昨3月10日午前2時24分、文化人類学者の山口昌男先生が亡くなられました。享年81。
初めてお宅に伺ったのは1980年頃でした。偶然ユリイカの編集者時代の三浦雅士さんが先客だったのを覚えています。
最後にお目にかかったのは細江英公先生のお祝いの席でした。
『版画掌誌ときの忘れもの』第二号に山名文夫論を書いていただいたりたいへんお世話になったのですが、ここしばらくお会いする機会もありませんでした。
謹んでご冥福をお祈りいたします。

東日本大震災。
あの日から二年が経ちました。
多くの人が犠牲になり、福島原発の事故はいまだ収束の道筋さえ見えません。
31万人もの故郷を失った人々が帰るすべもなく全国各地に散り散りになって不自由な暮らしをされています。
自然の脅威に逆らうことさえできない人間の非力を思います。

たくさんの子供達が一瞬にして津波にのまれた石巻市の大川小学校の悲劇はその検証の記事を読めば読むほど「どうして山に駆け上らなかったのだ」と歯がゆく残念な思いです。

亭主の故郷、群馬県嬬恋村は風光明媚な高原地帯ですが、村の南端が日本有数の活火山浅間山の山頂です。
今から、230年前の1783年8月5日(天明3年7月8日)浅間山が大噴火をおこします。
火口より13キロメートル北に位置する鎌原(かんばら)の集落が火砕流に襲われ、壊滅してしまいました。
大爆発から僅か数時間で、当時の村の人口570人程のうち、477名が亡くなったといわれます。
鎌原の集落の小高い丘の上に小さな観音堂がありました。
火砕流の襲来から逃げた人々が当時150段ほどあった観音堂の階段を駆け上ります。
たどり着いた僅か93名のみが奇跡的に助かりました。
鎌原観音堂
今も残る観音堂の石段は僅か15段、間一髪でした。
土砂で埋まった故地を残された人々は捨てませんでした。
幕府はじめ隣村からの支援を受け、しかし村の長である鎌原家は復興に際して「他村の者を入れるな」と、生き残った93名の男女を新たな家族に仕立てます。夫を失った妻は、妻を失った夫と新たな家族となる・・・
それぞれには平等に家と土地を分配します。
彼らの子孫、鎌原君、横沢君、山崎君、土屋さん、、、は私の同級生たちです。


亭主の育った三原という集落は、鎌原の直ぐ北に位置しますが、幼い頃繰り返し母に聞かされた言い伝えによれば、そのとき我が一族のおばあさんが臼で粉をひいていると、粉に「逃げろ、逃げろ」と絵文字が出てきたのだそうです。
そこで皆が山にかけのぼり九死に一生を得ます。
以来、我が一族は山のてっぺんに居を構えています。

災害はまさに忘れたころにやってくる。
東日本大震災の悲劇の中には人災も少なくなかったでしょう。
犠牲になった方々のご冥福をあらためて祈るとともに、国民の一人として、3.11を忘れずにこれからも出来ることをしていくつもりです。