「マン・レイのパリ 1972年」第2回
石原輝雄
昨日はエフェメラへの思い入れを書かせていただいた。この回は、展覧会を個人で組み立てたいと思う方の参考になる事を期待して、準備作業の詳細を報告したい。
[スイスクリップを見付ける]
展覧会の会期は年初1月、西川氏をはさんで京都写真クラブの森岡誠、奥野政司と調整して12月と決められた。毎年、同クラブが中心となって催すHow are you PHOTOGRAPHY ? 展と京都写真展の露払い(祇園祭の山鉾巡行にたとえるのは大げさか)での日程。京都写真クラブが後援してくれるのは有り難い。酒好き写真好き話好きが自由で気ままに集まる同クラブは、若い人達を巻き込んで写真の楽しみ、人生の楽しみを進めている。展覧会まで一年あるのだから、しっかり準備できると考えたのは、浅はかだった。
Invitation, 10.6 × 14cm
最初にしなければならないのは、展示什器の仕様決定。額装されたポスターのよそ行き加減や、ケースに入れられたカード類を見下ろす視線の重さが嫌で、それぞれが、流通していた状態で会場に置きたいと願う。ボードとアクリル板の間に現物を入れて留めるスイスピンが最強のアイテムなのだが、手許には必要数がない。画材店の話しでは、既に在庫はなくメーカでも製造中止、ネット検索で「スイスピン」と探しても、ある女流画家のエッセイがヒットするばかり。ポスターの展示方法を中心に公立美術館の展覧会を観ると、アクリルブロックを使った仕様が多く、直接の壁固定でも雰囲気は良く、これならいけると判断した。ところが、8月に画材店などを回ったら「そのような物はありません、特注でしょう」とつれない返事、焦りました。今回の展覧会は間違えると、図書館などが催す資料展となってしまう。パリの街路で招待状を手にした臨場感の再現には、その場にあったような演出が必要な訳で、さりげなさはアクリル板に挟んで壁面に掲げる方法でなくてはと、追い込まれた。それで気付いたのが「スイスクリップ」とする表記だった。財布代わりのお札挟みではなくてポスター挟み。ネットの画像検索で確認すると「スイスピン」も現れ、海外では、こう呼ばれていたのだと反省。さっそく、イリノイ州のブリック・アート・マテリアルに発注した。この時代はフェデックスの追跡サービスを使うと、荷物の移動情報をリアルタイムで捕捉する事が出来る。郵便時代の「ある日ポストに」と云った楽しみを失った反面。パソコン上のストリートビューに感情が入る。これでは、エフェメラの魅力を後世に伝える者がいなくなってしまう(涙)、10日ほどで届けられた。
[たったひとりの人]
報告が前後するが、会場の様子を想像しながら、カタログのテキストを書き始めたのは4月の頃。字数の設定はカタログの頁割を展示目録と英文表記、案内状を含めた郵送時のグラム数(25g以内)を勘案して行った。A4用紙の二つ折A5版6頁で日本語は2頁のおよそ1500字。フォント(小塚明朝Pro)が大きすぎても小さすぎてもいけないし、A5版に適した大きさと英語フォント(Times New Roman)とのバランスも考えた。「そんな事より、テキストの内容だよ」とお叱りを受けそうだけど、判型、用紙、読まれる場面を想定しないと、わたしは書けない。今までもそうだし、今回も同じだった。1972年の京都とパリを関連付け、当時、京都書院で買い求めたマン・レイの対談本『Bonsoir, Man Ray』の思い出と日本語版刊行に至るエピソードで始めたが、うまく纏まらず、最晩年のマン・レイの生活と、アトリエを訪ねた映像作家・吉岡康弘とを、わたし自身に重ね、マン・レイが展覧会カタログに寄せたテキスト『告知』から「大勢のために考えたり感じたりすることはできないし、一緒に何かをする場合も、たったひとりの人とがせいいっぱいなのです。」(平出和子訳)と云う部分を引き写した。彼にとっての「たったひとりの人」になる道程が、この40年間であったのではないか、未亡人のジュリエットに誘われフェルー街のアトリエを家人と共に訪ねた新婚旅行の日が思い出される。
