先日、わが故郷群馬に久しぶりに社長とともに日帰り旅、桐生の大川美術館で開催されている「生誕100年 オノサト・トシノブ」展に行ってきました。



とても良かった、痛快でした。
亭主は何度も言っている、
「瑛九ほど、学芸員に愛されている画家はいないのではないか」。
瑛九の一歳下、生涯の盟友だったのがオノサト・トシノブ先生。
瑛九が最後の力をこめて描いた点描大作の兜屋画廊での個展(1960年2月23日~28日)に際し、展示からすべてを取り仕切ったのがオノサト先生で、毎日桐生から銀座の兜屋まで通い病床の親友にかわって店番をした。瑛九は個展会場に行くことすら適わず、オープン翌日に入院、3月10日朝、48歳の生涯を閉じました。
昨年生誕100年を迎えた瑛九の顕彰企画の興奮は今も生々しい。宮崎、埼玉、浦和の美術館の大回顧展ばかりでなく、福井の瑛九の会ゆかりの顕彰展、故郷宮崎の新聞は一年間に渡る大キャンペーンをはり、筑波大学五十殿利治研究室はシンポジウムを開催し、その詳細を出版した。
不肖亭主も瑛九ファンの一人としてときの忘れもので第21回瑛九展を開催しました。
作品の評価も高騰するばかりで、学芸員、研究者、コレクター、画商に愛されている瑛九です。
それに反して、オノサト・トシノブの周辺はまことにさびしい。
オノサトの追っかけ学芸員なんて聞いたことがないし、まともな画集すらなく、研究書もほとんどない。オノサトならまかせてという画商もいない。
卒論に瑛九を選ぶ学生がいるのとは大きな違いです。
因みにグーグルで瑛九とオノサトを検索すると(ともにわがときの忘れものがトップあたりにきますが)、瑛九60万件に対し、オノサトは僅か2万数千件に過ぎない。
亭主は研究者ではないので、画商としての感想を今回の大川美術館の展覧会を見て思い浮かぶままに記したいと思います。
ときになまぐさく、例によってあっちに飛びこっちに飛びで支離滅裂な展開になると思いますのでどうぞお許しください。
(ここまで書いてきて、こりゃあ一回じゃあ終わりそうもないなあとイヤな予感)
瑛九もオノサト先生もその生涯の画風の変遷は激しい。しかしその市場的評価となると、瑛九への暖かな評価に比べて、オノサト先生の後期(特に1970年代以降)の作品への冷たい評価は悲しいの一言に尽きます。
桐生にある大川美術館、ワンマン館長大川さんが急死して館は存続できるのかしらと心配しましたが、何とか大丈夫のようですね。安心しました。

大川美術館カタログ
大川美術館でのオノサト展は今回が3回目(1993年、2005年、2012年)。カタログのテキストを執筆した本江邦夫さん(多摩美術大学教授)も小此木美代子さん(大川美術館学芸員)も恐らくはオノサト先生には会ってはいない。だから遺された作品と文献から論を起こしている。その点、前回2005年のカタログ(大川館長はじめ、多数の執筆者のほとんどがオノサト先生を良く知る人たちだった)と違って作家との「距離」がある、だからなのか作品のセレクションが実に思い切りがいい、痛快でした。
どう痛快だったかというと、
今回の出品総数86点のうち、オノサト先生が最も旺盛な制作を展開した1970年以降の作品が僅か11点(油彩10点、はがきの水彩1点)しか選ばれていない、暴挙と言おうか快挙と呼ぶべきか。
これを没後初めての回顧展(1989年 練馬区立美術館)と比べてみると、その差は歴然としています。
練馬では出品総数133点のうち、1970年以降の作品を45点(油彩39点、水彩・タペストリー他6点)選んでいます。満遍なく生涯を網羅している。おそらくご遺族の意向と練馬の温厚な学芸員の考え方が一致したのでしょう。

