「大竹昭子写真展―Gaze+Wonder/NY1980」を開催します。
227_OHTAKE
会期=2012年10月19日[金]―10月27日[土] 
12:00-19:00 ※会期中無休

エッセイ、対談、小説、書評、そして写真と様々な場で活躍する大竹昭子さんが30年前のニューヨークで撮影したモノクロ写真27点をご覧いただきます。
明日10月19日(金)18時より、大竹さんを囲みオープニングを開催しますので、どうぞ皆さんご参加ください。

なお10月24日(水)に開催する大竹昭子さんと福岡伸一さんによるギャラリートークは満席になりましたので、受付は終了しました。
ohtake_01_yoru-kaiwa大竹昭子
夜の会話

ohtake_02_syouboushi大竹昭子
消防士

ohtake_03_BILLY大竹昭子
BILLY

出品リストはホームページに掲載しました。
●本展覧会に合わせ、オリジナルプリント12点組のポートフォリオをときの忘れものより刊行します。

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大竹昭子ポートフォリオ『Gaze+Wonder NY1980』
発行日:2012年10月19日
発行:ときの忘れもの
限定8部
・たとう入りオリジナルプリント12点組
・写真集『NY1980』(赤々舎)同梱
テキスト:堀江敏幸、大竹昭子
技法:ゼラチンシルバープリント
撮影年:1980年~1982年
プリント年:2012年
シートサイズ:20.3x25.4cm
各作品に限定番号と作者自筆サイン入り
価格:231,000円(税込)

「はじめの一歩を踏みだす」    大竹昭子

 文章を書く「わたし」も、写真を撮る「わたし」も、ニューヨークに行く前には存在しなかった。いったい、あのころの自分はなにを考えていたのだろうか。三十にさしかかろうという年齢なのに、よほどぼんやりとしていたとみえる。
 ニューヨークに住んだ翌年にカメラを買い、街路を撮りだした。街を歩くことは前からしていたが、カメラがなくてはならないと感じたのははじめてで、ぼんやりした状態にようやく火がつき撮影に夢中になった。燃えだすと火勢は強かった。
 あの当時、日本から訪ねてきた人はみな判で押したように、街が汚いと連呼した。どうしておなじことばかり言うのだろうと憮然としたものだが、改めて写真を見るとたしかに汚い。そう思わないほうがむずかしい。しかし、住んでいるあいだはなぜか汚いとは思わなかった。汚さのなかに生命の痕跡があり、それをたどっていくとき、自分のなかにいまだ意識しなかった原始の力が目覚めていくのを感じた。
 撮ることと同時に書くこともはじまったが、振り返ってみるとあの街で写真を知ったことが大きく関与したように思う。撮るには外界に出て現実に触れ、具体的な対象にむき合わなければならないが、そのプロセスから「書くわたし」が生まれた。見るだけではなく、撮る側にもまわったことがすべての起点になったのだ。
 現実にむかってシャッターを切るものの、出来たものは現実そのものではないという写真の特性は刺激的であり、尽きない魅力が感じられた。大げさに言えば、それは世界への眼差しに対する大きな啓示でもあったのだ。自分がものを書いていくときに、現実のリアリティーを手放さずに虚構世界とのはざまをすり抜けていく感覚を重視するようになったのも、そのことと無関係ではないだろう。
 プリントの入った箱をたずさえ帰国して三十年がすぎ、はじめてポートフォリオを制作するにあたり、すべてのはじまりの一歩がここに標されていることに、いま緊張しつつも静かな興奮を覚えている。
(大竹昭子)

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「言葉はそこからはじまった
 ―大竹昭子ポートフォリオ「Gaze + Wonder/NY1980」に寄せて」
堀江敏幸


 人を介しての、手探りの情報を頼りにした移動がまだ生きていた一九七〇年代末のニューヨーク。石造りを基本とする欧州の都市から、金属とコンクリートとガラスの圧倒的な量塊が迫り出す別世界に足を踏み入れた大竹昭子は、動物的な嗅覚と勘を働かせながら賑やかな碁盤目の中心線を離れ、いつも周縁地区に引き寄せられていった。地下に潜ることを比喩にすりかえず、自然体で実践していたのである。

 高い建物のあいまから覗く空の誘いに惑わされない低い目線と、ひと足ひと足の動きに呼応する真新しい心の揺れは、のち『アスファルトの犬』(一九九一)と題された小さな本で再度計測されることになるのだが、二十代を終えようとしていた彼女の不安定な軸足のぶれをなんとか支えてくれたのは、写真を撮ることだった。じっさい、右の本には、今回このポートフォリオのためにセレクトされたものとおなじ写真が何枚も収められている。

 写真集「NY1980」のなかのエッセイで原初の体験として挙げられている「歩道にいる犬」は、人生においてそう幾度も遭遇できない幸福な不意打ちを捉えた一枚だが、「この写真を見返すとき、かならずフレーミングのことに思いがいく。犬をど真ん中にいれてこれ以外は関心なし、という感じで撮っているところが、子供の写した写真のようだ」と彼女は書き、これをもって「子供時代」は終わったのだと断言している。

 しかし、本当にそうだろうか。ある時期に集中して撮影されたこれら一連の写真には、学校を休むには少し足りない微熱と夢の中の彷徨に似たあやうさが刻まれている。原っぱで遊んでいた子どもたちの無計画さや無鉄砲さ、その場その場で遊びを発見していく柔軟さ、そして目の前の出来事を言葉で説明しようとしない身体感覚がある。子供時代は、「このアングルでないとしっくりこないと思う何かがからだのなかで作動する」ことを悟った瞬間ではなく、そのような感触に言葉を与えた時にこそ終わりを告げられるのだ。

 見慣れたものを見知らぬものへといったん変貌させたうえで意識のネガに取りこむフレーミングは、アスファルトを歩く犬ではなく、屋根の上から地上を歩く犬としての自分を見ている「私」という幽体の眼に等しい。この眼の力と鮮度をどのように保ち、どのように稼働させたらいいのか。大竹昭子の「言葉」は、その問いからはじまったのだ。ニューヨークの写真がとどめているのは、レンズ通りが言葉通りと改名される直前の、みずみずしい姿なのである。
(堀江敏幸:小説家、早稲田大学教授)

大竹昭子 Akiko OHTAKE(1950-)
1950年東京都生まれ。上智大学文学部卒。作家。1979年から81年までニューヨークに滞在し、執筆活動に入る。『眼の狩人』(新潮社、ちくま文庫)では戦後の代表的な写真家たちの肖像を強靭な筆力で描き絶賛される。著書は他に『アスファルトの犬』(住まいの図書館出版局)、『図鑑少年』(小学館)、『きみのいる生活』(文藝春秋)など多数。都市に息づくストーリーを現実/非現実を超えたタッチで描きあげる。自らも写真を撮るが、小説、エッセイ、朗読、批評、ルポルタージュなど、特定のジャンルを軽々と飛び越えていく、その言葉のフットワークが多くの人をひきつけている。現在、トークと朗読の会「カタリココ」を多彩なゲストを招いて開催中。

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