磯崎新『栖十二』より第十二信磯崎新[ルイジ・ノーノの墓]

一昨日の忘年会から帰宅したのが深夜。さすがに疲れて寝てしまい、昨日は朝から年賀状書きに追われています。これを書いている今も(30日夜11時)山は減らない。
大晦日のブログは例年のように「ときの忘れもの今年の10大特集」とも考えたのですが、311のことを考えるととうていそういう気になれません。
東京の私たちでさえ、直接間接に大震災からの打撃ははかり知れないものでした。
クリスマスのメールを送った海外のお客様から「訪日とあなたの画廊に行くのを楽しみにしていたが、原発のために行けなかった」とあったように、先ず海外からのお客様が激減しました。
被災地からのご注文は当然のことですが、ほぼゼロに近いものでした。
リーマンショックのときより、今回の大震災の方が深刻です。

時代の変わり目というのでしょうか、お世話になった方が次々と亡くなられたのも辛いことでした。

暗い話しばかりではいけませんね。
ご案内の通り、来年1月13日から「第22回瑛九展」を開催します。
少し早かったのですが、1月9日まで年末年始の休みに入ってしまいますので、出品リストをホームページに掲載しました。
それが掲載された途端に、問合せが入りました。嬉しいですね。
瑛九のファンが若い世代に増えてきたこと、そして海外にも瑛九をコレクションする美術館やコレクターが出現してきたこと、40年近く瑛九を売ってきた亭主としては感慨無量であります。

さて、12年前にエディションした『栖十二』連作紹介の本日は最終章となります。
磯崎新が古今東西の建築家12人に捧げた銅版画連作〈栖十二〉の全40点は1998年夏から翌1999年9月にかけての僅か1年間に制作されました。
予め予約購読者を募り、書簡形式の連刊画文集『栖 十二』―十二章のエッセイと十二点の銅版画―を十二の場所から、十二の日付のある書簡として限定35人に郵送するという、住まいの図書館出版局の植田実編集長のたくみな企画(アイデア)が磯崎先生の制作へのモチベーションを高めたことは間違いありません。
このとき書き下ろした十二章のエッセイは、1999年に住まい学大系第100巻『栖すみか十二』として出版されました。
その経緯は先日のブログをお読みいただくとして、1998~1999年の制作と頒布の同時進行のドキュメントを、各作品と事務局からの毎月(号)の「お便り」を再録することで皆様にご紹介しています。
第十二信は磯崎新設計「ルイジ・ノーノの墓」です。

最後が自ら設計した友人の墓、「ルイジ・ノーノの墓」(1994年 ヴェネツイア サン・ミケーレ島)なんて決まりすぎですね。
パッケージは磯崎新のスケッチ「秋吉台国際芸術村におけるルイジ・ノーノ作曲[プロメテオ]日本初演のためのプラン」がシルクスクリーンで刷られ、中面青焼図面は磯崎新設計「大友宗麟の墓 アクソノメトリック」です。
vol12磯崎新〈栖 十二〉第十二信パッケージ

