現代日本版画家群像 第2回
川上澄生と棟方志功
針生一郎
木版を中心とする創作版画の運動には、語るべき人物が多いが、とりわけ恩地孝四郎とならんで版画の普及と後進の育成につくした点で、平塚運一のはたした役割はみのがせないだろう。一九一六(大正五)年、二科会に版画を早くも出品入選し、三一(昭和六)年、国画会に新設された版画部の鑑査にあたり、三五年、東京美術学校に版画教室が設けられると、木版の指導を担当した。昭和のはじめから、彼の家には印刷局に勤める畦地梅太郎、放浪無頼の画家で酔うと裸踊りをはじめる谷中安規、青森から出てきたばかりの棟方志功、三二年小野忠重らと新版画集団を結成して、三五年早くも自殺(ママ)した藤牧義夫など、変り種の版画家がたえず集まり、Ⅴ字型のミゾをつくる三角刀の愛用も、棟方や藤牧にうけつがれた。平塚は一九六二年以来ワシントンに住みついて、老齢にもかかわらずなおカクシャクとして新しい境地をきりひらこうとしている。
だが、わたしはここで平塚山脈ともいうべき木版画家のなかから、川上澄生と棟方志功の二人をとりあげたい。ちょうどいま二人の全集が、中央公論社と講談社から刊行されているところだが、この二人の画家への評価は日本の美術界の内部で定着したものではなかった。彼らはともに国画会に属し、また民芸運動の影響をうけたが、川上は主として萩原朔太郎の詩集『猫町』などの装幀、挿絵、限定版愛蔵本の詩画集などをとおして熱心な愛好家をとらえ、やがてサントリーのCMなどをとおして大衆に浸透した。棟方も戦前戟中には多くの装幀、挿絵を手がけたが、一九五六年、ヴェネツィア・ビエンナーレで版画大賞を受賞したのち、アメリカなどで高く評価され、七〇年毎日芸術賞、文化勲章を受章した前後から、テレビ・ドラマや伝記小説などをとおして大衆に親しまれる存在となったのである。あくまで異端の道をつらぬきながら、純粋美術とはややちがう回路で、一種のアイドルにまで変貌した過程がわたしには興味深い。
川上澄生は一八九五(明治二八)年、横浜に生まれ、青山学院高等科を出て二十歳で母を失い、父が再婚した家を離れて一九一七(大正六)年、単身カナダ、アメリカに渡った。アラスカで鮭罐詰製造工場などにつとめたというが、孤独で多感な青春期の異国放浪が感受性の素地をつちかったことは疑いない。一年余で帰国すると、広告図案家や毛織商店の一番頭を経て、一九二一年、宇都宮中学校の教諭心得となり、そのころから本格的に版画に熱中した。もっとも、青山学院高等部時代、「パストラル・ソサエティ」という音楽クラブに入っていて、そのプログラムに彼が描いた角笛を吹く男の絵を、級友だった合田清の息子にたのんで木口木版にしてもらったり、プレスにかけてもらったりしたことがあるという。川上の版画はこうもり傘の柄を磨いて、U字型のミゾができるノミとするのが特色で、初期の主題は彼が幼時をすごした横浜の風景や異国風景に集中している。『わが詩篇』のなかの「世界の涯」という詩が、その事情を解明するかもしれない。「予は一度世界の涯に行ったことがある/海面とすれすれにその街はあった/白や赤や青や緑又黄色の積木を思はせる建物が並んで居た/人々の姿は見られなかった/実に静かで寂しかった/海は広く もうこの先には何もないことがわかって居た/ここが世界の涯であることを知ることは/何とも言へない気もちだった。」青春をすごした「世界の涯」は、恐怖と寂寞にみちながら、自由の天地でもあったが、もう二度と行けず、追憶のなかにしか存在しない。そこで行きかった大きな帽子の女たちも、エキゾチックな憧憬をかきたてながら、手のとどかぬ存在だった。「海の向ふの明るい風景の中に/黒い衣を着た女が/自堕落に 寝そべってゐる/あゝ 恋人よ/手を延ばしても届かない/幻想の恋人よ」こうして、一九二七年発行の最初の私家版絵本『詩集青髯』の主題は、すべて報いられることない「恋慕」であり、二九年の『ゑげれすいろは詩集』になると、いっそう深い断念から身辺の事物への凝視が生まれている。
