先日、京都のギャラリー16の開廊50周年記念のリレー・トークをご紹介しましたが、京都在住のマン・レイイスト石原輝雄さんがご自身のブログでレポートされています。会場の熱気が伝わってきます。ぜひお読みください。

台風の襲来が心配です。
このブログで「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」を連載している植田実先生が巡回中の「生誕100年 松本竣介展」の全会場を制覇するべく今日の飛行機で米子に飛び島根県立美術館に向かうからです。
本当は亭主がお供する予定だったのですが、この体調ではかえって足手まといになると断念しました。

竣介とは同郷の深沢紅子先生(1903-1993)の展覧会が開催されています。
会場は吉祥寺駅から近く、こじんまりした美術館として親しまれている吉祥寺美術館です。

深沢紅子展~野の花によせて

会期=2012年9月15日~11月4日
会場=武蔵野市立吉祥寺美術館
20120915深沢紅子展 表20120915深沢紅子展 裏

独断して言えば、大都会の美術館というのは「交通の便」がよくなくてはいけない。
その点、吉祥寺美術館は理想的で、思い立ったら直ぐに行ける。
東京に住む側からの勝手な言い草で申し訳ないのですが、北海道や東北(地方ならどこでも構わない、暴言はお許しください)の美術館が山の奥にあろうと交通の便が悪かろうと、行く時点でのんびり構えちゃっているので、少々の不便は厭わないし、かえって旅情にひたることができる。多くの場合、美しい自然と美味しい空気がある。
日常の都会生活での時間と、非日常の旅の時間との感覚には明らかに差がある。

都内の区立美術館のさきがけで、なかなか凝った企画をする板橋区立美術館などは「交通の便」で随分と損をしていますね。バスは一時間に二本程度、最寄の駅にタクシー乗り場がない、年寄りや足の悪い人が歩くには遠すぎる。

話がヘンなところに行きそうなのでストップ。

掲題の深沢紅子展に戻りましょう。
故郷盛岡の人たちは、「こうこ先生」と懐かしげに呼びます。戦後の岩手の美術界をご夫婦で牽引されてきました。

少年時代、亭主は堀辰雄を愛読しており、その交友関係でしばしば名前の出てくるのが深沢紅子先生でした。その画家にまさか後年自分がお会いできるなんて思いもかけませんでしたが(昔の画家と勝手に思い込んでいたので)、縁あって先生のご自宅に伺い、リトグラフ集「野の花」連作を制作してもらうことができたのは1983年でした。このとき、紅子先生は80歳。

深沢紅子「野の花」連作6点
リトグラフ 1983年
シートサイズ 54.5×44cm
限定75部  鉛筆サイン有り
*現代版画センターとMORIOKA第一画廊の共同エディション
深沢紅子「ゆりの木の花」深沢紅子「てっせん」
左)「ゆりの木の花」
右)「てっせん」

深沢紅子「ほうの花」深沢紅子「あけび」
左)「ほうの花」
右)「あけび」

深沢紅子「松虫草」深沢紅子「ふしぐろせんのう」
左)「松虫草」
右)「ふしぐろせんのう」

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから

◆深沢紅子(ふかざわ こうこ)1903年盛岡生まれ。12歳頃から日本画を習い始め、1919年盛岡高女を卒業すると、東京女子美術学校(現女子美大)日本画科に入学。2年後ゴッホの「ひまわり」に魅了され、油絵科に転科、岡田三郎助に師事。1925年二科会に初入選、以後1936年まで出品。1927年和田三造の日本標準色協会創立に参加、2年間従事する。安井曽太郎らが二科会を脱退したのに続き、一水会創立に参加。1945年盛岡に帰り、岩手美術研究所、盛岡生活学校などで美術指導を行う。1948年女流画家協会創立委員。1949年盛岡短期大学美工科創立と同時に教授として就任(1955年まで)。1961年日米交歓美術展招待出品、ソビエト日本美術展招待出品など内外の展覧会に出品。1979年アトリエが全焼し、作品をほとんど焼失。1985年舌癌に侵されながらも一水会展、女流画家協会展への出品を続ける。1993年就寝中に永眠。享年90。没後1996年には、軽井沢と盛岡に相次いで「深沢紅子野の花美術館」が開館した。