生きているTATEMONO 松本竣介を読む 7
≪Y市の橋≫
植田実
松本竣介の描いた建物あるいは土木構築物のなかで、とくに謎めいているのは≪Y市の橋≫シリーズである。今回展図録には、戦後のものを除くと、油彩3点(1942-44)、素描5点(1942-44)、スケッチ帖のなかに1点。場所は「横浜駅近くを流れる新田間川に架かる月見橋である。橋の向こうに描かれているのは跨線橋と架線柱」(図録解説より)。
跨線橋と架線柱とあるからにはその下に線路があり、当然列車が通るのだろうがその気配はない。そして肝心の「鉄骨が複雑に入り組むこの景色」(同解説)の状態がよく分からないのである。手前に跨線橋に昇る階段が見える。だが橋を渡り切った先で降りる階段は省略されているとも架構鉄骨の右端の1本に抽象化されているとも思える。階段の脚元から斜めに大きく飛んで橋を支えている鉄骨も不思議だ。その下を列車が通るわけだから、かなり高い位置にあるとしてもいささか強引に見える。だいいち、油彩の作品では跨線橋全体が右側の架線柱の手前にあるように絵具が重ねられている。ならば架線柱は跨線橋の左手奥にあるはずだ。そうすると架線柱がどのように線路の上に立っているのか、また分からなくなってくる。
鉄道ファンならすぐ分かることなのかもしれないが、そして鉄骨の表現もどちらかといえば太い木組みみたいだし、跨線橋の通路上に連続してトンネル状に並ぶ補助架線柱らしきものはやはり鉄骨なのだろうが極端に細い。通路そのものも先に向かうほど微妙に高くなるのもこちらから見ている眼の高さを揺がすかのようだ。なによりもスケール感がとらえがたい。階段や人影も基準にならない。小さくも大きくも見える。
画面の右側にある建物もその大きさを作品ごとに思い切り変える試みがされていて、画家独自の調整は歴然としているが、それに対して跨線橋と架構柱の構成は意外なほど一貫して変わらない。それほどの「発見」だったのか。風景のたんなる抽象化を超えて、抽象化した線の自律的建築化に至った。たとえばエッシャーのだまし絵に通じるような、計算されつくした錯綜構成によって現実とは別の空間の秩序を見せようとした。とも考えられるのである。
1945年5月の横浜大空襲によって駅周辺は破壊されたという。それを描いた油彩≪Y市の橋≫(1946)とインクによる素描3点(1945頃)は写実に近いと思えるような筆致だが、右手の建物の煙突は細かったり太かったり、また何よりも跨線橋や架線柱の残骸の様子が4作品ともずいぶん違うのはどうしてなのか。日を置いて現場を訪ね、そのつど描かれたとすれば、瓦礫が片づけられていく過程の記録ともいえるだろうが、そこまで写実を前提とする気持ちにはなれない。いや、写実的ではあっても崩れた鉄骨のどこかヒロイックな表情に、ピラネージ的眼差しを感じてしまうというか。素描≪ジープのあるY市の橋≫に描かれた月見橋のわきに駐車しているジープの不意打ち的大きさは、空襲前に描かれた橋の右手の建物がさまざまに大きさを変えて現れていたのよりはるかに、画家の本来の意図を語っているようにもみえる。戦後の4点の絵は現実に破壊された光景である以上に、空襲前の≪Y市の橋≫の絵そのものを画家自身の手で破壊した表れともいえるのではないか。いいかえれば心象的な破壊の光景を通して、竣介の「抽象化した線の建築化」が、逆に立体的に復元されてくる気持ちに私はなった。
松本竣介
≪Y市の橋≫
1943年
油彩・画布
61.0x73.0cm
東京国立近代美術館
松本竣介
≪Y市の橋≫
1942年
油彩・画布
37.8x45.6cm
岩手県立美術館
松本竣介
≪Y市の橋≫
1944年
鉛筆・墨・木炭・紙
37.8x45.5cm
個人蔵
松本竣介
