恩地孝四郎 ― [芸術]の時代の[芸術家]
五十殿利治


 「岸田[劉生]君は病んでゐる。貧さに私と変りないことをきく、そして子のあることも変りない。そしてあの立派な仕事を仕上げてゐる。(略)私は画家だ、画家として生きることにのみ私の生活があるのだ。他のすべてを捨てろ。」(恩地孝四郎「愚人日記」1917年9月16日*)

 近代版画の展開に多大な貢献を果たした恩地孝四郎はみずからを「ディレッタント」(芸術愛好家)と呼んだ。その裏側には「芸術」への熱い思い、あるいは「芸術」や「芸術家」への錯綜したコンプレックスのようなものがあったようにみえる。彼にとって「芸術」はつねに手の届かない高み、というよりも、つねに遠ざかる聖地にあって、版画をはじめとするさまざまな回路によって、そこへ到ることが、大袈裟にいえば、恩地の全存在を賭けた制作活動の動機であったといってもいい。
 こうした「芸術」や「芸術家」の意識は恩地自身の問題であるとともに、単に個人に限定できない歴史の所産であったともいえる。恩地個人としてみると、その芸術観に大きな影響を与えたひとりが、白樺派の武者小路実篤であったというのは興味深いが(**)、それ自体に時代の刻印をみることができるのではないか。

 恩地孝四郎は岸田劉生と同じ生年であった、というとふしぎな感じがしないだろうか。同じように1911(明治44)年の白樺主催泰西版画展で感銘を受けるなど、「白樺」の多大な影響圏内で活動した青年期があった。しかし、両者の軌跡が近づくのもそこまで、ともいえる。近代にいちはやく訣別する岸田劉生、そして近代を終生追い求めた恩地孝四郎、まさに対照的である。
 恩地が東京美術学校予備科に入学し、さらに白馬会原町研究所に入る1910(明治43)年、白馬会葵橋研究所に通っていた岸田は、第4回文展で異例の入選を果たして、周囲を驚かせることになった。以後、岸田は高村光太郎や齊藤与里らによるヒュウザン会展(1912年)で一躍画壇にデビューし、同会解散後も、生活社から草土社へと活躍の場を拡げ、画風も後期印象派的なものから、1913(大正2)年を転機として「近代の誘惑」を卒業して、デューラーをはじめとするドイツ古典絵画に触発されたリアリズムへと転じて、振幅の大きな道程を歩むことになった。
 一方、恩地は美術学校の仲間である田中恭吉や藤森静雄とともに、1914(大正3)年自画自刻の木版画と詩の同人誌『月映』を洛陽堂から公刊し、日本で最初の抽象画といわれる「抒情『あかるい時』」(1915)を掲載したり、また竹久夢二の周辺に出入りしているうちに、1916(大正5)年、フュウザン会が解散して岸田たちと袂を分かった齊藤与里、三並花弟らが創設した日本美術家協会に参加する。この前後から、恩地は武者小路の芸術観に大きな影響を受け、油彩画の制作にも打ち込むことになった。冒頭で引用した日記はちょうど油彩を二科展に出品したところ落選するのだが、皮肉にも同展で二科賞を受賞した岸田劉生から葉書をもらったときの挫折感を記したものである。そこに劉生の名が出てくるのは、ふたりが奇妙な因縁で結ばれていることを暗示していようか。
onchi_02_akaruitoki抒情・あかるい時

