さい!)をそのまま活かしています。このシリーズのなかでもとりわけくつろいだ雰囲気で、いつまでも見飽きません。これまで写真などを眺めていてもいまひとつ分からなかった、この茶室のライブ感が伝わってきます。しかも単独に賞味しようとしても分かるはずのない茶室の位置づけが、そこに至る流れまで教えられて、はじめてはっきりと見えてきた。これはたいへんな機会でした。
書簡は、利休の待庵を五〇年前、学生時代の磯崎さんが訪ねたところからはじまっています。今では一般の見学者は外から拝見するだけというおそれ多い存在ですが、当時はほこりが舞うくらいに、あまり丁寧に扱われていなかったという茶室は、異化作用をおこすほどに生々しい感触で、いきなり私たちの目の前に現れます。ここから利休、織部にいたる歴史が一気にたどられている。例によってざっくばらんな書簡体で、しかも茶室についてという以上に、政治と文化が語られています。私は途中で何度も「そうか、そういうことなのだ」と声に出して納得したほどですが、それほど一瞬にして、長年あいまいな理解のままに放っておいた茶席の意味が明快に見えてきたのでした。
遠州は書簡の後半に登場します。完結的な極小空間である待庵に対して、書院の一コーナーに組み込まれた茶席はさらにとっつきにくいものだったのですが、その「意図的解体工作」という説明がすべてを氷解させてくれる思いでした。あとは直接書簡にあたっていただければ十分ですが、もともとこうした茶室観は磯崎さんの独壇場。ほかにも数多く論考があり、実作や展示作品もあります。改めて読み直し、見直すきっかけができました。例えば珠光—利休—織部—遠州という流れを、磯崎さんは近—現代建築のなかでの日本のとらえ方と参照することを強く意識しているようで、近代主義によって桂を解読してきた展開を、タウトには珠光の茶を、堀口捨己には利休を、丹下健三には織部を比喩的に見立てている。そして「さしずめ次の読解装置は、”遠州”の茶のようでなければなるまい。」といっています。新しい発見がなくても、茶の知識と手法の集積から「独自の好みを抽出し、キッチュ化することもおそれずに、これを一般化するシステムへと変換した遠州の姿勢」が、丹下以降の世代にとって「只ひとつ残された道」(「桂——その両義的な空間」岩波書店、一九八三)というのですが、そこに読者が磯崎新の名を入れたくなるのは当然です。
それにしても、ここでの栖は、さらに「終の栖」の性格を一段と深めてきたようです。
あと二信を残すのみとなりました。
前回の第九信には、西池袋郵便局の消印が押されているのに気づかれましたか。
フランク・ロイド・ライトはハリウッドから出したかったのですが、それはあきらめて、日本に残された自由学園の明日館のある地から、というわけでした。お茶をにごしたみたいですが、磯崎さんの書簡はライトのどの住宅を選ぶかというより、ライトというある意味では複雑な建築家の全体像について語っています。そのライトはアメリカからの逃避行の途上で、フィレンツェの市街を見下ろす丘の上に立っています。そこに彼を立たしめた、いくつかの住宅とそのクライアントとの因縁が挙げられている。オークパークのチェニー邸、さらには大邸宅マコーミック邸計画の挫折、日本の掛け軸の構図をとりこんだことで知られるハーディ邸。ハリウッドのバーンスダール邸、ミラード邸。そして今回エッチングに描かれたフリーマン邸。この書簡はコンパクトなライトの住宅論であるといってもいいでしょう。そのなかから「眺望」する場所との深い関係という、これまでにあまり語られることのなかったライトの住宅の特性が次第に浮き彫りにされてきます。
それに磯崎さん自身が手掛けられた軽井沢の辻邸が重なり、次いでヒッチコックの監督した『北北西に進路をとれ』に登場する空中テラス状の住宅まで引き合いに出される。ヒッチコックがフランソワ・トリュフォーに打ち明けていますが、このスパイの隠れ家もライトの設計した邸宅のコピーだそうです。そしてスーパーマンの家からタトリンの人力飛行機まで、空に向かう建築や飛行機が、勢いづくように次々と現れてきたのにはまいりました。
『栖十二』は、回を追うにつれて一軒一軒を対象にすることから、建築家やジャンルの包括的な記述へと広がり、広がるほどにより強烈な磯崎さんのヴィジョンの光で照らし出されてきているように思えます。第九信のライトはその最たるものでした。以前、長谷川堯さんの『神殿か獄舎か』が建築界で大きな話題になったとき、支配する者と虐げられる者という構図での理解がほとんどだったなかで、磯崎さんが、「要するに長谷川は高所恐怖症で、オレは閉所恐怖症という違いにすぎないのさ」と話されていたことを、なぜか、にわかに思い出したのでした。
(文責・植田)
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1999年7月26日第十信の原稿、銅版画も完成、最後の追い込みに入り軽井沢へ。
磯崎先生の手料理をいただきながら打ち合わせ。
宮脇愛子先生、磯崎先生、亭主。
このときお隣の辻邦生先生にもお目にかかったのだが、3日後の7月29日急逝される。

1999年7月31日第十信が完成、35通を画廊の床に並べて。
壁面には横尾忠則のポスター作品。

磯崎新設計「京都コンサートホール」にて。
社長と書簡受取人の西田考作さん(奈良・西田画廊のご主人)。

大徳寺孤篷庵にて。

1999年8月1日夜9時15分に京都中央郵便局の夜間受付より第十信の発送。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
◆ときの忘れものは、2011年12月16日[金]―12月29日[木]「磯崎新銅版画展 栖十二」を開催しています(会期中無休)。

磯崎新が古今東西の建築家12人に捧げたオマージュとして、12軒の栖を選び、描いた銅版画連作〈栖十二〉全40点を出品、全て作家自身により手彩色が施されています。
この連作を企画した植田実さんによる編集註をお読みください。
参考資料として銅版原版や書簡形式で35人に郵送されたファーストエディションも展示しています。
住まい学大系第100巻『栖すみか十二』も頒布しています(2,600円)。
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