Catalogue, 27.4 × 22cm, PP.14-15
マン・レイの展覧会は、諸外国へ発信せねばならない。彼らに理解してもらうために、テキストと詳細な展示品目録を英文で仕上げるのは、最初からのプラン(邦文の方が従の扱い)。英訳はアメリカ生まれのイギリス育ち、愛すべき人物であるデイビット・ユーニスにお願いした。彼の母国語でわたしのイメージが幾倍にも膨らむ。彼の論理的な思考回路に、視覚の感動だけを綴った、わたしの文章の拙さを知らされ、さらに、ボールドとイタリックの使い分けやダッシュ前後のスペースの意味など、英文表記の原則についての助言もいただいた。カタログに図版があると楽しいのだが、諸般の制約があり断念。しかし、表紙のレイアウトなど、わたしとしては神経を使って仕上げたつもりである。
[プリンターが悲鳴]
作業としては、この後が大変で、500冊作ろうとすると用紙1500枚、印刷3000回を家庭用プリンター(EPSON PX-A650)で出力せねばならない。インクを何度も交換し発熱を気にしながらの毎日、最後には給紙機構が故障し予備のプリンター(EPSON PX-503A)に変更する始末。ところが、紙のくわえが微妙にズレて面付けのやり直しが発生。印刷の後に折丁しスチロール板に拡げてからセンターをホッチキスで打ち、裏返してから千枚通しとドライバーを使って固定。これを1000回繰り返して完了となった。苦にはならないが時間はかかる。寡黙な職人になった気分だけど、職人はこんな風に書いたりしないか(笑)。
案内状のデザインも自分でやった。エフェメラ好きなのだから、品質を求めてしまう。『マン・レイのパリ 1972年』にピッタリのイメージ、エフェメラの物質感を表現する写真を用意しなくては(写真部に在籍したのだから、上手でなくちゃ)と、自然光で、折った状態の「ヌーベル・レビュブリック」紙を撮った。レイアウト指示、画像圧縮、スクリーンショットの添付と全てが初体験の中、奥野政司の助けを借りながら印刷通販の会社へネット出稿。こちらの必要数は2500枚。色調など出来上がるまで不安だったが、合格点は取れたのではと自画自賛。
Catalogue, 21 × 14.9cm,
Postcard, 14.8 × 10cm,
Flyer 21 × 14cm
10月の初めから、雑誌社を中心に広報。紹介してもらえれば有り難いが、こればかりは相手次第。まあ、良い結果も生まれるだろう。続いて海外の美術館、図書館、研究者、もちろん画廊と古書店を重点に郵送。国内分も11月中旬には手配を終えた。
もっとも、カタログと案内状を手にした友人、知人は共通して記載された家人の名前に眼を止めた。日本では夫婦連名のコレクションというのは認知されていないようで、本人の方が戸惑った。サラリーマンのコレクションは家族の協力がなければ成り立たない、30年の感謝の言葉なのである。
並行して展示什器の最終調整。アクリル板用の支持体強度を検討し、現物との遊びを何ミリにするか、スイスクリップの食い込み加減への配慮もしながら、アクリル板をカットしていると、ちょっとした作家気分。しかし、熱中しすぎると大切なエフェメラを痛めてしまう、注意しなければ。結局、小型のものは自作、大判は発注とした。
オープニングまで二週間と迫って、気がつくと衆院選が4日公示、16日投開票と発表されている。この展覧会の日程と見事に重なって苦笑、会場にも街宣車からの連呼が聞こえることだろう。その間をこちらに向かって歩いてくる「たったひとりの人」をわたしは待ちたい。
(いしはら てるお)
展覧会の詳細(石原さんのブログより転載)
「マン・レイのパリ 1972年」
会期:2012年12月4日(火)--16日(日)
月曜休廊
*15日(土)15:00よりギャラリートーク
12:00--19:00 日曜日18:00迄
会場:ギャラリーマロニエ 3階
京都市中京区河原町四条上ル塩屋町
電話075-221-0117
