この夏、何人かのコレクターから、瑛九のとびきりの名作を託されました。
油彩、フォトデッサン、フォトコラージュなどなど、いずれも日本経済新聞社『瑛九作品集』に収録されている文字通り代表作ばかりです。
これだけの名作なので、おそらく私たちの手元にある期間はそう長くはない(貧乏画廊の宿命でいい作品ほど持ちきれない・・・涙)。
事情の許す限りご紹介しましょう。
まずは、フォトコラージュ。

瑛九
「傷ましき顔」
1937年
フォトコラージュ
19.1x13.6cm
鉛筆サイン・年記あり
※日本経済新聞社『瑛九作品集』148ページ所収
杉田秀夫が「瑛九」としてデビューしたての最初期の名作です。
この作品の来歴ははっきりしており、瑛九の死去直後の最初の遺作展示(国立近代美術館「四人の作家」展)に出品された後、「瑛九の会」設立メンバーのOさんのもとに長くあり、私が上述の『瑛九作品集』を編集したときはOさんから拝借して撮影し、同書に掲載しました。
その後、別のコレクターに譲られ、そして今回私どもに入ってきたという次第です。
瑛九ほど、学芸員に愛されている画家はいないのではないか。
『瑛九作品集』の編集を終え、雑誌に依頼されて書いた私の文章の冒頭です。
亡くなったのが1960(昭和35)年3月10日。
その僅か一ヵ月半後の4月28日に当時京橋にあった国立近代美術館(現・東京国立近代美術館)で遺作が展示されます。
48歳の若さで亡くなった画家の展示としては異例です。
当時の展覧会担当者だった本間正義先生(後に美術評論家連盟会長、埼玉県立近代美術館館長などを歴任)が『瑛九作品集』の巻頭論文でその経緯を書いています。
私が瑛九についてふれようとすると、どうしてもまず国立近代美術館(現東京国立近代美術館)が創立当初行なっていた「四人の作家」展のことにふれなければならない。これは毎年シリーズ的に行なったもので、物故作家の中から、有名無名にかかわらず四名を選んで、その作品を展示するものであり、新しく日本の近代美術史を発掘し、樹立しようとする新美術館の意気込みを示す企画であった。昭和三五年(一九六〇)に第六回展が企画されたが、この時の作家は菱田春草、高村光太郎、上阪雅人とそれに瑛九の四人であった。この選定には、これまで全くなかったことがおこった。それは瑛九に関することで、展覧会が開かれたのは四月二八日からであるが、瑛九が亡くなったのは三月一〇日であるので、その間は一カ月半しかない。こんな短期間で作品を調査し、収集し、展示するなどということは尋常なことではない。しかし、いってみればまるで無茶なことにゴー・サインを出したのは今泉篤男副館長で、この無茶を担当させられたのが私であった。アップアップしながらも、私は未亡人の協力を得て、それでもなんとか五〇点近い作品をならべることができた。それではじめて接した瑛九は、私にとっては「無我夢中の瑛九」であった。
(以下略)
本間正義 瑛九の「雲」(『瑛九作品集』6ページより)
企画展を突貫工事で進めながらこの手で日本のナショナル・ミュージアムを作り上げていくのだという、今泉篤男先生たちの意気込みが伝わってくる話ですね。
B5判、30ページの粗末な目録ですが、国家がなした瑛九顕彰の最初の記念碑です。
なにかと保守性を批判される国立の美術館のこれは快挙といっていいのではないでしょうか。

「四人の作家」展目録
1960年4月28日―6月5日
国立近代美術館
出展作家:菱田春草、瑛九、上阪雅人、高村光太郎

油彩「労働」「駄々っ子」

油彩「月」「黄」

銅版「道のプロィル」
フォトデッサン「かぎ」
フォトコラージュ「作品A」
リトグラフ「日曜日」
上掲目録24ページの左下「作品A」として掲載されているのが、今回私どものコレクションとなった「傷ましき顔」です。
タイトルが違うのは瑛九にはよくあることで、生前には題名がつけられていなかったものを没後に頒布の過程で未亡人や「瑛九の会」によって新たなタイトルがつけられた例も多く、「傷ましき顔」という題名が果たして瑛九によってつけられたものか、それとも没後につけられたものか、今となっては不明です。
この作品がつくられたのは1937年(昭和12年)、瑛九26歳のときでした。
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油彩、フォトデッサン、フォトコラージュなどなど、いずれも日本経済新聞社『瑛九作品集』に収録されている文字通り代表作ばかりです。
これだけの名作なので、おそらく私たちの手元にある期間はそう長くはない(貧乏画廊の宿命でいい作品ほど持ちきれない・・・涙)。
事情の許す限りご紹介しましょう。
まずは、フォトコラージュ。

