美術展のおこぼれ25

「ぬぐ絵画 日本のヌード1880~1945」展
会期:2011年11月15日~2012年1月15日
会場:東京国立近代美術館

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黒田清輝の《朝妝》や《裸体婦人像》が日本で公開されたときの騒ぎ、とくに後者の絵の下半分は布で隠された。新聞やテレビでこの企画展を紹介するにあたって上のエピソードが強調されていたりしたが、その印象から、あまり面白くなさそうだなと、やや期待薄だった。裸体画を通して日本の各時代の社会的表れを説明するような編集的展示かと思ったのだ。
 行ってみてびっくりした。とんでもなく面白い。出展されているのはよく知られている名作ばかりではあるが、その絵の構図や色彩、その見えない画家の意識の解読が徹底している。つまりはそれぞれの作品のわきに解説が付いている、それを読むだけの仕かけなのだが、作品の見えかたが一変する。草原に横たわる女性の上半身を描いた黒田清輝の《野辺》で、画家がどのような位置にいたのかとか、萬鉄五郎《裸体美人》で、同じように草のなかに横たわる女性が「どんどん縦方向に起こされていく」過程で働いた法則とか、やはり萬の《もたれて立つ人》では「身体のへそは正確に画面の中央(つまり画面のへそ)に置かれ」、それを起点として全体の構成の精度が高められていく動きとか(今まではたんなるキュビズム風試みとしか私は理解していなかったのだが)、それぞれの作品がまったく新たな魅力を帯びてくる。
 小出楢重の裸婦像がマチスの作品を意識しているに違いない比較も思いがけなかった。それぞれを見比べても、小出はあきらかにマチスを下敷きにしながら、その痕跡を完全に消してあの特徴的な、子どもでも安心して(!?)見られる小出裸婦像をいかにも自然につくり出している。この画家が天から贈られた才能なのだろう。また、安井曽太郎の《画室》について、画室中央で横になり休んでいる裸婦と右端の空っぽのイーゼル、そして左側にかたまっている画家の家族との関係を解きあかす解説などはまるでコントのように見事で面白く、読みながら思わず吹き出してしまった。
 どの展覧会でもそうだけれど、作品とそのわきに掲げられた解説との関係は、見る側にとってはなかなか微妙である。先に解説を読んでしまうと見る眼が規制されてしまいそうだし、後から読むと解答があって採点されたような気持ちになるし、その文字も小さすぎて読みづらかったり、素っ気なくてつまらなかったり、観客はけっこう神経質なのだ。
 今回の企画展はそこにじつに丁寧に気配りしている。作品タイトルとデータを円形のシールに記した工夫も、解説文(けっこう長めだが)のレイアウトもとても読みやすく、肝心の内容も深いけれど平易な文章に書き改められている。というのも、あとで図録を買ってそれに相当する部分を拾い読みすると同じ主旨だがいくぶん論文調になっているからだ(引用はすべて図録から)。これほど作品と解説とを併せてたのしんだ企画展が過去にあったか、ちょっと思い出せない。よく知っている作品だからこその歓びでもあったのだろう。執筆は当館および関係美術館の学芸員の方々によるのだろうか。いずれにしてもその底力を思い知ったのでした。
(2012.1.11 うえだまこと)