ジョナス・メカスをめぐる断章」第二回

西村智弘(映像評論家・美術評論家)

2.『難民日記』とメカス

 メカスの日記映画は、それ自体がアンダーグラウンド映画であり、映画のアヴァンギャルドとしての側面をもっている。一方、日記映画のスタイルは、メカスの人生とも深く関わっているようだ。
 昨年、飯村昭子の訳で『メカスの難民日記』(みすず書房)が刊行された。これまでにも一部の翻訳が紹介されていたが、やっと完訳が出たのである。『難民日記』は、1944年から1955年までのほぼ10年間、メカスが22歳から33歳までの日記を収録したものである。この時期の体験がメカスの作品を日記映画に導いていると考えてよい。
 『難民日記』の冒頭近くに、「われわれ小国の人間にできることはただ一つ、なんとか生き延びることだけだ」という記述がある。この日記に書かれているのは、リトアニア人であるメカスが「なんとか生き延びること」を強いられた苦難の時代であった。
 『難民日記』は、ドイツの強制労働収容所で過ごした時期と、アメリカに亡命した時期の二つに分けられる。リトアニアで反ナチの運動をしていたメカスは、逮捕される可能性が出てきたため、弟とともにウィーンに逃亡することにした。しかし、乗った列車がドイツに到着してしまい、メカスと弟はナチの強制労働収容所に入れられてしまう。つらい労働と不自由な生活、絶望と飢餓に苦しめられる日々が続いた。
 戦争が終わってもメカスと弟は、ソビエトに占領されたリトアニアに帰らなかった。しばくのあいだ難民収容所を転々としていたが、1949年にアメリカに亡命する。ニューヨークでメカスは、実にさまざまな職業に就いている。職業探しに明け暮れる貧しい日々であり、慣れない異国での生活に悩まされた時期であった。そうしたなかでメカスは、演劇や映画、美術などさまざまな芸術を見て回り、借金して買って16ミリカメラで映画を撮りはじめる。
 メカスの日記映画は、日々の生活のなかで撮影した映像を使って制作されている。しかしメカスは、手当たりしだいに身の周りのものを記録しているわけではない。彼は、生活のなかで自分にとって好ましいと思うものを選択している。その選択は決して恣意的ではなく、メカス個人のなかではなんらかの理由が存在している。
 1980年に飯村昭子が行ったインタビューで、メカスはその選択の理由について次のように語っている。「多分、おもに、私が戦中・戦後の悲惨の時代に生まれ、生きてきたために、あこがれ続けていたシーンがあって、私がひたすらそれらのシーンに固執しているということでしょう。他の人々は知りませんが、現在(いま)でも、私だけは、あの悲惨の時代を生きているのです」。また彼は、「私が記録したい瞬間は、あの悲惨さをやわらげることのできる祝福の瞬間、歓びや幸福の瞬間なのです」とも述べている。悲惨の時代を当事者として生きた体験が、メカスに「祝福の瞬間、歓びや幸福の瞬間」を渇望させている。
 『リトアニアへの旅の追憶』というタイトルからも伺えるように、「追憶」はメカスの日記映画の根底にある重要な要素である。この作品をめぐるレクチャーでメカスは、「私には現実をコントロールする力など大してなくて、すべてを決定しているのは、私の記憶、私の過去なのです」と語っている。彼の日記映画には、「私の記憶、私の過去」が強く反映されている。
 「私の記憶、私の過去」にこだわるのはメカスの資質なのであろうが、とくに強制労働収容所で培われたもののようである。『難民日記』には、折に触れて思い出された年少の頃の記憶が繰り返し書き留められている。収容所でのつらい日々が平和だった年少の頃の記憶を呼び覚ますのであろう。そして、いまでも「あの悲惨の時代を生きている」と語るメカスは、たえず過去の記憶を追い求めることを強いられているのかもしれない。
 しかし、メカスの意識は過去にばかり向いているわけではない。『メカスの映画日記』には、冒頭近くに「わたしにはいまここしかない」という記述がある。これは、1958年の日記からの引用として示された文章の一部で、メカスがアメリカに亡命したあとに書かれたものである。
 ニューヨークで生活していたメカスには、故郷のリトアニアから切り離されているという意識が強くあったようである。「わたしにはいまここしかない」という発言は、故郷に帰ることができず異国で新しい生活を獲得しなければならない彼自身の決意であり、アメリカに亡命したリトアニア人としてのアイデンティティの表明だったといえるであろう。また、「わたしにはいまここしかない」という意識は、「いまここ」を懸命に生きること、「いまここ」の一瞬一瞬を大切にするという態度を導いているだろう。それが戦中・戦後の悲惨な体験から導かれたメカスの生き方だったのである。
 メカスが日記映画で撮影するのは、目の前にいる友人や家族であり、身の回りに起こる出来事である。それは、メカスにとっての「いまここ」を記録したものに他ならない。その「いまここ」は、決して特別なものではなく、誰もが普段すごしているようなごく当たり前の日常にすぎない。しかしメカスは、その日常をかけがえのない体験に変えてしまう。ささいなものやはかないものに対する愛情と、過ぎゆくものをいつくしむ心情が、なにげない日常をこの上なく美しいものとしてフィルムに定着させるのだ。ここに、メカスのいう「祝福の瞬間、歓びや幸福の瞬間」が生まれている。
 メカスの日記映画には彼の人生が記録されている。しかしそれだけではなく、日記映画というスタイルがメカスにとっての人生を象徴しており、またメカスの生き方を反映していると思われる。
(にしむらともひろ)