瑛九
「傷ましき顔」
1937年
フォトコラージュ
19.1x13.6cm
鉛筆サイン・年記あり
※日本経済新聞社『瑛九作品集』148ページ所収
杉田秀夫が「瑛九」としてデビューしたての最初期の名作です。
この作品の来歴ははっきりしており、瑛九の死去直後の最初の遺作展示(国立近代美術館「四人の作家」展)に出品された後、「瑛九の会」設立メンバーのOさんのもとに長くあり、私が上述の『瑛九作品集』を編集したときはOさんから拝借して撮影し、同書に掲載しました。
その後、別のコレクターに譲られ、そして今回私どもに入ってきたという次第です。
瑛九ほど、学芸員に愛されている画家はいないのではないか。
『瑛九作品集』の編集を終え、雑誌に依頼されて書いた私の文章の冒頭です。
亡くなったのが1960(昭和35)年3月10日。
その僅か一ヵ月半後の4月28日に当時京橋にあった国立近代美術館(現・東京国立近代美術館)で遺作が展示されます。
48歳の若さで亡くなった画家の展示としては異例です。
当時の展覧会担当者だった本間正義先生(後に美術評論家連盟会長、埼玉県立近代美術館館長などを歴任)が『瑛九作品集』の巻頭論文でその経緯を書いています。
私が瑛九についてふれようとすると、どうしてもまず国立近代美術館(現東京国立近代美術館)が創立当初行なっていた「四人の作家」展のことにふれなければならない。これは毎年シリーズ的に行なったもので、物故作家の中から、有名無名にかかわらず四名を選んで、その作品を展示するものであり、新しく日本の近代美術史を発掘し、樹立しようとする新美術館の意気込みを示す企画であった。昭和三五年(一九六〇)に第六回展が企画されたが、この時の作家は菱田春草、高村光太郎、上阪雅人とそれに瑛九の四人であった。この選定には、これまで全くなかったことがおこった。それは瑛九に関することで、展覧会が開かれたのは四月二八日からであるが、瑛九が亡くなったのは三月一〇日であるので、その間は一カ月半しかない。こんな短期間で作品を調査し、収集し、展示するなどということは尋常なことではない。しかし、いってみればまるで無茶なことにゴー・サインを出したのは今泉篤男副館長で、この無茶を担当させられたのが私であった。アップアップしながらも、私は未亡人の協力を得て、それでもなんとか五〇点近い作品をならべることができた。それではじめて接した瑛九は、私にとっては「無我夢中の瑛九」であった。
(以下略)
本間正義 瑛九の「雲」(『瑛九作品集』6ページより)
企画展を突貫工事で進めながらこの手で日本のナショナル・ミュージアムを作り上げていくのだという、今泉篤男先生たちの意気込みが伝わってくる話ですね。
B5判、30ページの粗末な目録ですが、国家がなした瑛九顕彰の最初の記念碑です。
なにかと保守性を批判される国立の美術館のこれは快挙といっていいのではないでしょうか。

「四人の作家」展目録
1960年4月28日―6月5日
国立近代美術館
出展作家:菱田春草、瑛九、上阪雅人、高村光太郎

油彩「労働」「駄々っ子」

油彩「月」「黄」

銅版「道のプロィル」
フォトデッサン「かぎ」
フォトコラージュ「作品A」
リトグラフ「日曜日」
上掲目録24ページの左下「作品A」として掲載されているのが、今回私どものコレクションとなった「傷ましき顔」です。
タイトルが違うのは瑛九にはよくあることで、生前には題名がつけられていなかったものを没後に頒布の過程で未亡人や「瑛九の会」によって新たなタイトルがつけられた例も多く、「傷ましき顔」という題名が果たして瑛九によってつけられたものか、それとも没後につけられたものか、今となっては不明です。
この作品がつくられたのは1937年(昭和12年)、瑛九26歳のときでした。
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