 「自己」といい、「芸術」といい、その語を記す岸田劉生には揺るぎない信念があるようにみえる。恩地とはまるで別世界の住人のようだ。ただし、岸田にせよ、恩地にせよ、直面していた日本近代の芸術状況は同一であり、それに比較すれば、油彩だからだとか、版画だからといった差は小さなものであったようにみえる。
 幕末維新以来、社会に有用な技術としての面を強調されながら、西洋から移入された油彩画に代表される「美術」は、明治末年に至り、文部省美術展覧会、いわゆる文展の開設(1907)に象徴されるように、社会一般に共有される機制として位置づけを与えられることになった。国家的なプロジェクトへの参画、貴顕の肖像画とか、さまざまな回路で有用な技術であることを第一義的に喧伝してきた美術は、西欧をモデルとして再編された文化的な機構において、いまやそれ自体として広く鑑賞され、公に評価されるべきものとして、自律した地位を確保した。
 このように社会的に公認された美術は、従来とは異なる意識を要請し、新たな規範を生み出すことになる。技術の陶冶に専心し、邁進するプロフェッショナルとは立場を異にする人間たちが登場することになる。美術の専門的な枠を超えて、より広い表現世界において、共通的な基盤に立てる「芸術」という語を、時代の感性が求める。
 たとえば、明治末年には水彩画ブームが興るが、その火付け役であった大下藤次郎がみずから「アマチュア」を名乗るという意識の背後には、東京美術学校 ― 文展といった制度下のプロフェッショナルとは一線を画す青年たちの支持が透けて見えてくる。たとえば、1905(明治38)年雑誌『みづゑ』を発行する春鳥会からの絵葉書第二集に「海」が選ばれたように、水彩画に親しんでいた萬鉄五郎。黒田清輝は、1912(明治45)年、東京美術学校西洋画科を首席で卒業したばかりの神津港人にむかって、卒業後に社会で活躍するのは萬鉄五郎かもしれないとつぶやいたという逸話が伝えられているが(***)、ここにもそのような美術をめぐる新たな状況が反映している。
 こうして醸成された「芸術」と「芸術家」の領野は、技術とは異なる尺度によって判定されることになった。黒田清輝はちょうどパリで同年2月に開催されたイタリア未来派展のカタログを受け取ったばかりであった。恒常的な更新を求める西欧のモダニズムの大きなうねりがこの国にもつぎつぎと押し寄せてくることを黒田は直感したのだろう。フランスの外光派の流れをくむ黒田もまたモダニズムの路線の局外に立っていたわけではない。
 そのモダニズムは更新を本質とする以上、遠心的な構造をもっているが、岸田劉生はこれから逸早く路線転換し、求心的な方向を模索することによって「芸術」を掘り下げようとした。恩地孝四郎はモダニズムを粘り強く追い求めた。岸田劉生の場合がそうである以上に、詩、版画、油彩、レリーフ、装幀、写真と、すこぶる多彩な仕事を残した恩地孝四郎の「芸術」も、その多彩さに幻惑されないで対峙するならば、孤独な作業の連続であったことが理解される。
 恩地孝四郎においてモダニズムは、青年期に特有の通過儀礼的な病いに終わらなかった。果てしのない挑戦、出口のない探索となった。だが、それはまさに近代が求めた「芸術家」像とぴたりと重なっているのである。
(おむか としはる)
 
  桑原規子「恩地孝四郎研究―版画における近代性の追求」、筑波大学提出博士論文、第3章第2節、2001年。
** 同前第3章第1節。
***神津港人「美術学校時代の思い出」、「行先 花ざかり 神津港人追想録」私家版、1986年。

●本稿は2003年1月10日~25日の会期でときの忘れもので開催した「恩地孝四郎展」図録に掲載されたもので、このたび著者の了解を得て再録しました。

五十殿利治(おむか としはる)
1951年東京都に生まれる。早稲田大学大学院修士課程修了。
北海道立近代美術館学芸員を経て、現在、筑波大学大学院人間総合科学研究科教授、同人間総合科学研究科長。
1995年毎日出版文化賞奨励賞を受賞。1996-97年文部省在外研究員としてアイオワ大学でダダ研究を行う。
著書に『大正期新興美術運動の研究』(スカイドア 1995年、改訂版1998年)、『日本のアヴァンギャルド芸術〈マヴォ〉とその時代』(青土社 2001年)、共著に『資生堂ギャラリー七十五年史 1919-1994』(求龍堂 1995年)、『ロトチェンコの実験室』(新潮社 1995年)、『瑛九作品集』(日本経済新聞社 1997年)、The Eastern Dada Orbit: Russia, Georgia, Ukraine, Central Europe, and Japan, G.K.Hall,1998、訳書にマレーヴィチ『無対象の世界』(中央公論美術出版 1992年)、『大正期新興美術資料集成』(国書刊行会、共著 2007年)、『観衆の成立 美術展・美術雑誌・美術史』(東京大学出版会 2008年)がある。
onchi_08_poem-8恩地孝四郎
蝶の季節

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◆ときの忘れものは6月25日(火)~7月6日(土)「恩地孝四郎展」を開催しています(*会期中無休)。
恩地DM創作版画運動の指導者、日本の抽象絵画のパイオニアであった恩地孝四郎の木版画、素描、水彩など約20点をご覧いただきます。

●ギャラリートークのご案内
6月29日(土)17時より、桑原規子さん(聖徳大学文学部准教授/博士(芸文学))を迎えて、ギャラリートークを開催します。
要予約/参加費1,000円。メールまたは電話にてお申し込みください。
E-mail:info@tokinowasuremono.com
電話:03-3470-2631