荒井由泰「マイコレクション物語」第7回
バルテュスのこと、そしてマイ駒井哲郎コレクションについて
荒井由泰
七夕の季節になると思い出すことがある。私のアートライフでのもっとも大きな出来事となったバルテュス(Balthus)との出会いのことだ。バルテュスと聞いて、「あのバルテュス」と言ってくれる人は相当のアート通だ。手元に手漉きの名刺がある。その名刺にはCte.& Ctesse B. de Rola(ローラ伯爵夫妻)と記してある。ローラ伯爵と言ってしまえば、ヨーロッパの一貴族にすぎないが、アートの歴史のなかでは燦然と輝く巨匠の一人である。欧米の美術館(ポンピドー、メトロポリタン、MOMA)には彼の名作が並ぶ。時間が止まったような街や自然の風景あるいは妙に色っぽい肢体をさらす少女達がわれわれを魅了する。その巨匠とふるさと勝山で対面し(1984年)、また1986年にはスイスの田舎町にあるグランシャレ(Grand Chalet)と言われる巨大木造邸宅(1750年代に作られ、かつてはホテルとして使われた)で歓待を受け、宿泊までさせてもらったのだ。バルテュスフアンの方には申し訳ない経験であった。かつて、現代版画センターの機関誌に特別寄稿「巨匠の素顔に接して」として書かせてもらったが、その原稿を思い出しながら、手短にこの物語を述べることにする。
バルテュス
1984
グランシャレ
Grand Chalet
ご存じの方も多いかと思うがバルテュスの奥様は日本人で、着物姿が美しい節子夫人だ。バルテュスが1962年に当時のフランスの文化大臣アンドレ・マルローの依頼でパリでの日本展の作品選びのために来日された際、通訳としてお世話をしていた節子さんを見初め、結婚された(1967年)。1973年には娘の春美(Harumi)ちゃんが生まれた。バルテュス一家の住むスイスのグランシャレに偶然にも福井にある調理師学校出身の家族が代々住み込みの料理人をしていたことからこの出会いがはじまった。1984年の当時、大規模な個展がポンピドーそしてメトロポリタン、最後に京都市美術館と巡回した。その折、お忍びで福井に見えるという話を漏れ聞き、ぜひともお会いしたいと思い、調理師学校の理事長にお願いした。ところが、うれしいことに、反対に案内役をまかされてしまったのだ。ということで1984年7月7日七夕の日、勝山市にある白山信仰の拠点であった白山平泉寺等をご案内し、昼食をわが家で食べていただいた。当時、バルテュスは気むずかしい人で、写真も撮ることができないなどのうわさがあり、たいへん緊張しての初対面となった。しかし、思いのほか心優しいジェントルマンで内心ほっとしたことを思い出す。わが屋では私の最初のコレクションであるアンドレ・マッソンの女性像やブレスダンの「よきサマリア人」などを興味深く見ていただいた。マッソンの作品を前にして「彼は私の大の友人でねぇ」の言葉もあり、現代アートの歴史そのものと遭遇したような気分になった。さらには、会話のなかで日本文化にたいする造詣の深さに驚かされた。
2年後の1986年3月に仕事でスイスに出向くチャンスがあり、節子夫人のお招きに甘えて心臓にも一人でチューリッヒからグランシャレのあるロシニエールに出向いた。ロシニエールでの一泊二日の旅はまさにわが人生でもっとも印象深い時間となった。巨匠との会話の時間、すばらしいディナータイム等々すべてが夢のようだ。客間にはジャコメッティの彫刻、また壁にはモランディのドローイング、ボナールとドラクロアの版画もあった。バルテュスから子供時代のアイドルは宮本武蔵であったことなどの話もきいた。言葉の問題もあり、深い話までできなかったが、すばらしい体験であった。翌日はバルテュスはじめ一家全員で駅まで送りに来てくださり、ロシニエールを離れた。グランシャレのたたずまい、近くまで迫る山々の姿など懐かしく思い出す。バルテュスは2001年逝去され、現在グランシャレの一部がバルテュス記念館の形でオープンされているようだ。ぜひとももう一度出かけてみたい。ところで、バルテュスに関するコレクションだが、ささやかなものだ。バルテュスにサインを入れてもらった2枚のポスターおよび図録そして後日手に入れた2枚のリトグラフだ。コレクション以上にたくさんの思い出がわが宝である。
余談であるが、グランシャレを気に入り、二人で購入をきめたが、その代金についてはニューヨークのピエール・マチス画廊に3点か5点かの作品を売って、お金を作ったとのことである。50室もあるホテルを自分の作品を売って、買えるとはやっぱりすごい。
バルテュスとともに
1986
バルテュスとともに
1986
私にとってもう一人の重要なアーティストのことを述べねばならない。駒井哲郎である。残念ながら、私が日本に戻ったときにはすでに亡くなられており、お会いしたことはない。
現在のマイコレクションにおいては駒井作品が一番重要な位置を占めている。しかし、最初から駒井作品の蒐集を決めたわけではない。駒井作品の実物はN氏コレクションで見せてもらったのが最初だったと思う。気になる作家であることは確かだった。そんなことで、ニューヨークにいるとき、当時の現代版画センターの案内を見て、「レースのある静物」(1975)を購入した。確か4万円だったと思う。また、彼の最後の著作となった「銅版画のマチエール」の特装本(限定125部)も手に入れた。しかし、その次の作品購入はバブルがはじけた後の1992年頃であり、空白の時間があった。バブルで駒井作品が高価になり、手に入れにくくなったことが主な原因だった。実際、ニューヨークで手に入れた「レースのある静物」も何かの作品の下取りとして、手放してしまった。日本に戻り、福原コレクションを含め、実際の作品を見るにつけて、駒井への関心は高まった。一方、すでに書いたように、私は「銅版画のマチエール」で取り上げられている「長谷川潔」「ロドルフ・ブレスダン」「オディロン・ルドン」等の作品からコレクションをスタートさせた経緯もあり、逆ルートで「駒井哲郎」にたどり着いた。価格面で少し落ち着いた1992年以降、出会いがあるたびにコツコツと蒐集を続けてきた。そして20年かけて、1948年から50年代の作品を中心に30点あまりのコレクションとなった。私は小品ながら光を放つ作品が好きだ。私は勝手にダイアモンドと呼んでいる。また、モノクロ作品が好みだ。もちろんカラー作品も気になるが、高価なので安心する。「孤独な鳥」(1948)「ジル・ド・レの肖像」(1948)、「ラジオアクティビティ・イン・マイルーム」(1950)、「小さな幻影」(1950)などが大好きだ。少し大きめの作品では「三匹の小魚」(1958)、「果実の受胎」(1959)が気に入っている。「果実の受胎」と画廊で対面したときには、思わず「美しい」と声が出た。やりくりしながら、駒井作品を蒐集していくなかで、私のコレクションの柱を「駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達」としようと心に決めた。駒井作品に加え、オディロン・ルドン、ロドルフ・ブレスダン、シャルル・メリヨン、長谷川潔、さらには駒井が師と仰いでいた恩地孝四郎が加わった作品群がメインのコレクションとして形作られることになる。
次回は装幀に興味を抱き、本の蒐集をはじめた話、さらには恩地孝四郎との出会いについて書いてみようと思っている。引き続き読んでいただければ幸いだ。