大川美術館カタログより80年代の作品

大川美術館カタログより70年代の作品

大川美術館カタログよりベタ丸時代の作品
それに比べて、今回大川の学芸員は過激で、オノサトの素晴らしさは1969年以前にありと断定したわけですね。勇断であり、その率直さに感動しました。
亭主は70年代以降の作品がだめだなどとはとても言えませんが、企画展というのはすべからく「編集」ですから、今回の大川の編集に敬意を表したいと思います。
とにかく会場は、SMクラスの小品も含む「ベタ丸」ばかり29点も展示されている。
「ベタ丸」とは、オノサト先生が自ら言った言葉で、丸を単一の色で塗る方式で描かれた1955~1959年までの作品をいいます。
1970~1986年の17年間の生涯の最も充実した時期の作品は僅か11点しか選ばず、5年間という短い期間に制作されたベタ丸作品を29点も選んだ学芸員の意図やいかに。
残念ながら、亭主が訪れた日には学芸員さんは不在、カタログの文章からはそのあたりのことは何もうかがえません。
新館長・寺田勝彦さんの「ごあいさつ」には、
<本展では初期から晩年までの作品約80点を展示いたします。オノサトが生涯を通して追求してきた絵画表現とその今日的意義を見直す機会になれば幸いです>とあるばかり。
確かに「見直す」意図はありそうです(笑)。
ヴェニスビエンナーレ出品など世界の舞台でも評価されたオノサト先生の画業に対する果敢なまでのこの切り捨て方、などと思ってテラスでビールを飲みながら出品リストを詳細に見ると、何となく別の理由も見えてきました。
亡き大川館長、前回の回顧展カタログでは「巨星」「画聖」とオノサト先生を賞賛してはいますが、正直一番好きな作家だったとは思われない。大川さんはやはり松本竣介、野田英夫なんですね。
今回は、東京国立近代美術館、群馬県立近代美術館、須玉美術館、宇都宮美術館などからメインは借りている。
注目すべきは、個人蔵の作品が43点もあることです。つまり半数。
謝辞に掲載されている多数のお名前から察するに、今回大川の学芸員さんは桐生の町中をオノサト作品を探して走り回ったらしい。
結果、皆さんが大事にしていたのが「ベタ丸」ばかり、という事情もあったのではないでしょうか。
オノサト先生が南画廊と絶縁し(後述)、フリーハンドの時代を終えて、自ら考案したシスティマティックな画法で膨大な作品を描きだした70年代以降は、オノサト先生は東京の画壇はもとより地元でもめったに外出しない「孤高の人」になってしまった。
制作はするが、発表の機会もほとんどない、というのが70年代以降のオノサト先生でした。
簡単に先生の生涯を振り返ると、
亡くなったのは1986年11月30日。享年74。
戦前の前衛活動、戦中の召集・戦後のシベリア抑留という空白の時代を経て帰国したのが1948年、36歳の再出発。
教師や養鶏業をやめ画業一本に絞ったのが1962年1月、もう50歳になっていました。
丸を自らの絵のルールとしてシステム化し、猛烈に作品を生み出したのが60年代~70、80年代でした。
久保貞次郎先生の紹介で南画廊(志水楠男さん)で個展を開催したのが1962年3月、飛ぶ鳥をおとす勢いの南画廊での個展は反響を呼び、1966年二回目の個展を開催し、文字通り「南画廊の画家」となります。
ところが1969年の4回目の個展を最後に、南画廊の志水さんと断絶してしまった。
他の画商たちは「南画廊のオノサト」に手を出すなどということは畏れ多くて出来ない、描けども発表の機会のない作家になってしまった。
亭主が毎日新聞の関連事業として現代版画センターをつくったのは1974年、そんな事情はつゆ知らず、生まれて初めて版画のエディションをし(オノサト先生、靉嘔先生他)、恩人の井上房一郎さんに言われるままのこのこ南画廊に出かけて行きました。志水さんにはとても可愛がっていただきました。世間知らずの亭主には何もおっしゃりませんでしたが、やはり面白くはなかったらしい(後日、志水さんの怒りを知ることになる)。
