荒井由泰「マイコレクション物語」第11回(最終回)

コレクションの公開&コレクションとは何かについて(まとめ)
荒井由泰


コレクションの公開
福井市の北の庄通りにE&Cギャラリーがある。2009年に福井大学の美術科の先生・学生が運営するNPO法人の画廊としてオープンした。EはEdge(周縁)、CはCenter(中心)を意味しており、文化の受信地であり、発信地でありたいという気持ちが込められている。最初の展覧会が福井県にアトリエを持つ宇佐美圭司展でファインアートの発信地を目指す意気込みを感じ取っていただけると思う。E&Cギャラリーのホームページをのぞいていただくと分かるが、4年間にわたり、積極的に企画展を開催している。また、ポスターや案内状・ちらしのデザインも学生達が担当し、作品展示についても先生の指導のもと、すべてやってくれるので出展する方としては本当にありがたい。このギャラリーで、先生方の依頼もあり、3度ばかり私のコレクション展を開催させていただいた。コレクションを公にするのは初めての経験で、最初は戸惑いを感じたものの、結果的にはすばらしい経験となった。「駒井哲郎版画展」(2009)、「駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達」(2011)、「人物博覧会」(2012)がそれらであり、A氏コレクションよりという形で展示させてもらった。「駒井哲郎版画展」では駒井作品を30点ほど展示し、ときの忘れものの綿貫氏にギャラリートークをお願いした。「駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達」展では前回出品のなかった駒井作品に加え、長谷川潔恩地孝四郎ルドン、ブレスダン、メリヨンの作品を展示した。「人物博覧会」では私のコレクションから人物表現の作品を集め展示した。ルドンの「光の横顔」ほか、駒井哲郎、舟越桂池田満寿夫、藤森静雄、谷中安規等の作品が並んだ。この展覧会では各人好きな作品を3点投票してもらったが、ベスト3にはルドン、藤森、モーリッツ作品が選ばれた。投票結果を見て、好みにはバラツキがあることを改めて実感した。これらの展覧会ではE&Cギャラリーの湊先生と一緒にギャラリートークもさせてもらった。コレクションの苦労話や作家・作品にまつわる物語など、みなさん熱心に聞いてくれたのは楽しい思い出となった。
2009 駒井哲郎版画展600「駒井哲郎版画展」
2009

駒井哲郎版画展1「駒井哲郎版画展」
ギャラリートーク

駒井哲郎版画展2「駒井哲郎版画展」
ギャラリートーク

駒井哲郎版画展3「駒井哲郎版画展」
ギャラリートーク

2011 駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達600「駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達」
2011

600「駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達」
ギャラリートーク

600「駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達」
ギャラリートーク

600「駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達」
ギャラリートーク

2012 人物博覧会Ⅰ600「人物博覧会Ⅰ」
2012
 
人物博覧会Ⅰ_01「人物博覧会I」
ギャラリートーク

人物博覧会Ⅰ_02「人物博覧会I」
ギャラリートーク

人物博覧会Ⅰ_03「人物博覧会I」
ギャラリートーク

600「人物博覧会I」

コレクションを公開して感じたことを記してみる。①ギャラリーで自分のコレクションを並べてみると違って見える。(家ではスペースが限られているし、より客観的にコレクションをみることができる。)②作品を通して多くの方とコミュニケーションができる。(特に学生さんとのコミュニケーションが楽しい。)③公開されることで自分のコレクションに対して自信が深まるとともに責任も感じることにもなった。
ちょっと大げさに言えば、コレクションはあくまで「預かりもの」であり、文化財を次の世代に伝える義務と責任があることを強く感ずるとともに、コレクションという行為についても考えたり、述べたりする絶好の機会にもなった。展覧会のトークの時にも話をしたが、コレクションというとお金があって、楽な遊びと見えることが多いなか、身銭を切っての真剣勝負であり、自分なりの美を追求する「自己表現」のひとつの形であることを自分なりに発信させてもらった。