川上澄生
英語教師としての川上は、発音が美しく、解釈が親切でユーモアにみち、ときに生徒をどなると、アメリカでゴロツキをしていたと噂される本領があらわれ、生徒の尊敬の的だったが、資格申請を面倒くさがってしばらく教諭心得のままで、みずから「へっぽこ先生」と称し、画家としても終生日曜画家の立場をつらぬいた。そして、青春がすぎると、題材は横浜から長崎や平戸へ、明治開化期から紅毛南蛮渡来期へさかのぼり、郷愁と偏愛をこめて日本のなかの西洋文化の痕跡をさぐり、それによって近代日本に底流する「哀愁」ともいうべきものを、「我は市井の陋巷に住いして人工を愛す」という「人工」物のうちに象徴しつづけたのである。敗戦直前、北海道の白老村に疎開して五年間そこに住みつき、一連のアイヌ物が制作されたが、彼の内なる時計は死ぬ年まで停まったままだった。だが、私家本、絵本、カルタ、書票、などにこめられた川上の夢が、地下水が地上にあらわれるように多くの人びとを魅惑するのは、彼の死後まもなくのことである。
棟方志功は前回でふれた恩地孝四郎よりも、結婚当初のわたしの家に近く、荻窪駅に出る通り道に住んでいた。だが、わたしは戦争中日本浪漫派に傾倒していたころ、棟方の装幀した本に数多く接したので警戒していたし、大地主の子太宰治や青森市長の子阿部合成が青森中学時代、裁判所の弁護士控所給士で絵を描いていた棟方が、道で会うと最敬礼するのを軽蔑の眼で通りすぎた、という話も聞いていた。彼がヴェネツィア・ビエンナーレで版画大賞を受賞したときも、わたしは欧米人のエキゾティシズムによる評価として、否定的にうけとめたのである。だが、しだいに偏見や先入見を離れて、志功の版画をみつめ直す必要を感じた。
棟方志功
周知のように、「わだばゴッホになる」と決意して上京した棟方は一九二八年、帝展に風景の油絵で初入選したが、生来眼が悪かった彼は、遠近法にもとづく西洋絵画=油絵を離れて、木版画をとおして日本独自の造形性をきりひらこうとした。その転回の機縁となったのが平塚運一との出会いであり、最初に彼を魅了したのが川上澄生の明治開化趣味であった。だが、ついで柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司ら日本民芸派の知遇を受けて、文学、神話、宗教を根源とする土俗的で匿名的な表現に眼をひらかれたことが、川上の影響を決定的に脱却する機縁となる。こうして一九三八年の《東北経鬼門譜》《善知鳥》、三九年の《釈迦十大弟子》などで確立された方向は、木版と白黒を基本とする造形性をふまえながら、生命そのものの躍動し横溢する官能性と幻想性にみちた、表現主義ともいうべきものである。それは戦後の《鐘渓頌板画巻》《歓喜板画柵》《湧然する女者達々》《柳緑花紅頌》などでは縄文土器に通ずる奔放な野性と他力本願の法悦恍惚とを綜合しながら、モニュメンタルな響宴に達している。わたしは前にふれた太宰冶や阿部合成の、自虐とともに習俗への反抗にみちた生き方を思いあわせると、棟方の行程に貧困と底辺から生いたったゆえの俗物の面影をみいだすが、その作品には彼のあらゆる策略をこえた生命の原質がほとばしっているのを、感慨深くみとめざるをえない。
(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.48より再録
1979年7月 現代版画センター刊
◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されたもので、毎月28日に掲載(再録)いたします。
■針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。