1968年の「5月革命」を基点に、40年前のパリで開催された4つの「マン・レイ展」へ誘う---カタログ、ポスター、案内状、写真、新聞などを展覧。(西川勲企画、京都写真クラブ協賛)
●カタログより
この展覧会では、「大勢のために考えたり感じたりすることはできないし、一緒に何かをする場合も、たったひとりの人とがせいいっぱいなのです。」という作者を訪ね、できれば近作を拝見し、「たったひとりの人」となるための招待を頂く手助けをしたい。その為にはアトリエに行かねばならないし、気に入られなければならない。まずはマロニエに「写真」の花が咲く12月、街を歩いてマネキンの手が玩具のボールを掴んだ「レイの手」や、マン・レイと書かれた「自然絵画」の色彩感あふれるポスターに足を止める事。1972年のパリ国立近代美術館に出品されていた292点を思い描くのは楽しいし、再見する手立てもふんだんに用意されていると思うが、過ぎ去った時間をたぐり寄せる最善の方法は、オリジナル作品ではなく、カタログと招待状とポスターといった会期の終了とともに捨てられるエフェメラ類の訴求力である。案内状は会場に向かう観客の指先を追体験させる、40年後のわたしたちも、その場に居るのである。
●出品目録
「五月革命」
雑誌 「インフォーメーションとドキメント」1972年2月号
版画 「自画像」 1972年 限定100部第99番 サイン入
書籍 「壁は語る 学生はこう考える」 竹内書店 1969年刊
写真集 「10.21とは何か」 無刊記
写真集 「'69 11.3-17 佐ト訪米阻止斗争」 無刊記
新聞 アクション 第2号 1968年5月13日
新聞 ヌーベル・レピュブリック 第7193号 1968年5月13日 新聞 ヌーベル・レピュブリック 第8305号 1972年1月8日
書籍 「革命なき革命家たち」 アンドレ・ティリオン著 1972年刊
「マン・レイ回顧展」 パリ国立近代美術館 1972年1月7日─2月28日
広報資料
ポスター 「レイの手」
ポスター 「自然絵画」
招待状
案内状 灰色版
案内状 赤色版
案内状 赤色版・見開き
カタログ
カタログ 「告知」 テキスト・マン・レイ
会場写真 撮影ルネ・コモン
新聞 展覧会通信
雑誌「ボーグ」抜き刷り
「マン・レイ版画展」 ユンヌ画廊 一1972年1月12日─
ポスター 「危険」
「ボンソワール・マン・レイ」ピエール・ブルジャッド著 ビエール・ベルフォンド 1972年刊
書籍 「ボンソワール・マン・レイ」 限定100部第81番サイン入
版画 「ボンソワール・マン・レイ」 限定100部第81番サイン入
写真 アトリエでのマン・レイとピエール・ブルジャッド
写真 アトリエでのマン・レイとピエール・ブルジャッド
版権契約書 ピエール・ベルフォンド/銀紙書房 日本語版
封筒 ピエール・ベルフォンドから石原輝雄宛て
書籍 「マン・レイとの対話」 銀紙書房・水声社 1995年刊
「マン・レイ 40レイヨグラフ展」 四運動画廊 1972年2月25日─3月25日
ポスター 「レイヨグラフ」
案内状
カタログ
「マン・レイ展」 フランシス・トリニエ画廊 1972年11月7日─12月15日
ポスター 「永遠のモチーフ」
カタログ
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ときの忘れもののコレクションからマン・レイ作品をご紹介します。

マン・レイ
《ジュリエット》
1946(Printed later)
ゼラチンシルバープリント
28.8x22.8cm
裏にスタンプあり

マン・レイ
「贈り物」
1921年/1974年 マルチプル
サイズ:H16.5×10.0×8.2cm
Ed.5000
作品証明カードにサインあり
*1921年に最初作られた作品を、1974年にマルチプルとして制作したもので、作品証明カードが付いています。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
