恩師 阿部展也 ―――― Aiko Miyawaki
阿部展也先生と出会ったのは、まだ学生の頃でした。私の元の義理の姉 神谷信子さんが阿部先生と親しかったので、「美術文化」という戦後できたシュルレアリスムの集団の会合にいらしている時に紹介されました。私がポーランドで展覧会ができたのも、やはり阿部先生からの情報があったからです。阿部先生のところには国籍を問わずいろんな国の人が集まっていました。
先生はジャーナリストが好きでした。もともとリサーチが好きで、あの頃から年中外国へ行って、その度に若いアーティストたちと接触していました。
マンゾーニやカステラーニを日本へ紹介したのも阿部先生でした。
マンゾーニは先生のことをとっても尊敬していて「マイ・ファー・ザー」なんて言っていました。顔もそっくりでした。
反対にカステラーニはほっそりしていました。阿部先生はお酒は飲みませんでしたけれど、マンゾーニはグワーッとお酒を飲んでデーンとしていました。その頃ミラノでもマンゾーニなんてあまり認められていませんでしたから、それを先生が評価されたわけですから、その眼力は大変なものでした。
土方定一さんは阿部先生を評価されていましたけれども、もっともっと評価されてしかるべき作家でしょう。
とにかく日本の現代美術に先鞭をつけ、さらに与えた影響は、絶大なものがあると思います。先生は非常に前衛的な考えの人で、戦後アメリカ美術(ロバート・マザウェル、マーク・トビー、ジャクソン・ポロック、アーシル・ゴーキー)をいち早く紹介をされていました。
ジャスパー・ジョーンズやラウシェンバーグがまだ、大変若い頃インタビューもしていました。
それは私にとって新鮮で大変刺激的でした。
五十年代の『藝術新潮』や『美術手帖』に随分と書いていました、それも先進国のものだけでなく、第三世界の情報まで幅広く紹介していました。
日本人だけでなく、いろんな国に行って若い作家を育てるのが好きだったのです。
啓蒙家でもあったのです。
『La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』29頁所収
阿部展也
《R19, 1967 Roma》
1967
ミクストメディア
額サイズ25.7x20.6cm
サイン
阿部展也
《Self-Portrait blue submarine》
シルクスクリーン
69.2x49.9cm
Ed.11/160
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
■阿部展也(1913~1971 あべのぶや)
新潟に生まれ、独学で絵画を学び、具象、キュビスム、シュルレアリスムを経て、抽象的傾向に進んだ阿部は、20世紀の世界の美術動向を体現した数少ない画家の一人である。本名・芳文。
1937(昭和12)年詩画集「妖精の距離」を刊行。1939年美術文化協会の創立に参加、「地球創造説」などを出品。1962年よりローマに移り、1971年同地で58歳で没した。
晩年の幾何学的抽象は、ルーチョ・フォンターナらイタリアの画家達にも影響を与えた。
2001年東京ステーションギャラリーで回顧展が開催された。
*画廊亭主敬白
本日午後3時頃、宮脇先生がときの忘れものにいらっしゃる予定です。図録にサインをご希望の方はぜひお出かけください。
今回の宮脇愛子展では銀座のギャラリーせいほうで平面と立体の大作を、青山のときの忘れものでは比較的小品と、親交の深かったマン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオポンティ、阿部展也、ERRO、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシスなどの作品を展示しています。
それら作家たちとの交友・影響については、今回刊行した『La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』(限定200部)に宮脇先生ご自身が語られています。
いくつか転載してご紹介しますが、限定番号2番を購入された「マン・レイになってしまった人」石原さんが図録の感想をブログに書いてくださいました。
日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ
「宮脇愛子インタヴュー」もお読みいただければ幸いです。
◆『La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』を刊行
2012年6月25日発行:ときの忘れもの
限定200部 宮脇愛子オリジナルシルクスクリーンとDVD付