川上澄生と棟方志功
針生一郎
木版を中心とする創作版画の運動には、語るべき人物が多いが、とりわけ恩地孝四郎とならんで版画の普及と後進の育成につくした点で、平塚運一のはたした役割はみのがせないだろう。一九一六(大正五)年、二科会に版画を早くも出品入選し、三一(昭和六)年、国画会に新設された版画部の鑑査にあたり、三五年、東京美術学校に版画教室が設けられると、木版の指導を担当した。昭和のはじめから、彼の家には印刷局に勤める畦地梅太郎、放浪無頼の画家で酔うと裸踊りをはじめる谷中安規、青森から出てきたばかりの棟方志功、三二年小野忠重らと新版画集団を結成して、三五年早くも自殺(ママ)した藤牧義夫など、変り種の版画家がたえず集まり、Ⅴ字型のミゾをつくる三角刀の愛用も、棟方や藤牧にうけつがれた。平塚は一九六二年以来ワシントンに住みついて、老齢にもかかわらずなおカクシャクとして新しい境地をきりひらこうとしている。
だが、わたしはここで平塚山脈ともいうべき木版画家のなかから、川上澄生と棟方志功の二人をとりあげたい。ちょうどいま二人の全集が、中央公論社と講談社から刊行されているところだが、この二人の画家への評価は日本の美術界の内部で定着したものではなかった。彼らはともに国画会に属し、また民芸運動の影響をうけたが、川上は主として萩原朔太郎の詩集『猫町』などの装幀、挿絵、限定版愛蔵本の詩画集などをとおして熱心な愛好家をとらえ、やがてサントリーのCMなどをとおして大衆に浸透した。棟方も戦前戟中には多くの装幀、挿絵を手がけたが、一九五六年、ヴェネツィア・ビエンナーレで版画大賞を受賞したのち、アメリカなどで高く評価され、七〇年毎日芸術賞、文化勲章を受章した前後から、テレビ・ドラマや伝記小説などをとおして大衆に親しまれる存在となったのである。あくまで異端の道をつらぬきながら、純粋美術とはややちがう回路で、一種のアイドルにまで変貌した過程がわたしには興味深い。
川上澄生は一八九五(明治二八)年、横浜に生まれ、青山学院高等科を出て二十歳で母を失い、父が再婚した家を離れて一九一七(大正六)年、単身カナダ、アメリカに渡った。アラスカで鮭罐詰製造工場などにつとめたというが、孤独で多感な青春期の異国放浪が感受性の素地をつちかったことは疑いない。一年余で帰国すると、広告図案家や毛織商店の一番頭を経て、一九二一年、宇都宮中学校の教諭心得となり、そのころから本格的に版画に熱中した。もっとも、青山学院高等部時代、「パストラル・ソサエティ」という音楽クラブに入っていて、そのプログラムに彼が描いた角笛を吹く男の絵を、級友だった合田清の息子にたのんで木口木版にしてもらったり、プレスにかけてもらったりしたことがあるという。川上の版画はこうもり傘の柄を磨いて、U字型のミゾができるノミとするのが特色で、初期の主題は彼が幼時をすごした横浜の風景や異国風景に集中している。『わが詩篇』のなかの「世界の涯」という詩が、その事情を解明するかもしれない。「予は一度世界の涯に行ったことがある/海面とすれすれにその街はあった/白や赤や青や緑又黄色の積木を思はせる建物が並んで居た/人々の姿は見られなかった/実に静かで寂しかった/海は広く もうこの先には何もないことがわかって居た/ここが世界の涯であることを知ることは/何とも言へない気もちだった。」青春をすごした「世界の涯」は、恐怖と寂寞にみちながら、自由の天地でもあったが、もう二度と行けず、追憶のなかにしか存在しない。そこで行きかった大きな帽子の女たちも、エキゾチックな憧憬をかきたてながら、手のとどかぬ存在だった。「海の向ふの明るい風景の中に/黒い衣を着た女が/自堕落に 寝そべってゐる/あゝ 恋人よ/手を延ばしても届かない/幻想の恋人よ」こうして、一九二七年発行の最初の私家版絵本『詩集青髯』の主題は、すべて報いられることない「恋慕」であり、二九年の『ゑげれすいろは詩集』になると、いっそう深い断念から身辺の事物への凝視が生まれている。