石原輝雄
昨日はエフェメラへの思い入れを書かせていただいた。この回は、展覧会を個人で組み立てたいと思う方の参考になる事を期待して、準備作業の詳細を報告したい。
[スイスクリップを見付ける]
展覧会の会期は年初1月、西川氏をはさんで京都写真クラブの森岡誠、奥野政司と調整して12月と決められた。毎年、同クラブが中心となって催すHow are you PHOTOGRAPHY ? 展と京都写真展の露払い(祇園祭の山鉾巡行にたとえるのは大げさか)での日程。京都写真クラブが後援してくれるのは有り難い。酒好き写真好き話好きが自由で気ままに集まる同クラブは、若い人達を巻き込んで写真の楽しみ、人生の楽しみを進めている。展覧会まで一年あるのだから、しっかり準備できると考えたのは、浅はかだった。

最初にしなければならないのは、展示什器の仕様決定。額装されたポスターのよそ行き加減や、ケースに入れられたカード類を見下ろす視線の重さが嫌で、それぞれが、流通していた状態で会場に置きたいと願う。ボードとアクリル板の間に現物を入れて留めるスイスピンが最強のアイテムなのだが、手許には必要数がない。画材店の話しでは、既に在庫はなくメーカでも製造中止、ネット検索で「スイスピン」と探しても、ある女流画家のエッセイがヒットするばかり。ポスターの展示方法を中心に公立美術館の展覧会を観ると、アクリルブロックを使った仕様が多く、直接の壁固定でも雰囲気は良く、これならいけると判断した。ところが、8月に画材店などを回ったら「そのような物はありません、特注でしょう」とつれない返事、焦りました。今回の展覧会は間違えると、図書館などが催す資料展となってしまう。パリの街路で招待状を手にした臨場感の再現には、その場にあったような演出が必要な訳で、さりげなさはアクリル板に挟んで壁面に掲げる方法でなくてはと、追い込まれた。それで気付いたのが「スイスクリップ」とする表記だった。財布代わりのお札挟みではなくてポスター挟み。ネットの画像検索で確認すると「スイスピン」も現れ、海外では、こう呼ばれていたのだと反省。さっそく、イリノイ州のブリック・アート・マテリアルに発注した。この時代はフェデックスの追跡サービスを使うと、荷物の移動情報をリアルタイムで捕捉する事が出来る。郵便時代の「ある日ポストに」と云った楽しみを失った反面。パソコン上のストリートビューに感情が入る。これでは、エフェメラの魅力を後世に伝える者がいなくなってしまう(涙)、10日ほどで届けられた。
[たったひとりの人]
報告が前後するが、会場の様子を想像しながら、カタログのテキストを書き始めたのは4月の頃。字数の設定はカタログの頁割を展示目録と英文表記、案内状を含めた郵送時のグラム数(25g以内)を勘案して行った。A4用紙の二つ折A5版6頁で日本語は2頁のおよそ1500字。フォント(小塚明朝Pro)が大きすぎても小さすぎてもいけないし、A5版に適した大きさと英語フォント(Times New Roman)とのバランスも考えた。「そんな事より、テキストの内容だよ」とお叱りを受けそうだけど、判型、用紙、読まれる場面を想定しないと、わたしは書けない。今までもそうだし、今回も同じだった。1972年の京都とパリを関連付け、当時、京都書院で買い求めたマン・レイの対談本『Bonsoir, Man Ray』の思い出と日本語版刊行に至るエピソードで始めたが、うまく纏まらず、最晩年のマン・レイの生活と、アトリエを訪ねた映像作家・吉岡康弘とを、わたし自身に重ね、マン・レイが展覧会カタログに寄せたテキスト『告知』から「大勢のために考えたり感じたりすることはできないし、一緒に何かをする場合も、たったひとりの人とがせいいっぱいなのです。」(平出和子訳)と云う部分を引き写した。彼にとっての「たったひとりの人」になる道程が、この40年間であったのではないか、未亡人のジュリエットに誘われフェルー街のアトリエを家人と共に訪ねた新婚旅行の日が思い出される。

