アベノミクスとやらがよくわからない。
単細胞の亭主には、自国の通貨の価値を落とす(円安)と景気がよくなるという関係がわからない。
そりゃ輸出企業はいいでしょうけれど、資源小国の日本は輸入企業も多いはず。
ガソリンだって値上がりして家庭を直撃しているではないか。
所詮コムズカシイ理論は亭主にはわからんと匙を投げたのですが、あにはからんや早くもアベノミクスの恩恵(?)かしら、このところ急に作品が売れ出した。
「画廊コレクションより~2月の常設展」が先週土曜日に終了しました。


企画展の合間を縫って亭主好みの作品を倉庫から引っ張り出し、僅か10点ほど展示しただけなのですが、思いもかけず好評で、例年なら低調な季節なのにお金は入る、在庫は減るで社長はホクホクでした。
高額な作品が立て続けに売れ、海外からはある作家の山とある在庫リストを送ったら、みんな買うといくらにしてくれるのか(ベスト・プライス)という仰天の返事が来たりする。
他の海外の画商さんにだめもとで預けていた作品が「全点売れたから、もう少し安くして」などというメールも入る。
確かに円安で、あちら様にしたら、買いやすくなったのでしょうけれど・・・
画商というのはゲンキンなもので売れれば「さすが俺の眼は確かだ」と自惚れ、売れなければ途端に自身喪失し、「もう俺の時代は終わったのでは」と大げさに嘆く。
まったく始末におえない。
売るだけでなく、このところ買う話も多い。
画商というのは文字通り「画(美術品)」を商う仕事です。
八百屋さんが新鮮で美味しくて安全な野菜の仕入れに腐心するのと同様、私たち画商も「顧客」の期待に添うべく、未知の美を持つ商品(作品)を探して日々右往左往しています。
いえ、歴史のある大画商さんや、目利きの凄腕画商さんたちはそんなことないでしょうが、私たちその他大勢の画商は、日々の資金繰りと闘いつつ、少しでも魅力ある、なおかつ利も得られる商品を求めて右往左往しているわけです。
もちろん画廊としての路線があっての右往左往なのですが、亭主がいいと思って仕入れた作品が必ずしもお客様の支持を得られるとは限らない。あげく在庫の山と格闘することになる。
逆に思いもかけずめぐり会った作品がお客様に気に入っていただき、めでたくお嫁入りしたときの喜び(反面、寂しさも)はまさに花嫁の父のもの。
先日もネットでときの忘れもののことを知ったある方から、ご両親が愛蔵されていた難波田龍起先生の作品を買い取って欲しいという依頼がありました。
送られたきた作品は間違いなく難波田先生の佳品。
喜んで買わせていただきました。


難波田龍起「麗日」油彩 3号
ところで先日、スタッフに留守を任せ、久しぶりに社長と関西方面に出張してきました。
同業の画商さんに会い、帰路浜松では平野美術館と浜松市立美術館で始まった柳澤紀子展を見てきました。
毎晩美味しい和食をいただき、止めていた酒も解禁し、気の合う人と飲む。社長もゴキゲンでありました。
師匠と仰ぐ画商のNさんの言うには「ここ10年ばかり、若い作家たちを見ても全く食指が動かない。作家を選ぶのは直感でしかないのだけれど、最近ぴっと来たのはIさんとYさんの二人だけです。」
それを聞いて亭主は少しほっとしました。
近年は各種のアートフェアが盛んにひらかれ、そこで展示されるのは多くは若い作家。
大学の卒業制作展で青田買いされた若い作家たちが、新進気鋭のギャラリストたちによって売り出される。デパートまでがその波に乗って「意欲的な」企画を連発する。
40年もこの仕事で飯を食ってきた亭主は「そうそう凄い作家が出てきてたまるかい」などと減らず口をたたいていますが、昨今の若くなければ作家じゃないみたいな風潮にはどうも馴染めない。
ときの忘れもののクラシック路線が珍しく受けているのは、亭主の嘆きを共有してくださるお客が少なくないということでしょうか。
温故知新。
新たな作家の出現に目をこらしつつ、埋もれた作家・作品の中にも未知の美を探しあてたい。
日々迷いつつの画商人生であります。
単細胞の亭主には、自国の通貨の価値を落とす(円安)と景気がよくなるという関係がわからない。
そりゃ輸出企業はいいでしょうけれど、資源小国の日本は輸入企業も多いはず。
ガソリンだって値上がりして家庭を直撃しているではないか。
所詮コムズカシイ理論は亭主にはわからんと匙を投げたのですが、あにはからんや早くもアベノミクスの恩恵(?)かしら、このところ急に作品が売れ出した。
「画廊コレクションより~2月の常設展」が先週土曜日に終了しました。