それはまた後で書くとして亭主が言っておきたいことがあります。
今回のカタログにも、また今までの何度かの回顧展のカタログにも一切触れられていませんが、1970年代以降のオノサト先生は世間的には「版画作家」でした。これに関しては後ほど詳述しましょう。
同時代を生き、周辺にいた私たちはよく知っている(つもりの)ことでも、多くの方には知られていないことも多い。
本江さんは今回のカタログテキストで次のように言っています。
<その圧倒的な存在感にもかかわらず、この人の芸術にかんしてはまだまだ為されるべきことが多い>
亭主も同感であります。
ちょっと疲れたので、このへんで本日はストップ。また折をみて書きます。
(大川美術館「生誕100年 オノサト・トシノブ」展を見て2、はコチラ)
画廊は「ハ・ミョンウン(河明殷)展」開催につき今日も明日も開廊しています。
オノサト先生の版画作品をご紹介しましょう。
オノサト・トシノブ
「F-9」
1985年
シルクスクリーン
22.0x27.0cm
Ed.200 サインあり
オノサト・トシノブ
「F-10」
1985年
シルクスクリーン
22.0x27.0cm
Ed.200 サインあり
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とても良かった、痛快でした。
亭主は何度も言っている、
「瑛九ほど、学芸員に愛されている画家はいないのではないか」。
瑛九の一歳下、生涯の盟友だったのがオノサト・トシノブ先生。
瑛九が最後の力をこめて描いた点描大作の兜屋画廊での個展(1960年2月23日~28日)に際し、展示からすべてを取り仕切ったのがオノサト先生で、毎日桐生から銀座の兜屋まで通い病床の親友にかわって店番をした。瑛九は個展会場に行くことすら適わず、オープン翌日に入院、3月10日朝、48歳の生涯を閉じました。
昨年生誕100年を迎えた瑛九の顕彰企画の興奮は今も生々しい。宮崎、埼玉、浦和の美術館の大回顧展ばかりでなく、福井の瑛九の会ゆかりの顕彰展、故郷宮崎の新聞は一年間に渡る大キャンペーンをはり、筑波大学五十殿利治研究室はシンポジウムを開催し、その詳細を出版した。
不肖亭主も瑛九ファンの一人としてときの忘れもので第21回瑛九展を開催しました。
作品の評価も高騰するばかりで、学芸員、研究者、コレクター、画商に愛されている瑛九です。
それに反して、オノサト・トシノブの周辺はまことにさびしい。
オノサトの追っかけ学芸員なんて聞いたことがないし、まともな画集すらなく、研究書もほとんどない。オノサトならまかせてという画商もいない。
卒論に瑛九を選ぶ学生がいるのとは大きな違いです。
因みにグーグルで瑛九とオノサトを検索すると(ともにわがときの忘れものがトップあたりにきますが)、瑛九60万件に対し、オノサトは僅か2万数千件に過ぎない。
亭主は研究者ではないので、画商としての感想を今回の大川美術館の展覧会を見て思い浮かぶままに記したいと思います。
ときになまぐさく、例によってあっちに飛びこっちに飛びで支離滅裂な展開になると思いますのでどうぞお許しください。
(ここまで書いてきて、こりゃあ一回じゃあ終わりそうもないなあとイヤな予感)
瑛九もオノサト先生もその生涯の画風の変遷は激しい。しかしその市場的評価となると、瑛九への暖かな評価に比べて、オノサト先生の後期(特に1970年代以降)の作品への冷たい評価は悲しいの一言に尽きます。
桐生にある大川美術館、ワンマン館長大川さんが急死して館は存続できるのかしらと心配しましたが、何とか大丈夫のようですね。安心しました。