1946年
油彩・画布
41.0x53.0cm
京都国立近代美術館
松本竣介
≪焼跡の橋≫
1945年頃
インク・墨・紙
27.3x39.5cm
個人蔵
松本竣介
≪ジープのあるY市の橋≫
1945年
インク・紙
23.0x32.0cm
大川美術館
今週の日曜日に横浜に行った。月見橋周辺の現状を見るためである。この12月14日から来年1月19日まで前・後期にわたり、ときの忘れもので行われる「松本竣介展」に際して、彼の素描についての小文を書かされたのだが、そこでニコライ堂の前面に新宿駅のガードをコラージュするという画家独自の手法について少し触れた。これは洲之内徹による実地検証に依拠していることが知られている。ところが私はその報告そのものを読んでいなかった。それが気になっていて校了直前に、綿貫さんにお願いして洲之内徹『気まぐれ美術館』に収められている「松本竣介の風景(一)~(四)」のコピーを急遽送ってもらったのである。その面白さ重要さについてはまたいつか書きたいが、洲之内は横浜にも出かけて行って≪Y市の橋≫を描いた画家の立つ地点から月見橋方向の写真を撮っている。これで様子が分かってきた。そのときからだいぶ年月が経った現在を、私も同じところから眺めてみたかったのである。
東横線横浜駅の改札口を出て、新しいが閑散とした地下道を歩いた。地上に出ればなんとか見つかるだろうと思っていたが、階段を昇り切ったところが月見橋だった。跨線橋「内海川跨線人道橋」の真下に当たる地下を歩いてきたわけで、この地下道開設によって鉄骨の橋は解体される予定になっている。「JR東海道線など4路線を一直線に跨ぐ全長約65メートルの、鋼材を三角形に組み合わせてつくったトラス橋」(YOMIURI ONLINE 2012年4月28日「人気の跨線橋解体へ 鉄道ファン惜しむ声」の情報から要約)は予想をはるかにこえた迫力だった。いまは通行止めになり脚元は仮囲いの壁で囲われているので外から見上げるしかないが、長い空中通路の上部にはさらにさまざまな形の架構(これらが架線の役を果しているようだ)が並んで楽符のように楽しい。松本竣介に描かれた場所という来歴を知らなくても、また鉄道ファンでなくても、ぜひ残したいスグレ建築遺産である。
竣介の描いた橋は空襲で完全に破壊され、戦後にまったく新たに建造されたのか。詳細は知らない。上の情報では「横浜市都市交通課によると1930年に建てられた」とある。とすれば多少でも元の形が残されて、修復あるいは増築されたのか。絵に描かれているのはずっと小振りに見える。だがこの場所にとくに興味をもった画家の炯眼は確かだと思った。現在ここには地下道、階段、エスカレーター、エレベーター、さらに頭上には高架の道路がでたらめに集結・交叉して、普通の道や地面や水路という、場所のまともな感覚はどこかに素っ飛んでしまっている。そのなかで唯一、場所の特性を素直に明快に見せているのが今は使われていない、長大で竜のようにも思える跨線橋であり、辛うじて人の渡る形をとどめている「Y市の橋」月見橋である。1942-44年当時、竣介がここに立ったとき、すでに70年後の現在に露呈される徴候を感じとっていたのか。
感じとっていたと思う。だからこそ彼は、建物と人間との親和力が現実に結びつく跨線橋と架線柱を核として、それにいくつかの建物、道、水路をさまざまに調整し、未来への証言としてのいわば内なる環境デザインを本気で工夫した。本気で迷いながら。そこに空襲による破壊があの時代にあまねく突発した。ジープが急に目の前に来た。ここで現実の風景と画家のイメージとの関係が剥き出しになった。松本竣介はその差異までをも正確に描いたのではなかったか。
(2012.12.7 うえだまこと)