第12信より挿画38_A磯崎新〈栖 十二〉第十二信より《挿画38
磯崎新[ルイジ・ノーノの墓] 1994年 ヴェネツィア サン・ミケーレ島

第12信より挿画39_A磯崎新〈栖 十二〉第十二信より《挿画39
磯崎新[ルイジ・ノーノの墓] 1994年 ヴェネツィア サン・ミケーレ島

第12信より挿画40_A磯崎新〈栖 十二〉第十二信より《挿画40
磯崎新[ルイジ・ノーノの墓] 1994年 ヴェネツィア サン・ミケーレ島

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第十二信・事務局連絡

一九九九年九月一六日大分市・大分中央郵便局より発送


 連刊画文集・磯崎新『栖十二』の第十二信をお送りします。

 書簡につける事務局からの報告はこれで最後です。第一信から数えて一年一ヵ月。一方、磯崎さんの書簡の日付は九八年八月八日に始まり今年の七月一五日に終わっていますから、なんと一年足らず。月刊誌の連載より速いピッチです。しかも一二のエッセイをただ集めたのではない。もう順番を変えられないひと続きの話を一挙に書いたことになるわけで、こんな経験ははじめてだと、磯崎さんも驚いたくらい。
 それには、書簡受取人の皆様の存在が、磯崎さんにまったく新しいエネルギーを注ぎ込んだとも思える。もともとこの連刊画文集は、最初に「送り手の作家の創作と、受け手への作品頒布を同時進行的に進める、いささか冒険的なエディション企画」と案内したわけですが、じつのところ冒険的どころではない、いくら磯崎さんという大船に乗ったとはいえ先の見えない企画ではありました。冒険をともにしていただいた皆様には感謝の言葉もありません。

 ありがとうございました。

 事務局側も、顔の見えている三五人の読者のための定期刊行物というか、贅沢な個人誌を作り毎回発送するという、これまでにない体験を十分に楽しむ(大変でもありましたが)ことができました。
 当初、予定しました一二の建築家および住宅のリストに若干の変更をさせていただいたことに対して改めて御了承を得たいと思います。F・L・ライトのハーディ邸はフリーマン邸に変えられ、カール・F・シンケルの庭師の家は結局、コンスタンティン・メルニコフの自邸に代えました。そして、磯崎さんご自身のヴィッラ・シリーズは、最後のさいごにルイジ・ノーノの墓に変更されました。この一年間、一二の栖の選択そのものを通して、磯崎さんは住宅というものが一般に理解されている意味を再三根底から変えてしまおうとされていたように思える。同時にそこには、磯崎さんの初期から現在にいたる建築活動およびあらゆる領域にまたがる思索全体のレトロスペクティブな遠近が備わり、書簡というささやかなかたちによるエッセイとエッチングを見せてきた。その現場に私たちは立ち会いました。

 この一年間、磯崎さんの本来の建築の仕事は、近来もっとも劇的かつ重要な成果となって結実しました。山口県秋吉台国際芸術村、静岡市のグランシップ、奈良市のなら一〇〇年会館。その三者、とくに秋吉台の音楽ホールとひそかに結びつくようなかたちで、第十二信には、ヴェネツィア・サン・ミケーレ島のルイジ・ノーノの墓が登場します。そこから立原道造詩碑や大友宗麟の墓、あるいは久住高原にある詩人のために計画された初期のモニュメントにまで遡る、いくつもの詩碑や墓を思い出さずにはおれません。『孵化過程』のモンタージュやモンロー定規までもがその視界に入ってくるような気さえするし、最新作のひとつである秋吉台国際芸術村に、サロンとして復元された中山邸は、蘇生と死とを同時に備えているかにみえてくる。いや磯崎さんのすべての建築を照らしていたのは、死の光であったとさえ思いいたる。それはいいかえれば、死の予感を日々の新たな体験として生きる、永遠なる青年期の建築でもあったのでしょう。『栖十二』の世界に長く入りこんでいたためか、小さな墓も途方もなく大きく、重層した文化ホールもこれまでになく深い陰影にひたされているようにみえました。
 マルセル・デュシャンの言葉が二度もくりかえし引用されています。もう文句のつけようのない直截的に表明された真理であると同時に、自分自身の死についに帰りついたとき、それを見ることもひとに語ることもできないという事実は、パンフレットに書かれた初めの手紙にいわれている、語りつくされた「帰還する場所の不在」に重なってくる。「だから“栖”をさがして旅をする」と磯崎さんはいっている。デュシャンの何ともいえない味わいの締めくくりで栖は彩られています。(文責・植田)

 さて、もうひとつ。この一二の書簡を一冊にまとめる、住まい学大系第一〇〇巻『栖十二』は目下鋭意編集中です。一〇〇巻達成に関わる別冊書評集のまとめや記念イベントの準備もからんで予定が遅れ気味ですが、この秋には皆様のお手元にお届けする予定です。全書簡を、改めてハンディな本で通読していただければまた新しい発見があると思います。乞御期待。

