今年は版画家・萩原英雄先生の生誕100年にあたります。
萩原先生は1913(大正二)年2月22日に山梨県甲府に生まれました。

山梨県立美術館では、2013年10月26日(土)~12月8日(日)の会期で「生誕100年 萩原英雄展」が予定されています。

版画家としての萩原先生は有名ですが、戦前は編集者として活躍し、そもそも版画を手がけたのが40歳過ぎてから、それも年賀状制作がきっかけだったという遅咲きだったことを知る人は少ないでしょう。

少年時代を朝鮮半島で過ごした萩原先生は、中学三年の春上京、耳野卯三郎に師事。文化学院美術部を経て東美校油絵科を1938(昭和一三)年に卒業。同年、羽藤馬佐夫らと朔日会を結成(第三回展まで出品)。
翌年高見澤木版社に入社します。浮世絵関係では有名なところですが、吉田暎二や小野忠重らが編集者として働いており、刷り師として平井孝一が在籍していました(後に恩地孝四郎の後刷りを担当)。
この高見澤木版社で浮世絵をはじめ木版全般を学びますが、当時資生堂ギャラリーで度々開催された「高見澤版木版芸術展」の企画担当者が萩原先生でした。

萩原先生が初めて木版画を手がけたのは、結核の療養中、年賀状を作ったのが始まりでした。
その後、様々な技法の探求を行い、浮世絵版画からヒントを得て、裏にも摺りを行う「両面摺り」という独自の技法を編み出し、従来の木版画の域を超えた、重厚で奥深い表現を獲得しました。
DSCF3007萩原英雄「星と花」600
萩原英雄 Hideo HAGIWARA
「星と花」
1984年
木版
67.0x47.5cm
Ed.150 サインあり

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上掲の作品は亭主が1984年に手がけたエディションですが、このとき瀬木慎一先生に書いていただいた作家論が萩原先生の版画家としての登場がいかに鮮やかだったかを伝えてくれます。
一部を再録します。
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◎萩原英雄小論
「質」への冒険  瀬木慎一


 萩原英雄が木版画を手掛けたのは、一九五三年一二月、四〇歳のときである。なぜ、一二月かと言えば、年賀状を作るためだった。
 画家ならば、木版画で年賀状を作ることはそれほど難しくなく、多くの人が現にやっていることでもある。
 そのとき、萩原がなにか特別の考えを以って、木版画の年賀状を作ったということはなかっただろう。
 その当時、かれは、結核のために療養所で病臥していたが、そこでのリハビリテーションの一環として版画を制作しており、その技術を用いたということだった。
 だが、それを機会に、かれは、従来の油彩画家から一挙に転身することになる。

(中略)

第一回東京版画ビエンナーレが開催されたのは、(略)一九五七年であった。
 萩原の木版画への転身は、戦後における版画運動がようやく啓蒙期を終えて創造期へと推移していたその時点に当っていた。
 とはいえ推移は一挙になされたわけではなかった。版画に対する人々の認識は、いまだに稀薄だった。有楽町・そごう百貨店の狭小な会場で作品をぎゅう詰めにして開催された右の第一回版画ビエンナーレは、全くの不入りであり、あまりの成績不良によって継続を放棄した読売新聞社から、主催者が東京国立近代美術館へと変更になり、その第二回展が開催されたのは、ビエンナーレ制に反するその三年後の一九六〇年だった。

 第一回展にはなんの作品も並んでいなかった萩原のこの三年間の自己発展は瞠目すべきものがあった。かれは、いよいよ、木版画に没頭し、少なからぬ成果をあげて、早くも、海外で作品を発表する径路をも見出しているのは、年譜に見られるとおりである。
 一九六〇年の第二回展に初めて三点の作品を出品したが俄然、賞の対象となり、神奈川県立近代美術館賞を与えられたことは、特記すべきことだった。それは、文部大臣賞が無名の池田満寿夫に、国立近代美術館賞がパリで活躍していて、日本では無名に等しかった菅井汲に与えられたことと並んで特記すべきことだった。このとき、年令は四十七を数えたとはいえ、萩原は、版画家としては、文字どおり、四十の手習いであり、手掛けてから、せいぜい七年足らずの新人であり、池田満寿夫となんら変わるところがなかった。萩原英雄の名前を人々が気に留めるようになったのは、それ以来である。そして、それ以来のこの版画家のめざましい成熟ぶりについては、多くの人々が鮮やかに記憶しているところだろう。

 晩年の自習家であった萩原英雄の版画家としての異例の成熟は、なにによって可能であったのだろうか。

(中略)

 第一は、版木の木目に対する反逆であり、さまざまな板を思うままの形に切り、割り、それらを自由自在に組み合わせて、一定の木目に規制される伝統的な木版術を改編したことである。
 といって木目をけっして無視するのではなく、木目の効果を、様々の方向から何度も刷り重ねることでいっそう高めたのであり、さらにそれに裏刷りを加えることで、「質」を重厚で奥深いものにすることに成功した。ここにおいて、萩原はもっとも版画的な版画家となった。
 「質」に対するかれの旺盛な探求は、その先において、紙版の併用、脱色の活用によって進展し、究極において、木版の凹版化へと行きつく。
 本来、凸版である木版の逆用は、多くの点で不便を生むことは不可避であったが、その積極的な利用と、凸版の同時的並行という画期的な手法の駆使によって、萩原の「質」への飽くなき探求は一つの頂点に到達したと言えるだろう。
 ここまであらゆる技術的冒険を徹底的に行った木版画家は、ある意味で、前衛の季節といえたこの時期にも極めて少数であった。そしてその結果得られた「質」の深さにおいては、断然、他を圧するものがあった。
(後略)

MODERN PRINTS '85ー現代版画四十年展 INDEX』より、19~21頁
(1984年 現代版画センター)
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