(撮影:植田実)
◆植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、毎月数回、更新は随時行います。
同じく植田実さんの新連載「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は毎月15日の更新です。
「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
◆ときの忘れものは、12月14日から新春1月にかけて素描作品30点による「松本竣介展」を開催します。

前期:2012年12月14日[金]―12月29日[土]
※会期中無休
後期:2013年1月9日[水]―1月19日[土]
※会期中無休
●『松本竣介展』図録
価格:800円
執筆:植田実、16頁、図版30点、略歴
*お申し込みはコチラから。
≪Y市の橋≫
植田実
松本竣介の描いた建物あるいは土木構築物のなかで、とくに謎めいているのは≪Y市の橋≫シリーズである。今回展図録には、戦後のものを除くと、油彩3点(1942-44)、素描5点(1942-44)、スケッチ帖のなかに1点。場所は「横浜駅近くを流れる新田間川に架かる月見橋である。橋の向こうに描かれているのは跨線橋と架線柱」(図録解説より)。
跨線橋と架線柱とあるからにはその下に線路があり、当然列車が通るのだろうがその気配はない。そして肝心の「鉄骨が複雑に入り組むこの景色」(同解説)の状態がよく分からないのである。手前に跨線橋に昇る階段が見える。だが橋を渡り切った先で降りる階段は省略されているとも架構鉄骨の右端の1本に抽象化されているとも思える。階段の脚元から斜めに大きく飛んで橋を支えている鉄骨も不思議だ。その下を列車が通るわけだから、かなり高い位置にあるとしてもいささか強引に見える。だいいち、油彩の作品では跨線橋全体が右側の架線柱の手前にあるように絵具が重ねられている。ならば架線柱は跨線橋の左手奥にあるはずだ。そうすると架線柱がどのように線路の上に立っているのか、また分からなくなってくる。
鉄道ファンならすぐ分かることなのかもしれないが、そして鉄骨の表現もどちらかといえば太い木組みみたいだし、跨線橋の通路上に連続してトンネル状に並ぶ補助架線柱らしきものはやはり鉄骨なのだろうが極端に細い。通路そのものも先に向かうほど微妙に高くなるのもこちらから見ている眼の高さを揺がすかのようだ。なによりもスケール感がとらえがたい。階段や人影も基準にならない。小さくも大きくも見える。
画面の右側にある建物もその大きさを作品ごとに思い切り変える試みがされていて、画家独自の調整は歴然としているが、それに対して跨線橋と架構柱の構成は意外なほど一貫して変わらない。それほどの「発見」だったのか。風景のたんなる抽象化を超えて、抽象化した線の自律的建築化に至った。たとえばエッシャーのだまし絵に通じるような、計算されつくした錯綜構成によって現実とは別の空間の秩序を見せようとした。とも考えられるのである。
1945年5月の横浜大空襲によって駅周辺は破壊されたという。それを描いた油彩≪Y市の橋≫(1946)とインクによる素描3点(1945頃)は写実に近いと思えるような筆致だが、右手の建物の煙突は細かったり太かったり、また何よりも跨線橋や架線柱の残骸の様子が4作品ともずいぶん違うのはどうしてなのか。日を置いて現場を訪ね、そのつど描かれたとすれば、瓦礫が片づけられていく過程の記録ともいえるだろうが、そこまで写実を前提とする気持ちにはなれない。いや、写実的ではあっても崩れた鉄骨のどこかヒロイックな表情に、ピラネージ的眼差しを感じてしまうというか。素描≪ジープのあるY市の橋≫に描かれた月見橋のわきに駐車しているジープの不意打ち的大きさは、空襲前に描かれた橋の右手の建物がさまざまに大きさを変えて現れていたのよりはるかに、画家の本来の意図を語っているようにもみえる。戦後の4点の絵は現実に破壊された光景である以上に、空襲前の≪Y市の橋≫の絵そのものを画家自身の手で破壊した表れともいえるのではないか。いいかえれば心象的な破壊の光景を通して、竣介の「抽象化した線の建築化」が、逆に立体的に復元されてくる気持ちに私はなった。

