昨夜のジョナス・メカス「リトアニアへの旅の追憶」の上映会にはたくさんのお客様にご来場いただきありがとうございました。
ときの忘れものでは今までビデオ、フィルム、DVDと幾度かこの映画を上映してきましたが、今までで一番映像も鮮明で音も良かった。上映機器を用意して下さった森國次郎さん(今回のメカスさんの新刊をまとめられた。そもそもメカスさんと日本を結びつけた大功労者、詳しくは『ジョナス・メカス ノート、対話、映画』のあとがきをお読みください)には心より御礼を申し上げます。
それにしてもメカスさんの上映会に若い人たちが多いのはとてもうれしい。「不朽の名作」として次から次へと世代をこえて受け継がれていくに違いありません。
さて、百年前の今日、舟越保武先生が岩手県二戸郡一戸町小鳥谷に生まれました。
親友の松本竣介の生誕100年記念展が岩手県立美術館からスタートしていま世田谷美術館で開催されています。舟越先生の生誕100年展も大々的に開催されるはずでしたが、昨年の3.11大震災の影響で企画が潰れてしまったのはかえすがえすも残念でなりません。
亭主は現代版画センター時代の1980年代に舟越保武先生のアトリエにしばしば通い、リトグラフや銅版作品を10点ほどエディションさせていただきました。
石や金属に直接描画するのは慣れないとなかなかうまくいかないものですが、彫刻家の舟越先生はそもそも大理石を彫るのが本職でしたから「ボクは石や金属に描くのは苦にならない」とおっしゃって重い石版に素晴らしい線描で女性像を描いてくださいました。
舟越保武
「若い女 A」
1984年 リトグラフ
51.0×39.0cm
Ed.170 サインあり
舟越保武
「若い女 B」
1984年 リトグラフ
48.5×37.0cm
Ed.170 サインあり
舟越保武
「聖クララ」
1984年 リトグラフ
51.0×42.0cm
Ed.170 サインあり
上掲のリトグラフ「若い女 A」「若い女 B」「聖クララ」の3点は虎ノ門にあったホテル「虎ノ門パストラル」の客室に飾るために盛岡第一画廊の上田さんと一緒にエディションした作品で、その経緯は2011年10月31日のブログに書きましたのでお読みください。
舟越保武
「A嬢」
1982年
銅版(雁皮)
24.0×19.4cm
Ed.100 サインあり
舟越保武
「若い女の顔」
1982年
銅版
9.7×8.2cm(シートサイズ:36.7×29.8cm)
エンボスサインあり
舟越保武
「少女の顔」
1979年
ブロンズレリーフ
12.0cm(径)
美術館松欅堂開館記念作品
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
舟越先生はうるさいことは言わない方でしたが、私たちがカタログの略歴など印刷物を制作するときには、親友で36歳の若さで亡くなった松本竣介との二人展の記録を必ず載せるようにと念をおされました。竣介との出会いと交友がいかに舟越先生の人生で大切だったかうかがえます。
1987年に脳梗塞で倒れ、右半身がご不自由になったのですが、リハビリに励み左手で創作を続けられました。
お亡くなりになったのは2002年2月5日、89歳でした。
この日は奇しくも舟越先生が高村光太郎賞を受賞し世間に注目されるきっかけとなった[長崎二十六殉教者記念像]の人たちの殉教した日でした。葬儀のときご子息の桂さんが家族はその日がどういう日なのか誰も気づかず、亡くなった後に2月5日が殉教の日だったことを知り感動するとともに粛然としたというエピソードを会葬者に語ったのを思い出します。
舟越先生を献身的に支えた夫人の道子さんは、ときの忘れものの大切なお客様でもありました。
ときの忘れものの開廊記念展初日にお買い上げいただいたのは偶然ですがお二人のFさんで、そのお一人が道子さんでした。
あらためて舟越保武先生、道子さんの冥福をお祈りする次第です。
■舟越保武
1912年岩手県生まれ。39年東京美術学校卒業、新制作派協会創立に参加。独学で大理石の直彫り彫刻を始める。戦後カトリックの洗礼を受け、62年[長崎二十六殉教者記念像]で高村光太郎賞受賞。67年東京芸術大学教授。大理石やブロンズによる具象彫刻で中原悌二郎賞、芸術選奨文部大臣賞受賞。87年脳硬塞で倒れ、車椅子による不自由な体をおして左手だけで制作を再開した。99年文化功労者。2002年永逝(享年89)。
80年前後に集中して制作されたリトグラフ、銅版画は香気溢れる傑作です。生前の舟越先生がご自分の略歴に必ず入れる項目がありました=1941年盛岡・川徳画廊にて松本竣介と二人展開催。盛岡中学で同級だった竣介とは終生の友情を結びました。今その二人の常設展示室が岩手県立美術館にあり、これを見るだけでも新幹線に乗る価値があります。桂、直木の二人の子息も彫刻家として活躍しています。
ときの忘れものでは今までビデオ、フィルム、DVDと幾度かこの映画を上映してきましたが、今までで一番映像も鮮明で音も良かった。上映機器を用意して下さった森國次郎さん(今回のメカスさんの新刊をまとめられた。そもそもメカスさんと日本を結びつけた大功労者、詳しくは『ジョナス・メカス ノート、対話、映画』のあとがきをお読みください)には心より御礼を申し上げます。
それにしてもメカスさんの上映会に若い人たちが多いのはとてもうれしい。「不朽の名作」として次から次へと世代をこえて受け継がれていくに違いありません。
さて、百年前の今日、舟越保武先生が岩手県二戸郡一戸町小鳥谷に生まれました。
親友の松本竣介の生誕100年記念展が岩手県立美術館からスタートしていま世田谷美術館で開催されています。舟越先生の生誕100年展も大々的に開催されるはずでしたが、昨年の3.11大震災の影響で企画が潰れてしまったのはかえすがえすも残念でなりません。
亭主は現代版画センター時代の1980年代に舟越保武先生のアトリエにしばしば通い、リトグラフや銅版作品を10点ほどエディションさせていただきました。
石や金属に直接描画するのは慣れないとなかなかうまくいかないものですが、彫刻家の舟越先生はそもそも大理石を彫るのが本職でしたから「ボクは石や金属に描くのは苦にならない」とおっしゃって重い石版に素晴らしい線描で女性像を描いてくださいました。