英語教師としての川上は、発音が美しく、解釈が親切でユーモアにみち、ときに生徒をどなると、アメリカでゴロツキをしていたと噂される本領があらわれ、生徒の尊敬の的だったが、資格申請を面倒くさがってしばらく教諭心得のままで、みずから「へっぽこ先生」と称し、画家としても終生日曜画家の立場をつらぬいた。そして、青春がすぎると、題材は横浜から長崎や平戸へ、明治開化期から紅毛南蛮渡来期へさかのぼり、郷愁と偏愛をこめて日本のなかの西洋文化の痕跡をさぐり、それによって近代日本に底流する「哀愁」ともいうべきものを、「我は市井の陋巷に住いして人工を愛す」という「人工」物のうちに象徴しつづけたのである。敗戦直前、北海道の白老村に疎開して五年間そこに住みつき、一連のアイヌ物が制作されたが、彼の内なる時計は死ぬ年まで停まったままだった。だが、私家本、絵本、カルタ、書票、などにこめられた川上の夢が、地下水が地上にあらわれるように多くの人びとを魅惑するのは、彼の死後まもなくのことである。
棟方志功は前回でふれた恩地孝四郎よりも、結婚当初のわたしの家に近く、荻窪駅に出る通り道に住んでいた。だが、わたしは戦争中日本浪漫派に傾倒していたころ、棟方の装幀した本に数多く接したので警戒していたし、大地主の子太宰治や青森市長の子阿部合成が青森中学時代、裁判所の弁護士控所給士で絵を描いていた棟方が、道で会うと最敬礼するのを軽蔑の眼で通りすぎた、という話も聞いていた。彼がヴェネツィア・ビエンナーレで版画大賞を受賞したときも、わたしは欧米人のエキゾティシズムによる評価として、否定的にうけとめたのである。だが、しだいに偏見や先入見を離れて、志功の版画をみつめ直す必要を感じた。

周知のように、「わだばゴッホになる」と決意して上京した棟方は一九二八年、帝展に風景の油絵で初入選したが、生来眼が悪かった彼は、遠近法にもとづく西洋絵画=油絵を離れて、木版画をとおして日本独自の造形性をきりひらこうとした。その転回の機縁となったのが平塚運一との出会いであり、最初に彼を魅了したのが川上澄生の明治開化趣味であった。だが、ついで柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司ら日本民芸派の知遇を受けて、文学、神話、宗教を根源とする土俗的で匿名的な表現に眼をひらかれたことが、川上の影響を決定的に脱却する機縁となる。こうして一九三八年の《東北経鬼門譜》《善知鳥》、三九年の《釈迦十大弟子》などで確立された方向は、木版と白黒を基本とする造形性をふまえながら、生命そのものの躍動し横溢する官能性と幻想性にみちた、表現主義ともいうべきものである。それは戦後の《鐘渓頌板画巻》《歓喜板画柵》《湧然する女者達々》《柳緑花紅頌》などでは縄文土器に通ずる奔放な野性と他力本願の法悦恍惚とを綜合しながら、モニュメンタルな響宴に達している。わたしは前にふれた太宰冶や阿部合成の、自虐とともに習俗への反抗にみちた生き方を思いあわせると、棟方の行程に貧困と底辺から生いたったゆえの俗物の面影をみいだすが、その作品には彼のあらゆる策略をこえた生命の原質がほとばしっているのを、感慨深くみとめざるをえない。
(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.48より再録
1979年7月 現代版画センター刊
◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されたもので、毎月28日に掲載(再録)いたします。
■針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。
コメント