西村智弘(にしむらともひろ)
1963年 茨城県生まれ、1990年 第13期イメージフォーラム付属映像研究所修了、1993年 美術出版社主催「第11回芸術評論」に「ウォーホル/映画のミニマリズム」で入選。
以後、美術評論家、映像評論家として活動する。
美術評論家連盟、、日本映像学会会員。現在、東京造形大学、東京工芸大学、多摩美術大学、阿佐ヶ谷美術専門学校にて非常勤講師を務める。
著書:『日本芸術写真史』(美学出版、2008)、共編著:西村智弘+佐藤博昭編著『スーパー・アヴァンギャルド映像術』(フィルムアート社、2002)他。

mekas_12_Peter_Beard_and_John_enacting_ジョナス・メカス
Peter Beard and John enacting a Hollywood "fight".
Montauk, Aug. 1972

1972年 (Printed in 1999)
Type-Cプリント
イメージサイズ:49.0x32.3cm
シートサイズ :50.7x40.6cm
Ed.10  サインあり

mekas_13_John_and_Anthony_were_very_bad_ジョナス・メカス
「John and Anthony were very bad that day in the car,
Lee had to put them on the roadside, we later picked
them up. Montauk, August 1972.」

1972年 (Printed in 1999)
Type-Cプリント
イメージサイズ:49.0x32.4cm
シートサイズ :50.6x40.7cm
Ed.10  サインあり

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◆ときの忘れものは、2012年2月10日[金]―2月25日[土]「ジョナス・メカス写真展」を開催しています(※会期中無休)。
レセプション:2月18日(土)18時~20時
メカスさんは来日しませんが、昨秋刊行されたジョナス・メカス『メカスの難民日記』(みすず書房)の翻訳者である飯村昭子さんをニューヨークから迎え、同じく飯村訳の『メカスの映画日記』(1974年、フィルムアート社)の装幀者である植田実さん、メカス日本日記の会の木下哲夫さんらを囲みレセプションを開催します。どなたでも参加できますので、ぜひお出かけください。
尚、パーティの始まる前(17時~18時)にギャラリートークを開催しており、18時前には予約者以外は入場できません。
メカス展
それは友と共に、生きて今ここにあることの幸せと歓びを、いくたびもくりかえし感ずることのできた夏の日々。楽園の小さなかけらにも譬えられる日々だった
「this side of paradise」シリーズより日本未発表の大判作品13点を展示します。
1960年代末から70年代始め、暗殺された大統領の未亡人ジャッキー・ケネディがモントークのアンディ・ウォーホルの別荘を借り、メカスに子供たちの家庭教師に頼む。週末にはウォーホルやピーター・ビアードが加わり、皆で過ごした夏の日々、ある時間、ある断片が作品には切り取られています。60~70年代のアメリカを象徴する映像作品(静止した映画フィルム)です。

ジョナス・メカスさんの新作映画《スリープレス・ナイツ・ストーリーズ 眠れぬ夜の物語》が東京都写真美術館他での「第4回 恵比寿映像祭――映像のフィジカル」で上映されます。