「銀塩写真の魅力Ⅲ/裸婦は美しい」より、井村一巴「solo」
ときの忘れものの社長が初めて瑛九の銅版画やリトグラフを恩師・久保貞次郎先生から教室で買った(買わされた)のが18歳のとき、はるかに遅れて亭主が版画の世界に迷い込み「エイキュウ」という国籍不明の名を知ったのが28歳。
スタートで10年の開きは決定的であります。
乏しいお小遣いや、バイト代で手にした社長秘蔵の瑛九作品はその後の会社の資金繰りに使われ今ではあとかたもない(懺悔)。
この絵が一級品であるか、二級品であるかの瞬時の判断は社長にはかなわない、深く尊敬するする所以であります。
なぜこんな話しをするかといいますと、二人が版画育ちであること、そして版画というのは極めて保守的な技法であることをいいたいがためであります。
木版はもちろん、銅版もリトグラフ(石版画)ももとはといえば、「印刷技法」のひとつとして開発され、成熟します。成熟の直ぐ後には劇的な技術革新の波が襲い、例えばリトグラフはオフセット印刷にかわられ、またたくまに衰退する。
それは熟練の石版職人たちの失業を意味します。江戸の浮世絵師たち(画家、彫り師、摺り師)が明治の御世に失業していったのと同じ運命を辿ります。
ところが、印刷手段としては衰退するが、むしろ非効率な手作業的な技が高度な表現に達した場合、アートとして生き延びたわけですね。
山本鼎が木口木版印刷の彫り師として修業し、後には創作版画のパイオニアとなる。
同じく石版印刷を学んだ織田一磨も石版画家として大成します。
そこで本題。
ときの忘れものは写真作品においては、きわめ保守的な立場をとっています。
デジタルも否定はしませんが、100年、200年の歴史をくぐってきた技法や素材にはそれだけの理由があります。
20世紀の銀塩写真を中心とするアナログ写真は、デジタルカメラの進化により、いまや消え行く運命にありますが、可能なかぎりその存続を願い、アナログ技術によって創造された作品を守って行きたいと考えています。
27日から開催するシリーズ企画「銀塩写真の魅力」展は、2009年に第一回、2010年に第二回展を開催しました。
三回目となる今回は、モノクロームプリントによる裸婦作品の豊かな表現力と創造性をご覧いただき、銀塩写真の魅力にせまります。
昨日は現代の菩薩・村上麗奈を撮った五味彬作品をご紹介しましたが、本日は今回の出品作家中の最年少、自らの美しい裸身を撮影し(セルフポートレート)、その画面をピンでスクラッチし、絵を描き込むというユニークな作品を作っている井村一巴の作品を紹介します。

井村一巴 kazha IMURA
"solo"
2007年
ゼラチン・シルバー・プリントにピン・スクラッチ
59.2×39.3cm
Ed.1
サインあり
この画像ではよくわからないと思いますが(ぜひ会場に来て実物をご覧になってください)、裸身の背に天使の羽のような、淡い霧のようなものが細かい点(ひっかききず)によって描かれています。
フィルムによって撮影され、現像された銀塩写真ではありますが、そこにピンで描きこむことによってこの作品はオンリー1のオリジナル作品になっています。
コンピュータの進化発展により、いまや画像の操作やマウスで絵を描くことすら可能になってきましたが、ガリ版を切る(死語か)ように印画紙に向かいカリカリとひたすらピンで絵を描き続ける井村一巴の営為はアナログの極みで、人間の「描く行為」の原初を思い起こさせます。
この連作を初めて発表したのは2007年6月の「井村一巴セルフポートレイト展」ですが、このとき作品評を執筆してくれた岡部万穂さんの文章を一部引用させていただきます。
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井村一巴〈セルフポートレイト展〉――“主観”を超えて 岡部万穂
(略)
今回の新作展のために、井村は黒いバックの前に佇むモノクロのポートレイトを撮影している。
撮影は、両親が運営する小さなギャラリーのスペースを借り、深夜、夜通し行なわれる。黒い布の前に一人たたずみ、さまざまなポーズを取ってみる。正面から、斜めから、頬杖をつき、椅子に座り、椅子の上に不自然な姿勢でしゃがみこみ――一晩で、36枚撮のフィルム5~6本をあっという間に使い切り、夜通し撮りつづけた翌日は筋肉痛に悩まされるという。井村にとってポートレイトとは、身体を張ったパフォーマンスでもある。表現ではなく、主観を超えて、進んでいくための。
そして井村は、モノクロのセルフポートレイトの表面を、買った洋服の値札を止めている小さな安全ピンの先で削り、絵を描きはじめた。
