無国籍の水墨画 君島彩子展に寄せて
山下裕二
君島彩子の作品をはじめて見たのは、彼女が2006年の岡本太郎賞に入選したときだった。予備審査はファイルを見るだけだから、会場の川崎市岡本太郎美術館に展示されたときに、はじめて実物を見た。
天井から吊された長大な紙に、水墨で無数の人の顔が描かれた群像。私はもともと室町時代の水墨画研究が専門だから、こういう技法の作品は厳しく見てしまうのだが、彼女の作品は、伝統に寄り添うことなどさらさらなく、お稽古事的な水墨画の約束事ともまったく無縁で、そんなありようがかえって好ましいと思った。受賞するには至らなかったが。
その後、2007年にスパイラルで彼女の作品が展示された折にも、会って言葉を交わしたと思うが、それからしばらく、作品を見る機会はなかった。しかし、その後もかなり頻繁に出会う機会があった。なぜなら、彼女は大学卒業以来、東京国立博物館で監視員の仕事を続けていて、私は観客としてほとんどの展覧会を見ているから、出会った回数は数十回にもなると思う。
監視員は、最も長い時間、展覧会場にいるわけだ。彼女は、2004年に勤務しはじめて以来、東京国立博物館で、若冲も、芦雪も、永徳も、等伯も、穴が開くほど見てきただろう。権威を奉るだけの嫌な奴のふるまいも、何も知らなくても、はじめて作品に接して衝撃を受けて、人生が変わるかもしれない人の様子も、さんざん見てきただろう。
その末に彼女は、自分がなんとなくはじめた紙と墨による表現に確信めいた思いを持って、今回の個展に至ったのだと思う。彼女から、私にテキストを依頼するために届いた手紙には、以下のように書いてあった。
今回の個展では、シンガポールで制作を行った作品、シンガポールをテーマにした作品が中心となっています。私の母方の祖父母は戦前に長くシンガポールで暮らしていたため、子供の時からよくシンガポールの話を聞いていました。特に子供の頃のシンガポールのイメージは、楽園のようなところでした。祖父がイギリス軍の捕虜となり楽園のような生活は終わったのですが、戦後、祖父が日本へ生きて帰ってくれたからこそ、母が生まれ、そして私が生まれたという、自分の「生」と「シンガポール」との不思議な縁を感じました。このような体験から「今生縁起」という展覧会のタイトルに決めました。
シンガポールは、不思議な場所である。私も数年前に一度だけ行ったことがあるが、歴史を反映しながら、歴史とは切断されているというか、あの、無機質な高層ビルのたたずまいを見ながら、妙な感慨に耽った。
君島彩子は、あらためて祖父の記憶をたどりながら訪ねたシンガポールで、東京国立博物館でさんざん見ているはずの日本美術史上の「名作」を思い出しながら、でも意識から切り離しながら、行ったり来たりして、自分にとって切実な絵を描こうとしたんだろう。私はいま、その画像をコンピュータの画面で見ながらこの原稿を書いているが、青山の画廊で、この「無国籍の水墨画」の実物を見ることを楽しみにしている。
(やましたゆうじ 美術史家、明治学院大学教授)

君島彩子
「On the equator」
2012年
和紙、墨
172.5x128.0cm
サインあり

君島彩子
「FISH」
2012年
和紙、墨
45.0x49.0cm
サインあり
-------------------

君島彩子
「TALK」
2012年
水彩紙、墨
26.0x26.0cm
サインあり
-------------------

君島彩子
「VANISH」
2012年
水彩紙、墨
26.0x26.0cm
サインあり
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◆ときの忘れものは、明日2012年8月24日(金)から9月1日(土)まで「君島彩子新作展―今生縁起 The Dependent Origination in This Life」を開催します(会期中無休)。
初日の8月24日(金)18時より作家を囲みオープニングを開催します。どうぞお出かけください。
山下裕二
君島彩子の作品をはじめて見たのは、彼女が2006年の岡本太郎賞に入選したときだった。予備審査はファイルを見るだけだから、会場の川崎市岡本太郎美術館に展示されたときに、はじめて実物を見た。
天井から吊された長大な紙に、水墨で無数の人の顔が描かれた群像。私はもともと室町時代の水墨画研究が専門だから、こういう技法の作品は厳しく見てしまうのだが、彼女の作品は、伝統に寄り添うことなどさらさらなく、お稽古事的な水墨画の約束事ともまったく無縁で、そんなありようがかえって好ましいと思った。受賞するには至らなかったが。
その後、2007年にスパイラルで彼女の作品が展示された折にも、会って言葉を交わしたと思うが、それからしばらく、作品を見る機会はなかった。しかし、その後もかなり頻繁に出会う機会があった。なぜなら、彼女は大学卒業以来、東京国立博物館で監視員の仕事を続けていて、私は観客としてほとんどの展覧会を見ているから、出会った回数は数十回にもなると思う。
監視員は、最も長い時間、展覧会場にいるわけだ。彼女は、2004年に勤務しはじめて以来、東京国立博物館で、若冲も、芦雪も、永徳も、等伯も、穴が開くほど見てきただろう。権威を奉るだけの嫌な奴のふるまいも、何も知らなくても、はじめて作品に接して衝撃を受けて、人生が変わるかもしれない人の様子も、さんざん見てきただろう。
その末に彼女は、自分がなんとなくはじめた紙と墨による表現に確信めいた思いを持って、今回の個展に至ったのだと思う。彼女から、私にテキストを依頼するために届いた手紙には、以下のように書いてあった。
今回の個展では、シンガポールで制作を行った作品、シンガポールをテーマにした作品が中心となっています。私の母方の祖父母は戦前に長くシンガポールで暮らしていたため、子供の時からよくシンガポールの話を聞いていました。特に子供の頃のシンガポールのイメージは、楽園のようなところでした。祖父がイギリス軍の捕虜となり楽園のような生活は終わったのですが、戦後、祖父が日本へ生きて帰ってくれたからこそ、母が生まれ、そして私が生まれたという、自分の「生」と「シンガポール」との不思議な縁を感じました。このような体験から「今生縁起」という展覧会のタイトルに決めました。
シンガポールは、不思議な場所である。私も数年前に一度だけ行ったことがあるが、歴史を反映しながら、歴史とは切断されているというか、あの、無機質な高層ビルのたたずまいを見ながら、妙な感慨に耽った。
君島彩子は、あらためて祖父の記憶をたどりながら訪ねたシンガポールで、東京国立博物館でさんざん見ているはずの日本美術史上の「名作」を思い出しながら、でも意識から切り離しながら、行ったり来たりして、自分にとって切実な絵を描こうとしたんだろう。私はいま、その画像をコンピュータの画面で見ながらこの原稿を書いているが、青山の画廊で、この「無国籍の水墨画」の実物を見ることを楽しみにしている。
(やましたゆうじ 美術史家、明治学院大学教授)

君島彩子
「On the equator」
2012年
和紙、墨
172.5x128.0cm
サインあり

君島彩子
「FISH」
2012年
和紙、墨
45.0x49.0cm
サインあり
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君島彩子
「TALK」
2012年
水彩紙、墨
26.0x26.0cm
サインあり
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君島彩子
「VANISH」
2012年
水彩紙、墨
26.0x26.0cm
サインあり
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◆ときの忘れものは、明日2012年8月24日(金)から9月1日(土)まで「君島彩子新作展―今生縁起 The Dependent Origination in This Life」を開催します(会期中無休)。

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