宮脇愛子、マン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオ・ポンティ、阿部展也、エロ、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシス、他
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阿部展也先生と出会ったのは、まだ学生の頃でした。私の元の義理の姉 神谷信子さんが阿部先生と親しかったので、「美術文化」という戦後できたシュルレアリスムの集団の会合にいらしている時に紹介されました。私がポーランドで展覧会ができたのも、やはり阿部先生からの情報があったからです。阿部先生のところには国籍を問わずいろんな国の人が集まっていました。
先生はジャーナリストが好きでした。もともとリサーチが好きで、あの頃から年中外国へ行って、その度に若いアーティストたちと接触していました。
マンゾーニやカステラーニを日本へ紹介したのも阿部先生でした。
マンゾーニは先生のことをとっても尊敬していて「マイ・ファー・ザー」なんて言っていました。顔もそっくりでした。
反対にカステラーニはほっそりしていました。阿部先生はお酒は飲みませんでしたけれど、マンゾーニはグワーッとお酒を飲んでデーンとしていました。その頃ミラノでもマンゾーニなんてあまり認められていませんでしたから、それを先生が評価されたわけですから、その眼力は大変なものでした。
土方定一さんは阿部先生を評価されていましたけれども、もっともっと評価されてしかるべき作家でしょう。
とにかく日本の現代美術に先鞭をつけ、さらに与えた影響は、絶大なものがあると思います。先生は非常に前衛的な考えの人で、戦後アメリカ美術(ロバート・マザウェル、マーク・トビー、ジャクソン・ポロック、アーシル・ゴーキー)をいち早く紹介をされていました。
ジャスパー・ジョーンズやラウシェンバーグがまだ、大変若い頃インタビューもしていました。
それは私にとって新鮮で大変刺激的でした。
五十年代の『藝術新潮』や『美術手帖』に随分と書いていました、それも先進国のものだけでなく、第三世界の情報まで幅広く紹介していました。
日本人だけでなく、いろんな国に行って若い作家を育てるのが好きだったのです。
啓蒙家でもあったのです。
『La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』29頁所収

《R19, 1967 Roma》
1967
ミクストメディア
額サイズ25.7x20.6cm
サイン

《Self-Portrait blue submarine》
シルクスクリーン
69.2x49.9cm
Ed.11/160
サインあり
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■阿部展也(1913~1971 あべのぶや)
新潟に生まれ、独学で絵画を学び、具象、キュビスム、シュルレアリスムを経て、抽象的傾向に進んだ阿部は、20世紀の世界の美術動向を体現した数少ない画家の一人である。本名・芳文。
1937(昭和12)年詩画集「妖精の距離」を刊行。1939年美術文化協会の創立に参加、「地球創造説」などを出品。1962年よりローマに移り、1971年同地で58歳で没した。
晩年の幾何学的抽象は、ルーチョ・フォンターナらイタリアの画家達にも影響を与えた。
2001年東京ステーションギャラリーで回顧展が開催された。
*画廊亭主敬白
本日午後3時頃、宮脇先生がときの忘れものにいらっしゃる予定です。図録にサインをご希望の方はぜひお出かけください。
今回の宮脇愛子展では銀座のギャラリーせいほうで平面と立体の大作を、青山のときの忘れものでは比較的小品と、親交の深かったマン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオポンティ、阿部展也、ERRO、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシスなどの作品を展示しています。
それら作家たちとの交友・影響については、今回刊行した『La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』(限定200部)に宮脇先生ご自身が語られています。
いくつか転載してご紹介しますが、限定番号2番を購入された「マン・レイになってしまった人」石原さんが図録の感想をブログに書いてくださいました。
日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ
「宮脇愛子インタヴュー」もお読みいただければ幸いです。
◆『La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』を刊行
2012年6月25日発行:ときの忘れもの
限定200部 宮脇愛子オリジナルシルクスクリーンとDVD付

宮脇愛子、マン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオ・ポンティ、阿部展也、エロ、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシス、他
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