美術展のおこぼれ31

「野口久光 シネマ・グラフィックス」
会期:2012年4月28日―6月24日
会場:うらわ美術館

美術展のおこぼれ31 大人は判ってくれない美術展のおこぼれ31 可愛い悪魔

 「黄金期のヨーロッパ映画ポスター展」のサブタイトルが付いている。案内のちらしに「黄金期」の具体的な説明はないが、「大人は判ってくれない」「フレンチ・カンカン」「天井桟敷の人々」「汚れなき悪戯」「巴里の空の下セーヌは流れる」「居酒屋」「禁じられた遊び」「風と共に去りぬ」などのポスターがレイアウトされているのを見ると、1950-60年代に日本で封切られた映画のポスターが中心の展示らしい。上記の作品は、私たちの世代は当然すべて見ている。全部で約150点の、野口久光によるポスター作品である。
 けれども行くつもりはなかった。まず会場がちょっと遠いし、それに俳優の似顔絵はもちろん、タイトルから呼び込み文からクレジット類からすべてを手書きでまとめてしまう野口の、とんでもなく達者で上品なポスターは(当時よく見かけた)、とにもかくにも「懐しさ」の感情に一方的に引きずられてしまい、それは映画を考えるうえでは面倒と思ったのだ。
 ところがつい先日、友人の建築家が設計した住宅の竣工披露に呼ばれたさきがJR浦和駅の西口近くで、うらわ美術館は駅の東側だが歩いていける距離である。せっかく近くまで来たんだからと、オープンハウスに顔を出したあと寄ってみた。結果を言えば、とても良かった。
 ほとんどが主演俳優のクロースアップ。あとサブの俳優などがわきに添えられていることもあるが、それだけで映画のポスターは出来ている。しかも1点1点の印象ががらりと違う。描写力やデザイン力なんかではなく、画家としてデザイナーとしての自分のスタイルを誇示することも、抽象的パターンで処理することもしてない。それより何より一応は商業映画なのだから内容の読みとりが即、大衆へのアピールになっていなければならない。その連続作業の結果が1000点を越えるなかから代表作品が選ばれ、一堂に会している。
 懐しいのはたしかである。記憶が1点ごとに蘇ってくる。だがそれ以上に、ひとつの映画の全体像を1枚の手描きポスターに集約してファンを裏切らない、その特異なテクニックと映画への愛(と言ってしまえばおしまいだがそう言うしかない)に直面してうろたえた。新鮮な美術体験だったといえる。
 ポスターだけではない。その原画もいくつかあるし、ポスターにある映画の主役級の俳優を描いたデッサンその他の、野口の仕事の広がりを見せる展示もある。おまけにすごく得したと思ったのは、彼の編集による「戦前のヨーロッパ映画名作集」の映像である(26作品、21分)。さらには当時「映画館で上映された予告編」の映像である(「アンリエットの巴里祭」「夜ごとの美女」「わが青春のマリアンヌ」「汚れなき悪戯」など、12編48分)。この2つの映像をハショらずにしっかり見ると1時間を超え、肝心の展示を見る時間をあわせるとかなりになってしまうが、私は映像も全部拝見した。予告編の上映時間は1作品平均4分である。この枠のなかで、荒筋が分かってしまってはいけないし、本編映画の本筋から逸脱してしまってもマズい。という条件下で本編を超えるイマジネーションや物語の本質を誘発するのが「予告編」の役目なのだということにあらためて気がついた。予告編づくりは映画批評を書くよりむつかしいと思う。
 ポスターのなかにクロード・シャブロールの「いとこ同志」を見つけて感無量(君の映画ベスト・ファイブはと訊かれればまず挙げるのがこれ)。予告編映像のなかにアンリ・ジョルジュ・クルーゾーの「悪魔のような女」が入っていて泣けた(君の映画女優ベスト・ファイブはと訊かれればまず挙げるのが「肉体の冠」「悪魔のような女」のシモーヌ・シニョレ)。
 懐しさの俘虜になってはいないつもりであるが、背後から懐かしさの不意打ちをくらった。
(2012.5.24 うえだまこと

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