コレクションをするとは
先日、芥川喜好著の「時の余白」(みすず書房)を読んでいたら、コレクションに関する話で芥川氏は昭和の民芸運動を主導した柳宗悦の「集める者は、物の中に<他の自分>を見いだしているのである。集まる品はそれぞれに自分の兄弟なのである。血縁の者がここで邂逅するのである」の言葉を引用して、「“自分のいい兄弟たち”を集め、それによって自分自身を語ろうとする―その辺がコレクションの要諦でしょう。」と締めている。いままでは自分と共感できる自分の分身を集めることで、コレクションされた作品を並べて、「これらすべてが自分です」と言う、まさにコレクションは自己表現のひとつの形ですと言ってきたが、「いい兄弟たち」と思うのも悪くないと感じた。しかし、真剣勝負で見いだす行為であることは強調したいが・・・・

コレクションの充実のために
次にコレクション充実の極意というか、姿勢について少し述べてみたい。実際、私の経験から言うとコレクションはまずは心を打つ美しい作品と出会い、そして是非とも欲しい、手に入れたいと強く思うことからはじまる。私の場合は予算的な枠があり、50万、100万円となると気持ちよくあきらめられるが、分割払いでなんとかなる20~30万円までのいい作品に出会うと心が動く。現在は不況のせいか、かつては100万円以上した作品が、そんな値段で手に入ることがあるから、幸せな出会いを思い・待ち続けながら画廊等に足を運ぶことが重要だ。その強い思いによって、アーティストや作品との出会いが偶然に、突然に、タイミング良くやってくる。それはまさに必然というほかない。それがコレクションの醍醐味でもあろう。なお、出会った作品のコンディション(保存状態)についての考え方だが、基本的にはコンディションを重視したい。特に新しい作品については必要条件と思っている。しかし、4,50年以上前の作品となれば、ある程度は妥協するが、作品の持っている印象を重視して、Yes or No を決めている。古い作品では裏がベニヤヤケでひどいものやマージン部分を勝手にカットしたものを見ると心が痛む。また、日焼けやスポット的なかび汚れを補修してあるものも見かけるが、オリジナルの色・印象をどこまで残っているかで判断するほかない。額装して飾っておけば必ず日焼けがおこるので、こまめに変えることが大切だ。前にも述べたが版画は手に持ってフレッシュな印象を楽しむのが一番だ。

コレクションの今後
コレクターにとっては最終的に自分のコレクションをどうするのか(どうなるのか)?という大きな課題を抱えている。コレクションした作品にはそれぞれ物語があり、どんな形で次の世代につなぐにしても、コレクターの感動や思いを正確に引き継ぐことは不可能であり、コレクター一人でしか完結しえないもののように思う。元気なうちに、作品を整理して、ムンクなどの好きな作品、数点にしぼりこむことも考えてみたが、やっぱり、多くの兄弟達と一緒の方がいいし、好きな作家・作品との出会いを楽しんだ方がベターであると現在は思っている。コレクションは家族にとっては財産的な価値がクローズアップされるが、コレクター本人にとってはプロセス・物語の集大成であり、まったく違った価値観のうえに成り立っている。しかし、最近はある時点では自分のコレクションの行方をすべて他人にゆだねるより、自分が元気なうちある程度の整理をすることは必要でないかと感じるようになった。と言っても、ある時点がいつなのか、どのように整理するのか、などなど難しい決断が待っており、ついつい先送りになる。コレクションに対する情熱が失せた時なのか、ある程度の年齢になった時なのか、この課題は消えることがない。

ところで私自身、偶然あるいは必然として、版画に出会い、そのおかげで人生が豊かになったことに心から感謝をしている。版画に限らず、自分が夢中になれて、かつより深く入り込める分野を持つことは、様々な出会いや好奇心の広がりにつながり、必ずや人生を豊かにすると感じている。そんなことで皆さんには「コレクションそれも版画のコレクションをお薦めしたい。」

全11回にわたり勢いにまかせてエッセイを綴ってきたが、「マイコレクション物語」をそろそろ終わりとしたい。私は現在64歳、私のコレクション物語はもう少し続くことになるとは思うがどんな形の結末になるのか、興味があるが、私自身にも分からない。

長い期間にわたり拝読いただいた皆様に感謝申し上げたい。少しはお役にたったのかなあ。とにかく、ありがとうございました。また、このような機会を与えてくれたときの忘れものの綿貫夫妻にも厚くお礼を申し上げて、筆をおく。
(あらいよしやす)