柔らかな光沢を持つ印画紙の表面は、針の先で削られてめくれ、支持体の紙が覗いて、かぼそくも白く鋭い線となる。ポートレイトに絡みつくように描かれたそれらは、植物のつるのようであったり、背景一面に降り注ぐ雨であったり、背中に生える翼であったり、頭の上にチョコンとかぶせられたティアラであったりする。楽しげに描かれたこれらの絵は、ただひたすらにかいわらしく、やさしい。
しかしながら敢えて深読みをするならば、これは、世界と自分とのなすすべもない関係性に亀裂を入れる、ささやかな試みであるようにも見える。
“写真を撮る意味や、主観客観、とは関係なく在る画像・写真を作ってしまっていると思います”(今回の写真についての井村メールより)
あくまでも素材として自分自身を撮ること。写真を印画紙(物質)として捉えること。それは写真という矛盾に対する一つの答えでもあり、さらにいえば、自分自身もまた、世界を構成している一要素に過ぎないということにはならないだろうか。無数に刻まれた線は、自意識というフィルターの亀裂から漏れ出す光のようにも見える。
この亀裂の向こうには、友人たちが笑いさざめく、何でもない世界が広がっているのだろうか? 彼女たちの世界があんなにも明るいのは、そこには主観がないからだ。自意識を解き放ったところに初めて、世界は広がりはじめる。
“表現”というものが、人間が生きていくための一つの理論を視覚化したものであるとするならば、この展覧会はまぎれもなく、写真によって表現することへと到達した作品群であり、来場した私たちは、生まれたばかりの新しい表現に立ち合うことになるだろう。
(おかべまほ・美術ライター)
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◆ときの忘れものは、2012年1月27日[金]―2月4日[土]「銀塩写真の魅力Ⅲ/裸婦は美しい」を開催します。

20世紀の銀塩写真を中心とするアナログ写真は、デジタルカメラの進化により、いまや消え行く運命にあります。
本展では「裸婦」をテーマに、中山岩太、ベッティナ・ランス、福田勝治、細江英公、大坂寛、植田正治、五味彬、服部冬樹、ジョック・スタージス、井村一巴、カリン・シェケシー、ヤン・ソーデック、カート・マーカス、ウェイン・メイザーの美しいモノクロームプリントを展示します。
ときの忘れものの社長が初めて瑛九の銅版画やリトグラフを恩師・久保貞次郎先生から教室で買った(買わされた)のが18歳のとき、はるかに遅れて亭主が版画の世界に迷い込み「エイキュウ」という国籍不明の名を知ったのが28歳。
スタートで10年の開きは決定的であります。
乏しいお小遣いや、バイト代で手にした社長秘蔵の瑛九作品はその後の会社の資金繰りに使われ今ではあとかたもない(懺悔)。
この絵が一級品であるか、二級品であるかの瞬時の判断は社長にはかなわない、深く尊敬するする所以であります。
なぜこんな話しをするかといいますと、二人が版画育ちであること、そして版画というのは極めて保守的な技法であることをいいたいがためであります。
木版はもちろん、銅版もリトグラフ(石版画)ももとはといえば、「印刷技法」のひとつとして開発され、成熟します。成熟の直ぐ後には劇的な技術革新の波が襲い、例えばリトグラフはオフセット印刷にかわられ、またたくまに衰退する。
それは熟練の石版職人たちの失業を意味します。江戸の浮世絵師たち(画家、彫り師、摺り師)が明治の御世に失業していったのと同じ運命を辿ります。
ところが、印刷手段としては衰退するが、むしろ非効率な手作業的な技が高度な表現に達した場合、アートとして生き延びたわけですね。
山本鼎が木口木版印刷の彫り師として修業し、後には創作版画のパイオニアとなる。
同じく石版印刷を学んだ織田一磨も石版画家として大成します。
そこで本題。
ときの忘れものは写真作品においては、きわめ保守的な立場をとっています。
デジタルも否定はしませんが、100年、200年の歴史をくぐってきた技法や素材にはそれだけの理由があります。
20世紀の銀塩写真を中心とするアナログ写真は、デジタルカメラの進化により、いまや消え行く運命にありますが、可能なかぎりその存続を願い、アナログ技術によって創造された作品を守って行きたいと考えています。
27日から開催するシリーズ企画「銀塩写真の魅力」展は、2009年に第一回、2010年に第二回展を開催しました。
三回目となる今回は、モノクロームプリントによる裸婦作品の豊かな表現力と創造性をご覧いただき、銀塩写真の魅力にせまります。
昨日は現代の菩薩・村上麗奈を撮った五味彬作品をご紹介しましたが、本日は今回の出品作家中の最年少、自らの美しい裸身を撮影し(セルフポートレート)、その画面をピンでスクラッチし、絵を描き込むというユニークな作品を作っている井村一巴の作品を紹介します。