マン・レイの展覧会は、諸外国へ発信せねばならない。彼らに理解してもらうために、テキストと詳細な展示品目録を英文で仕上げるのは、最初からのプラン(邦文の方が従の扱い)。英訳はアメリカ生まれのイギリス育ち、愛すべき人物であるデイビット・ユーニスにお願いした。彼の母国語でわたしのイメージが幾倍にも膨らむ。彼の論理的な思考回路に、視覚の感動だけを綴った、わたしの文章の拙さを知らされ、さらに、ボールドとイタリックの使い分けやダッシュ前後のスペースの意味など、英文表記の原則についての助言もいただいた。カタログに図版があると楽しいのだが、諸般の制約があり断念。しかし、表紙のレイアウトなど、わたしとしては神経を使って仕上げたつもりである。
[プリンターが悲鳴]
作業としては、この後が大変で、500冊作ろうとすると用紙1500枚、印刷3000回を家庭用プリンター(EPSON PX-A650)で出力せねばならない。インクを何度も交換し発熱を気にしながらの毎日、最後には給紙機構が故障し予備のプリンター(EPSON PX-503A)に変更する始末。ところが、紙のくわえが微妙にズレて面付けのやり直しが発生。印刷の後に折丁しスチロール板に拡げてからセンターをホッチキスで打ち、裏返してから千枚通しとドライバーを使って固定。これを1000回繰り返して完了となった。苦にはならないが時間はかかる。寡黙な職人になった気分だけど、職人はこんな風に書いたりしないか(笑)。
案内状のデザインも自分でやった。エフェメラ好きなのだから、品質を求めてしまう。『マン・レイのパリ 1972年』にピッタリのイメージ、エフェメラの物質感を表現する写真を用意しなくては(写真部に在籍したのだから、上手でなくちゃ)と、自然光で、折った状態の「ヌーベル・レビュブリック」紙を撮った。レイアウト指示、画像圧縮、スクリーンショットの添付と全てが初体験の中、奥野政司の助けを借りながら印刷通販の会社へネット出稿。こちらの必要数は2500枚。色調など出来上がるまで不安だったが、合格点は取れたのではと自画自賛。

Postcard, 14.8 × 10cm,
Flyer 21 × 14cm
10月の初めから、雑誌社を中心に広報。紹介してもらえれば有り難いが、こればかりは相手次第。まあ、良い結果も生まれるだろう。続いて海外の美術館、図書館、研究者、もちろん画廊と古書店を重点に郵送。国内分も11月中旬には手配を終えた。
もっとも、カタログと案内状を手にした友人、知人は共通して記載された家人の名前に眼を止めた。日本では夫婦連名のコレクションというのは認知されていないようで、本人の方が戸惑った。サラリーマンのコレクションは家族の協力がなければ成り立たない、30年の感謝の言葉なのである。
並行して展示什器の最終調整。アクリル板用の支持体強度を検討し、現物との遊びを何ミリにするか、スイスクリップの食い込み加減への配慮もしながら、アクリル板をカットしていると、ちょっとした作家気分。しかし、熱中しすぎると大切なエフェメラを痛めてしまう、注意しなければ。結局、小型のものは自作、大判は発注とした。
オープニングまで二週間と迫って、気がつくと衆院選が4日公示、16日投開票と発表されている。この展覧会の日程と見事に重なって苦笑、会場にも街宣車からの連呼が聞こえることだろう。その間をこちらに向かって歩いてくる「たったひとりの人」をわたしは待ちたい。
(いしはら てるお)
展覧会の詳細(石原さんのブログより転載)
「マン・レイのパリ 1972年」
会期:2012年12月4日(火)--16日(日)
月曜休廊
*15日(土)15:00よりギャラリートーク
12:00--19:00 日曜日18:00迄
会場:ギャラリーマロニエ 3階
京都市中京区河原町四条上ル塩屋町
電話075-221-0117
1968年の「5月革命」を基点に、40年前のパリで開催された4つの「マン・レイ展」へ誘う---カタログ、ポスター、案内状、写真、新聞などを展覧。(西川勲企画、京都写真クラブ協賛)