≪Y市の橋≫
1943年
油彩・画布
61.0x73.0cm
東京国立近代美術館

≪Y市の橋≫
1942年
油彩・画布
37.8x45.6cm
岩手県立美術館

≪Y市の橋≫
1944年
鉛筆・墨・木炭・紙
37.8x45.5cm
個人蔵

1946年
油彩・画布
41.0x53.0cm
京都国立近代美術館

≪焼跡の橋≫
1945年頃
インク・墨・紙
27.3x39.5cm
個人蔵

≪ジープのあるY市の橋≫
1945年
インク・紙
23.0x32.0cm
大川美術館
今週の日曜日に横浜に行った。月見橋周辺の現状を見るためである。この12月14日から来年1月19日まで前・後期にわたり、ときの忘れもので行われる「松本竣介展」に際して、彼の素描についての小文を書かされたのだが、そこでニコライ堂の前面に新宿駅のガードをコラージュするという画家独自の手法について少し触れた。これは洲之内徹による実地検証に依拠していることが知られている。ところが私はその報告そのものを読んでいなかった。それが気になっていて校了直前に、綿貫さんにお願いして洲之内徹『気まぐれ美術館』に収められている「松本竣介の風景(一)~(四)」のコピーを急遽送ってもらったのである。その面白さ重要さについてはまたいつか書きたいが、洲之内は横浜にも出かけて行って≪Y市の橋≫を描いた画家の立つ地点から月見橋方向の写真を撮っている。これで様子が分かってきた。そのときからだいぶ年月が経った現在を、私も同じところから眺めてみたかったのである。
東横線横浜駅の改札口を出て、新しいが閑散とした地下道を歩いた。地上に出ればなんとか見つかるだろうと思っていたが、階段を昇り切ったところが月見橋だった。跨線橋「内海川跨線人道橋」の真下に当たる地下を歩いてきたわけで、この地下道開設によって鉄骨の橋は解体される予定になっている。「JR東海道線など4路線を一直線に跨ぐ全長約65メートルの、鋼材を三角形に組み合わせてつくったトラス橋」(YOMIURI ONLINE 2012年4月28日「人気の跨線橋解体へ 鉄道ファン惜しむ声」の情報から要約)は予想をはるかにこえた迫力だった。いまは通行止めになり脚元は仮囲いの壁で囲われているので外から見上げるしかないが、長い空中通路の上部にはさらにさまざまな形の架構(これらが架線の役を果しているようだ)が並んで楽符のように楽しい。松本竣介に描かれた場所という来歴を知らなくても、また鉄道ファンでなくても、ぜひ残したいスグレ建築遺産である。
竣介の描いた橋は空襲で完全に破壊され、戦後にまったく新たに建造されたのか。詳細は知らない。上の情報では「横浜市都市交通課によると1930年に建てられた」とある。とすれば多少でも元の形が残されて、修復あるいは増築されたのか。絵に描かれているのはずっと小振りに見える。だがこの場所にとくに興味をもった画家の炯眼は確かだと思った。現在ここには地下道、階段、エスカレーター、エレベーター、さらに頭上には高架の道路がでたらめに集結・交叉して、普通の道や地面や水路という、場所のまともな感覚はどこかに素っ飛んでしまっている。そのなかで唯一、場所の特性を素直に明快に見せているのが今は使われていない、長大で竜のようにも思える跨線橋であり、辛うじて人の渡る形をとどめている「Y市の橋」月見橋である。1942-44年当時、竣介がここに立ったとき、すでに70年後の現在に露呈される徴候を感じとっていたのか。
感じとっていたと思う。だからこそ彼は、建物と人間との親和力が現実に結びつく跨線橋と架線柱を核として、それにいくつかの建物、道、水路をさまざまに調整し、未来への証言としてのいわば内なる環境デザインを本気で工夫した。本気で迷いながら。そこに空襲による破壊があの時代にあまねく突発した。ジープが急に目の前に来た。ここで現実の風景と画家のイメージとの関係が剥き出しになった。松本竣介はその差異までをも正確に描いたのではなかったか。
(2012.12.7 うえだまこと)



(撮影:植田実)
◆植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、毎月数回、更新は随時行います。
同じく植田実さんの新連載「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は毎月15日の更新です。
「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
◆ときの忘れものは、12月14日から新春1月にかけて素描作品30点による「松本竣介展」を開催します。

前期:2012年12月14日[金]―12月29日[土]
※会期中無休
後期:2013年1月9日[水]―1月19日[土]
※会期中無休
●『松本竣介展』図録
価格:800円
執筆:植田実、16頁、図版30点、略歴
*お申し込みはコチラから。
コメント