井村一巴 kazha IMURA
"solo"
2007年
ゼラチン・シルバー・プリントにピン・スクラッチ
59.2×39.3cm
Ed.1
サインあり
この画像ではよくわからないと思いますが(ぜひ会場に来て実物をご覧になってください)、裸身の背に天使の羽のような、淡い霧のようなものが細かい点(ひっかききず)によって描かれています。
フィルムによって撮影され、現像された銀塩写真ではありますが、そこにピンで描きこむことによってこの作品はオンリー1のオリジナル作品になっています。
コンピュータの進化発展により、いまや画像の操作やマウスで絵を描くことすら可能になってきましたが、ガリ版を切る(死語か)ように印画紙に向かいカリカリとひたすらピンで絵を描き続ける井村一巴の営為はアナログの極みで、人間の「描く行為」の原初を思い起こさせます。
この連作を初めて発表したのは2007年6月の「井村一巴セルフポートレイト展」ですが、このとき作品評を執筆してくれた岡部万穂さんの文章を一部引用させていただきます。
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井村一巴〈セルフポートレイト展〉――“主観”を超えて 岡部万穂
(略)
今回の新作展のために、井村は黒いバックの前に佇むモノクロのポートレイトを撮影している。
撮影は、両親が運営する小さなギャラリーのスペースを借り、深夜、夜通し行なわれる。黒い布の前に一人たたずみ、さまざまなポーズを取ってみる。正面から、斜めから、頬杖をつき、椅子に座り、椅子の上に不自然な姿勢でしゃがみこみ――一晩で、36枚撮のフィルム5~6本をあっという間に使い切り、夜通し撮りつづけた翌日は筋肉痛に悩まされるという。井村にとってポートレイトとは、身体を張ったパフォーマンスでもある。表現ではなく、主観を超えて、進んでいくための。
そして井村は、モノクロのセルフポートレイトの表面を、買った洋服の値札を止めている小さな安全ピンの先で削り、絵を描きはじめた。
柔らかな光沢を持つ印画紙の表面は、針の先で削られてめくれ、支持体の紙が覗いて、かぼそくも白く鋭い線となる。ポートレイトに絡みつくように描かれたそれらは、植物のつるのようであったり、背景一面に降り注ぐ雨であったり、背中に生える翼であったり、頭の上にチョコンとかぶせられたティアラであったりする。楽しげに描かれたこれらの絵は、ただひたすらにかいわらしく、やさしい。
しかしながら敢えて深読みをするならば、これは、世界と自分とのなすすべもない関係性に亀裂を入れる、ささやかな試みであるようにも見える。
“写真を撮る意味や、主観客観、とは関係なく在る画像・写真を作ってしまっていると思います”(今回の写真についての井村メールより)
あくまでも素材として自分自身を撮ること。写真を印画紙(物質)として捉えること。それは写真という矛盾に対する一つの答えでもあり、さらにいえば、自分自身もまた、世界を構成している一要素に過ぎないということにはならないだろうか。無数に刻まれた線は、自意識というフィルターの亀裂から漏れ出す光のようにも見える。
この亀裂の向こうには、友人たちが笑いさざめく、何でもない世界が広がっているのだろうか? 彼女たちの世界があんなにも明るいのは、そこには主観がないからだ。自意識を解き放ったところに初めて、世界は広がりはじめる。
“表現”というものが、人間が生きていくための一つの理論を視覚化したものであるとするならば、この展覧会はまぎれもなく、写真によって表現することへと到達した作品群であり、来場した私たちは、生まれたばかりの新しい表現に立ち合うことになるだろう。
(おかべまほ・美術ライター)
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◆ときの忘れものは、2012年1月27日[金]―2月4日[土]「銀塩写真の魅力Ⅲ/裸婦は美しい」を開催します。

20世紀の銀塩写真を中心とするアナログ写真は、デジタルカメラの進化により、いまや消え行く運命にあります。
本展では「裸婦」をテーマに、中山岩太、ベッティナ・ランス、福田勝治、細江英公、大坂寛、植田正治、五味彬、服部冬樹、ジョック・スタージス、井村一巴、カリン・シェケシー、ヤン・ソーデック、カート・マーカス、ウェイン・メイザーの美しいモノクロームプリントを展示します。
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