「孤独な鳥」
1948
「ジル・ド・レの肖像」
1948
「ラジオアクティビティ・イン・マイルーム」
1950
「小さな幻影」
1950
「三匹の小魚」
1958
「果実の受胎」
1959
(あらいよしやす)
バルテュスのこと、そしてマイ駒井哲郎コレクションについて
荒井由泰
七夕の季節になると思い出すことがある。私のアートライフでのもっとも大きな出来事となったバルテュス(Balthus)との出会いのことだ。バルテュスと聞いて、「あのバルテュス」と言ってくれる人は相当のアート通だ。手元に手漉きの名刺がある。その名刺にはCte.& Ctesse B. de Rola(ローラ伯爵夫妻)と記してある。ローラ伯爵と言ってしまえば、ヨーロッパの一貴族にすぎないが、アートの歴史のなかでは燦然と輝く巨匠の一人である。欧米の美術館(ポンピドー、メトロポリタン、MOMA)には彼の名作が並ぶ。時間が止まったような街や自然の風景あるいは妙に色っぽい肢体をさらす少女達がわれわれを魅了する。その巨匠とふるさと勝山で対面し(1984年)、また1986年にはスイスの田舎町にあるグランシャレ(Grand Chalet)と言われる巨大木造邸宅(1750年代に作られ、かつてはホテルとして使われた)で歓待を受け、宿泊までさせてもらったのだ。バルテュスフアンの方には申し訳ない経験であった。かつて、現代版画センターの機関誌に特別寄稿「巨匠の素顔に接して」として書かせてもらったが、その原稿を思い出しながら、手短にこの物語を述べることにする。