大川美術館カタログ
大川美術館でのオノサト展は今回が3回目(1993年、2005年、2012年)。カタログのテキストを執筆した本江邦夫さん(多摩美術大学教授)も小此木美代子さん(大川美術館学芸員)も恐らくはオノサト先生には会ってはいない。だから遺された作品と文献から論を起こしている。その点、前回2005年のカタログ(大川館長はじめ、多数の執筆者のほとんどがオノサト先生を良く知る人たちだった)と違って作家との「距離」がある、だからなのか作品のセレクションが実に思い切りがいい、痛快でした。
どう痛快だったかというと、
今回の出品総数86点のうち、オノサト先生が最も旺盛な制作を展開した1970年以降の作品が僅か11点(油彩10点、はがきの水彩1点)しか選ばれていない、暴挙と言おうか快挙と呼ぶべきか。
これを没後初めての回顧展(1989年 練馬区立美術館)と比べてみると、その差は歴然としています。
練馬では出品総数133点のうち、1970年以降の作品を45点(油彩39点、水彩・タペストリー他6点)選んでいます。満遍なく生涯を網羅している。おそらくご遺族の意向と練馬の温厚な学芸員の考え方が一致したのでしょう。

大川美術館カタログより80年代の作品

大川美術館カタログより70年代の作品

大川美術館カタログよりベタ丸時代の作品
それに比べて、今回大川の学芸員は過激で、オノサトの素晴らしさは1969年以前にありと断定したわけですね。勇断であり、その率直さに感動しました。
亭主は70年代以降の作品がだめだなどとはとても言えませんが、企画展というのはすべからく「編集」ですから、今回の大川の編集に敬意を表したいと思います。
とにかく会場は、SMクラスの小品も含む「ベタ丸」ばかり29点も展示されている。
「ベタ丸」とは、オノサト先生が自ら言った言葉で、丸を単一の色で塗る方式で描かれた1955~1959年までの作品をいいます。
1970~1986年の17年間の生涯の最も充実した時期の作品は僅か11点しか選ばず、5年間という短い期間に制作されたベタ丸作品を29点も選んだ学芸員の意図やいかに。
残念ながら、亭主が訪れた日には学芸員さんは不在、カタログの文章からはそのあたりのことは何もうかがえません。
新館長・寺田勝彦さんの「ごあいさつ」には、
<本展では初期から晩年までの作品約80点を展示いたします。オノサトが生涯を通して追求してきた絵画表現とその今日的意義を見直す機会になれば幸いです>とあるばかり。
確かに「見直す」意図はありそうです(笑)。
ヴェニスビエンナーレ出品など世界の舞台でも評価されたオノサト先生の画業に対する果敢なまでのこの切り捨て方、などと思ってテラスでビールを飲みながら出品リストを詳細に見ると、何となく別の理由も見えてきました。
亡き大川館長、前回の回顧展カタログでは「巨星」「画聖」とオノサト先生を賞賛してはいますが、正直一番好きな作家だったとは思われない。大川さんはやはり松本竣介、野田英夫なんですね。
今回は、東京国立近代美術館、群馬県立近代美術館、須玉美術館、宇都宮美術館などからメインは借りている。
注目すべきは、個人蔵の作品が43点もあることです。つまり半数。
謝辞に掲載されている多数のお名前から察するに、今回大川の学芸員さんは桐生の町中をオノサト作品を探して走り回ったらしい。
結果、皆さんが大事にしていたのが「ベタ丸」ばかり、という事情もあったのではないでしょうか。
オノサト先生が南画廊と絶縁し(後述)、フリーハンドの時代を終えて、自ら考案したシスティマティックな画法で膨大な作品を描きだした70年代以降は、オノサト先生は東京の画壇はもとより地元でもめったに外出しない「孤高の人」になってしまった。
制作はするが、発表の機会もほとんどない、というのが70年代以降のオノサト先生でした。
簡単に先生の生涯を振り返ると、
亡くなったのは1986年11月30日。享年74。
戦前の前衛活動、戦中の召集・戦後のシベリア抑留という空白の時代を経て帰国したのが1948年、36歳の再出発。
教師や養鶏業をやめ画業一本に絞ったのが1962年1月、もう50歳になっていました。
丸を自らの絵のルールとしてシステム化し、猛烈に作品を生み出したのが60年代~70、80年代でした。
久保貞次郎先生の紹介で南画廊(志水楠男さん)で個展を開催したのが1962年3月、飛ぶ鳥をおとす勢いの南画廊での個展は反響を呼び、1966年二回目の個展を開催し、文字通り「南画廊の画家」となります。
ところが1969年の4回目の個展を最後に、南画廊の志水さんと断絶してしまった。
他の画商たちは「南画廊のオノサト」に手を出すなどということは畏れ多くて出来ない、描けども発表の機会のない作家になってしまった。
亭主が毎日新聞の関連事業として現代版画センターをつくったのは1974年、そんな事情はつゆ知らず、生まれて初めて版画のエディションをし(オノサト先生、靉嘔先生他)、恩人の井上房一郎さんに言われるままのこのこ南画廊に出かけて行きました。志水さんにはとても可愛がっていただきました。世間知らずの亭主には何もおっしゃりませんでしたが、やはり面白くはなかったらしい(後日、志水さんの怒りを知ることになる)。
それはまた後で書くとして亭主が言っておきたいことがあります。
今回のカタログにも、また今までの何度かの回顧展のカタログにも一切触れられていませんが、1970年代以降のオノサト先生は世間的には「版画作家」でした。これに関しては後ほど詳述しましょう。
同時代を生き、周辺にいた私たちはよく知っている(つもりの)ことでも、多くの方には知られていないことも多い。
本江さんは今回のカタログテキストで次のように言っています。
<その圧倒的な存在感にもかかわらず、この人の芸術にかんしてはまだまだ為されるべきことが多い>
亭主も同感であります。
ちょっと疲れたので、このへんで本日はストップ。また折をみて書きます。
(大川美術館「生誕100年 オノサト・トシノブ」展を見て2、はコチラ)
画廊は「ハ・ミョンウン(河明殷)展」開催につき今日も明日も開廊しています。
オノサト先生の版画作品をご紹介しましょう。

「F-9」
1985年
シルクスクリーン
22.0x27.0cm
Ed.200 サインあり

「F-10」
1985年
シルクスクリーン
22.0x27.0cm
Ed.200 サインあり
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