「若い女 A」
1984年 リトグラフ
51.0×39.0cm
Ed.170 サインあり

「若い女 B」
1984年 リトグラフ
48.5×37.0cm
Ed.170 サインあり

「聖クララ」
1984年 リトグラフ
51.0×42.0cm
Ed.170 サインあり
上掲のリトグラフ「若い女 A」「若い女 B」「聖クララ」の3点は虎ノ門にあったホテル「虎ノ門パストラル」の客室に飾るために盛岡第一画廊の上田さんと一緒にエディションした作品で、その経緯は2011年10月31日のブログに書きましたのでお読みください。

「A嬢」
1982年
銅版(雁皮)
24.0×19.4cm
Ed.100 サインあり

「若い女の顔」
1982年
銅版
9.7×8.2cm(シートサイズ:36.7×29.8cm)
エンボスサインあり

「少女の顔」
1979年
ブロンズレリーフ
12.0cm(径)
美術館松欅堂開館記念作品
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
舟越先生はうるさいことは言わない方でしたが、私たちがカタログの略歴など印刷物を制作するときには、親友で36歳の若さで亡くなった松本竣介との二人展の記録を必ず載せるようにと念をおされました。竣介との出会いと交友がいかに舟越先生の人生で大切だったかうかがえます。
1987年に脳梗塞で倒れ、右半身がご不自由になったのですが、リハビリに励み左手で創作を続けられました。
お亡くなりになったのは2002年2月5日、89歳でした。
この日は奇しくも舟越先生が高村光太郎賞を受賞し世間に注目されるきっかけとなった[長崎二十六殉教者記念像]の人たちの殉教した日でした。葬儀のときご子息の桂さんが家族はその日がどういう日なのか誰も気づかず、亡くなった後に2月5日が殉教の日だったことを知り感動するとともに粛然としたというエピソードを会葬者に語ったのを思い出します。
舟越先生を献身的に支えた夫人の道子さんは、ときの忘れものの大切なお客様でもありました。
ときの忘れものの開廊記念展初日にお買い上げいただいたのは偶然ですがお二人のFさんで、そのお一人が道子さんでした。
あらためて舟越保武先生、道子さんの冥福をお祈りする次第です。
■舟越保武
1912年岩手県生まれ。39年東京美術学校卒業、新制作派協会創立に参加。独学で大理石の直彫り彫刻を始める。戦後カトリックの洗礼を受け、62年[長崎二十六殉教者記念像]で高村光太郎賞受賞。67年東京芸術大学教授。大理石やブロンズによる具象彫刻で中原悌二郎賞、芸術選奨文部大臣賞受賞。87年脳硬塞で倒れ、車椅子による不自由な体をおして左手だけで制作を再開した。99年文化功労者。2002年永逝(享年89)。
80年前後に集中して制作されたリトグラフ、銅版画は香気溢れる傑作です。生前の舟越先生がご自分の略歴に必ず入れる項目がありました=1941年盛岡・川徳画廊にて松本竣介と二人展開催。盛岡中学で同級だった竣介とは終生の友情を結びました。今その二人の常設展示室が岩手県立美術館にあり、これを見るだけでも新幹線に乗る価値があります。桂、直木の二人の子息も彫刻家として活躍しています。
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