●カタログより
この展覧会では、「大勢のために考えたり感じたりすることはできないし、一緒に何かをする場合も、たったひとりの人とがせいいっぱいなのです。」という作者を訪ね、できれば近作を拝見し、「たったひとりの人」となるための招待を頂く手助けをしたい。その為にはアトリエに行かねばならないし、気に入られなければならない。まずはマロニエに「写真」の花が咲く12月、街を歩いてマネキンの手が玩具のボールを掴んだ「レイの手」や、マン・レイと書かれた「自然絵画」の色彩感あふれるポスターに足を止める事。1972年のパリ国立近代美術館に出品されていた292点を思い描くのは楽しいし、再見する手立てもふんだんに用意されていると思うが、過ぎ去った時間をたぐり寄せる最善の方法は、オリジナル作品ではなく、カタログと招待状とポスターといった会期の終了とともに捨てられるエフェメラ類の訴求力である。案内状は会場に向かう観客の指先を追体験させる、40年後のわたしたちも、その場に居るのである。
●出品目録
「五月革命」
雑誌 「インフォーメーションとドキメント」1972年2月号
版画 「自画像」 1972年 限定100部第99番 サイン入
書籍 「壁は語る 学生はこう考える」 竹内書店 1969年刊
写真集 「10.21とは何か」 無刊記
写真集 「'69 11.3-17 佐ト訪米阻止斗争」 無刊記
新聞 アクション 第2号 1968年5月13日
新聞 ヌーベル・レピュブリック 第7193号 1968年5月13日 新聞 ヌーベル・レピュブリック 第8305号 1972年1月8日
書籍 「革命なき革命家たち」 アンドレ・ティリオン著 1972年刊
「マン・レイ回顧展」 パリ国立近代美術館 1972年1月7日─2月28日
広報資料
ポスター 「レイの手」
ポスター 「自然絵画」
招待状
案内状 灰色版
案内状 赤色版
案内状 赤色版・見開き
カタログ
カタログ 「告知」 テキスト・マン・レイ
会場写真 撮影ルネ・コモン
新聞 展覧会通信
雑誌「ボーグ」抜き刷り
「マン・レイ版画展」 ユンヌ画廊 一1972年1月12日─
ポスター 「危険」
「ボンソワール・マン・レイ」ピエール・ブルジャッド著 ビエール・ベルフォンド 1972年刊
書籍 「ボンソワール・マン・レイ」 限定100部第81番サイン入
版画 「ボンソワール・マン・レイ」 限定100部第81番サイン入
写真 アトリエでのマン・レイとピエール・ブルジャッド
写真 アトリエでのマン・レイとピエール・ブルジャッド
版権契約書 ピエール・ベルフォンド/銀紙書房 日本語版
封筒 ピエール・ベルフォンドから石原輝雄宛て
書籍 「マン・レイとの対話」 銀紙書房・水声社 1995年刊
「マン・レイ 40レイヨグラフ展」 四運動画廊 1972年2月25日─3月25日
ポスター 「レイヨグラフ」
案内状
カタログ
「マン・レイ展」 フランシス・トリニエ画廊 1972年11月7日─12月15日
ポスター 「永遠のモチーフ」
カタログ
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ときの忘れもののコレクションからマン・レイ作品をご紹介します。

マン・レイ
《ジュリエット》
1946(Printed later)
ゼラチンシルバープリント
28.8x22.8cm
裏にスタンプあり

マン・レイ
「贈り物」
1921年/1974年 マルチプル
サイズ:H16.5×10.0×8.2cm
Ed.5000
作品証明カードにサインあり
*1921年に最初作られた作品を、1974年にマルチプルとして制作したもので、作品証明カードが付いています。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
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