編集/植田 実
制作・進行/綿貫不二夫
発行/綿貫令子

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 第十二信、つまり最終の事務局連絡は、このように予告したのだが、結局本の上梓はさらに遅れてしまった。十月半ばの今日、やっと入稿。

 画文集は、綿貫夫妻の画廊「ときの忘れもの」の制作進行および発行である。この強力コンビに優秀なスタッフの栗原佐和子さんがスムーズに全体を進行させ、私は冊子づくりで手伝うかたちになった。本書をまとめるにあたっては、今度は「ときの忘れもの」チームが全面的に協力、という面白い相互扶助によって画文集一二帖と本書が出来上がった。
 この本は、建築専門書というよりは、極端にいえば一種の小説のようにつくってみたかった。磯崎さんの語り口がこれまでにないものだったこともある。それで、まえがきもあとがきもなく、読者はいきなりふしぎな文章に出会う、そういう本を考えた。最後に、新たに加えていただいた「後信」は、あとがきというより、これから先の磯崎さんの行く手である。
 書簡は完結したが、銅版画については磯崎さんの手はとどまるところを知らず四〇点に増え、それを「栖十二」B版エディションとして一部手彩色などを加えた豪華版も刊行されることになる。
 この一年あまり、久しぶりに磯崎さんのお話をうかがう機会にもなった「栖」の作業も終わりである。同時に住まい学大系も全一〇〇巻の区切りを迎える。これこそ無謀な企画だったが、長いあいだ見守ってきて下さった読者の皆さんが心の支えだった。感謝。
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12日間、12回にわたり、長々と転載させていただいた上記の書簡等は、1999年12月1日住まい学大系第100巻として刊行された『栖 すみか 十二』におさめられた巻末の栞からの引用でした。
かくして、1998年真夏から始まった磯崎新先生の大連作はめでたく大団円を迎えました。
全国(最初は世界各地からとも考えたのですが)12箇所の磯崎先生所縁の地を訪れ、その最寄の郵便局から35人の書簡受取人に郵送するという企画の最後を飾ったのはもちろん、磯崎先生の故郷大分でした。
076栖十二第十二信紐掛け
一軒家時代のときの忘れものでの内職仕事もこれが最後。当初は北澤敏彦さん手書きのマニュアルを見ながら悪戦苦闘した紐掛け作業も12回目ともなると手馴れたものです。

077栖十二第十二信完成
完成した栖十二第十二信35通を並べ最後の記念撮影。
壁面には山口長男の作品。

078栖十二第十二信羽田空港悪天候の中、大きな荷物を抱えて(心配で手で抱えて機内に持ち込みました)羽田空港から一路大分へ。

079栖十二第十二信大友宗麟の墓夜ではありません。土砂降りの中、地元の建築家・山本さんの車で津久見市まで案内してもらい、大友宗麟の墓におまいりしました。もちろん磯崎新先生の設計で、第十二信が「ルイジ・ノーノの墓」であるのに対応してパッケージ中面も磯崎新設計「大友宗麟の墓」の青焼きです。

080栖十二第十二信大友宗麟の墓碑文
大友宗麟の墓・碑文(1977年竣工)
磯崎新先生に設計を依頼した旨、刻まれています。

081栖十二第十二信大分K邸
大分市内に建つ磯崎新設計「Kr邸」
ヴィッラシリーズの初期名作です。

082栖十二第十二信大分〒
1999年9月16日 『栖十二』最終第十二信を大分中央郵便局から発送。
盛岡、水戸、千葉、軽井沢、伊香保、京都、大分、そして東京都内を転々、いや実によく走り回ったものです。

083栖十二第十二信
大分市内に一泊し、翌日磯崎新先生の母校、大分県立大分上野丘高校を訪問して、長い旅を終え、帰京しました。

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『栖十二』の制作記録の紹介はこれでおしまいです。

それでは皆さん、良いお年を!
ブログは年中無休、毎日更新なので新年早々(つまり明日も)全開です。どうぞお楽しみに。