1984

Grand Chalet
ご存じの方も多いかと思うがバルテュスの奥様は日本人で、着物姿が美しい節子夫人だ。バルテュスが1962年に当時のフランスの文化大臣アンドレ・マルローの依頼でパリでの日本展の作品選びのために来日された際、通訳としてお世話をしていた節子さんを見初め、結婚された(1967年)。1973年には娘の春美(Harumi)ちゃんが生まれた。バルテュス一家の住むスイスのグランシャレに偶然にも福井にある調理師学校出身の家族が代々住み込みの料理人をしていたことからこの出会いがはじまった。1984年の当時、大規模な個展がポンピドーそしてメトロポリタン、最後に京都市美術館と巡回した。その折、お忍びで福井に見えるという話を漏れ聞き、ぜひともお会いしたいと思い、調理師学校の理事長にお願いした。ところが、うれしいことに、反対に案内役をまかされてしまったのだ。ということで1984年7月7日七夕の日、勝山市にある白山信仰の拠点であった白山平泉寺等をご案内し、昼食をわが家で食べていただいた。当時、バルテュスは気むずかしい人で、写真も撮ることができないなどのうわさがあり、たいへん緊張しての初対面となった。しかし、思いのほか心優しいジェントルマンで内心ほっとしたことを思い出す。わが屋では私の最初のコレクションであるアンドレ・マッソンの女性像やブレスダンの「よきサマリア人」などを興味深く見ていただいた。マッソンの作品を前にして「彼は私の大の友人でねぇ」の言葉もあり、現代アートの歴史そのものと遭遇したような気分になった。さらには、会話のなかで日本文化にたいする造詣の深さに驚かされた。
2年後の1986年3月に仕事でスイスに出向くチャンスがあり、節子夫人のお招きに甘えて心臓にも一人でチューリッヒからグランシャレのあるロシニエールに出向いた。ロシニエールでの一泊二日の旅はまさにわが人生でもっとも印象深い時間となった。巨匠との会話の時間、すばらしいディナータイム等々すべてが夢のようだ。客間にはジャコメッティの彫刻、また壁にはモランディのドローイング、ボナールとドラクロアの版画もあった。バルテュスから子供時代のアイドルは宮本武蔵であったことなどの話もきいた。言葉の問題もあり、深い話までできなかったが、すばらしい体験であった。翌日はバルテュスはじめ一家全員で駅まで送りに来てくださり、ロシニエールを離れた。グランシャレのたたずまい、近くまで迫る山々の姿など懐かしく思い出す。バルテュスは2001年逝去され、現在グランシャレの一部がバルテュス記念館の形でオープンされているようだ。ぜひとももう一度出かけてみたい。ところで、バルテュスに関するコレクションだが、ささやかなものだ。バルテュスにサインを入れてもらった2枚のポスターおよび図録そして後日手に入れた2枚のリトグラフだ。コレクション以上にたくさんの思い出がわが宝である。
余談であるが、グランシャレを気に入り、二人で購入をきめたが、その代金についてはニューヨークのピエール・マチス画廊に3点か5点かの作品を売って、お金を作ったとのことである。50室もあるホテルを自分の作品を売って、買えるとはやっぱりすごい。

1986

1986
私にとってもう一人の重要なアーティストのことを述べねばならない。駒井哲郎である。残念ながら、私が日本に戻ったときにはすでに亡くなられており、お会いしたことはない。
現在のマイコレクションにおいては駒井作品が一番重要な位置を占めている。しかし、最初から駒井作品の蒐集を決めたわけではない。駒井作品の実物はN氏コレクションで見せてもらったのが最初だったと思う。気になる作家であることは確かだった。そんなことで、ニューヨークにいるとき、当時の現代版画センターの案内を見て、「レースのある静物」(1975)を購入した。確か4万円だったと思う。また、彼の最後の著作となった「銅版画のマチエール」の特装本(限定125部)も手に入れた。しかし、その次の作品購入はバブルがはじけた後の1992年頃であり、空白の時間があった。バブルで駒井作品が高価になり、手に入れにくくなったことが主な原因だった。実際、ニューヨークで手に入れた「レースのある静物」も何かの作品の下取りとして、手放してしまった。日本に戻り、福原コレクションを含め、実際の作品を見るにつけて、駒井への関心は高まった。一方、すでに書いたように、私は「銅版画のマチエール」で取り上げられている「長谷川潔」「ロドルフ・ブレスダン」「オディロン・ルドン」等の作品からコレクションをスタートさせた経緯もあり、逆ルートで「駒井哲郎」にたどり着いた。価格面で少し落ち着いた1992年以降、出会いがあるたびにコツコツと蒐集を続けてきた。そして20年かけて、1948年から50年代の作品を中心に30点あまりのコレクションとなった。私は小品ながら光を放つ作品が好きだ。私は勝手にダイアモンドと呼んでいる。また、モノクロ作品が好みだ。もちろんカラー作品も気になるが、高価なので安心する。「孤独な鳥」(1948)「ジル・ド・レの肖像」(1948)、「ラジオアクティビティ・イン・マイルーム」(1950)、「小さな幻影」(1950)などが大好きだ。少し大きめの作品では「三匹の小魚」(1958)、「果実の受胎」(1959)が気に入っている。「果実の受胎」と画廊で対面したときには、思わず「美しい」と声が出た。やりくりしながら、駒井作品を蒐集していくなかで、私のコレクションの柱を「駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達」としようと心に決めた。駒井作品に加え、オディロン・ルドン、ロドルフ・ブレスダン、シャルル・メリヨン、長谷川潔、さらには駒井が師と仰いでいた恩地孝四郎が加わった作品群がメインのコレクションとして形作られることになる。
次回は装幀に興味を抱き、本の蒐集をはじめた話、さらには恩地孝四郎との出会いについて書いてみようと思っている。引き続き読んでいただければ幸いだ。

「孤独な鳥」
1948

1948

1950

1950

1958

1959
(あらいよしやす)
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