企画展の合間を縫って亭主好みの作品を倉庫から引っ張り出し、僅か10点ほど展示しただけなのですが、思いもかけず好評で、例年なら低調な季節なのにお金は入る、在庫は減るで社長はホクホクでした。
高額な作品が立て続けに売れ、海外からはある作家の山とある在庫リストを送ったら、みんな買うといくらにしてくれるのか(ベスト・プライス)という仰天の返事が来たりする。
他の海外の画商さんにだめもとで預けていた作品が「全点売れたから、もう少し安くして」などというメールも入る。
確かに円安で、あちら様にしたら、買いやすくなったのでしょうけれど・・・
画商というのはゲンキンなもので売れれば「さすが俺の眼は確かだ」と自惚れ、売れなければ途端に自身喪失し、「もう俺の時代は終わったのでは」と大げさに嘆く。
まったく始末におえない。
売るだけでなく、このところ買う話も多い。
画商というのは文字通り「画(美術品)」を商う仕事です。
八百屋さんが新鮮で美味しくて安全な野菜の仕入れに腐心するのと同様、私たち画商も「顧客」の期待に添うべく、未知の美を持つ商品(作品)を探して日々右往左往しています。
いえ、歴史のある大画商さんや、目利きの凄腕画商さんたちはそんなことないでしょうが、私たちその他大勢の画商は、日々の資金繰りと闘いつつ、少しでも魅力ある、なおかつ利も得られる商品を求めて右往左往しているわけです。
もちろん画廊としての路線があっての右往左往なのですが、亭主がいいと思って仕入れた作品が必ずしもお客様の支持を得られるとは限らない。あげく在庫の山と格闘することになる。
逆に思いもかけずめぐり会った作品がお客様に気に入っていただき、めでたくお嫁入りしたときの喜び(反面、寂しさも)はまさに花嫁の父のもの。
先日もネットでときの忘れもののことを知ったある方から、ご両親が愛蔵されていた難波田龍起先生の作品を買い取って欲しいという依頼がありました。
送られたきた作品は間違いなく難波田先生の佳品。
喜んで買わせていただきました。


難波田龍起「麗日」油彩 3号
ところで先日、スタッフに留守を任せ、久しぶりに社長と関西方面に出張してきました。
同業の画商さんに会い、帰路浜松では平野美術館と浜松市立美術館で始まった柳澤紀子展を見てきました。
毎晩美味しい和食をいただき、止めていた酒も解禁し、気の合う人と飲む。社長もゴキゲンでありました。
師匠と仰ぐ画商のNさんの言うには「ここ10年ばかり、若い作家たちを見ても全く食指が動かない。作家を選ぶのは直感でしかないのだけれど、最近ぴっと来たのはIさんとYさんの二人だけです。」
それを聞いて亭主は少しほっとしました。
近年は各種のアートフェアが盛んにひらかれ、そこで展示されるのは多くは若い作家。
大学の卒業制作展で青田買いされた若い作家たちが、新進気鋭のギャラリストたちによって売り出される。デパートまでがその波に乗って「意欲的な」企画を連発する。
40年もこの仕事で飯を食ってきた亭主は「そうそう凄い作家が出てきてたまるかい」などと減らず口をたたいていますが、昨今の若くなければ作家じゃないみたいな風潮にはどうも馴染めない。
ときの忘れもののクラシック路線が珍しく受けているのは、亭主の嘆きを共有してくださるお客が少なくないということでしょうか。
温故知新。
新たな作家の出現に目をこらしつつ、埋もれた作家・作品の中にも未知の美を探しあてたい。
日々迷いつつの画商人生であります。
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