現代日本版画家群像 第5回
国吉康雄と北川民次
針生一郎
明治以来、日本の美術家の留学先は大部分パリだが、一般にかの地ではエトランゼにとどまり、純粋に美術史の様式交替のなかで模索しながら、帰国後にはいつしか日本の風土や伝統に回帰した例が多い。それにたいして万鉄五郎、国吉康雄、清水登之、石垣栄太郎、北川民次ら、日露戦争と第一次大戦のあいだに、比較的年少でアメリカに渡った人びとは、生活のための雑役をとおして文明や社会とじかに対決したため、帰国してもスケールの大きい芸術家となっている。もっとも、そこには当時のアメリカ美術の後進性が有利に作用しているので、第二次大戦後はアメリカが世界の美術の中心となり、いまやその役割も終りつつあるため、昨秋十年ぶりにニューヨークにたちよると、日本の美術家たちが世界の美術と現代文明の総体をみつめながら、孤独に純粋に自己の方向をつきつめているのが印象的だった。
それはともかく、いまあげた美術家のなかで、国吉康雄と北川民次が戦後日本の版画にあたえた影響はみのがせない(同世代ではほかに、日系二世としてサンタ・クララに生まれ、父の郷里熊本で中学まで終え、カリフォルニア美術学校を出てリベラの壁画助手をつとめた野田英夫が、一九三九年東京で夭折して甥の野田哲也にも忘れがたい刻印を残した)。国吉は一八八九(明治二二)年岡山市に生まれ、県立工業学校で染織を学んだのち、一九〇六(明治三九)年アメリカに渡った。さまざまの労働をしながら、ロスアンゼルス美術学校夜間部を出、一九一〇年ニューヨークに移って、さらにいくつかの美術学校を遍歴したのち、一九一六年アート・ステューデント・リーグに入った。ここで師事したケネス・H・ミラーは、技術指導よりも古典や巨匠への眼をひらき、グレコ、ドーミエ、セザンヌに傾倒する国吉のデッサンの才能をひきだした。一七年、ブルガリア生まれの画家ジュール・パスキンがとなりに引越してきて、その憂愁と詩情に国吉はつよくひかれた。このころ制作しはじめたエッチングやドライポイントなどの銅版画には、油絵と同じ裸婦、こども、手、静物などの主題が、独特な俯瞰法、逆遠近法、三角形構図にまとめられている。
一九二二年には、ダニエル画廊で最初の個展をひらき、以後三一年の同画廊閉鎖まで毎年個展をつづけた。やはり二二年、刷り師のジョージ・ミラーがホイットニー・スタジオ・クラブに石版機械をもちこみ、画家に描かせた油絵をすぐ石版画にしてみせた実演に刺激され、石版画に集中するようになった。二八年の二度目のヨーロッパ旅行中は、パスキン、スーチンらと交わり、また亜鉛版にかわる石版画を習得して年間に三十点制作した。この技法は色彩、空間、明暗をいっそう繊細に表現して、油絵と対応することを可能にしたのである。
一九三一年には、父の病気見舞いのため帰国し、東京と大阪の三越で個展をひらいたが、日本の美術界にはつよい違和感をいだき、わずかに有島生馬、仲田好江らと交友しただけらしい。父につづいて母も死んだが、国吉は三三年にはアート・ステューデント・リーグ、三六年にはニュー・スクール・フォー・ソシアル・リサーチの教師となった。さらに三六年以後、ニューディール政策にもとづくWPA(公共事業促進局)の連邦美術計画で、民衆生活を記録する版画制作にたずさわり、アメリカン・シーンの代表的作家とみなされる。また三七年以後、アメリカ美術家会議、アン・アメリカン・グループなどの会長に選ばれたことも、彼の人望をしのばせるだろう。
太平洋戦争開始後は、戦時情報局の依頼で日本批判のポスター、イラストを描き、短波放送で日本に停戦勧告をおこない、またダウンタウン画廊での個展の入場料収入を中国救済のために寄附したりした。これらの活動はリベラリストの信念にもとづくと同時に、アメリカ市民権をもたない日系人の不安に駆られた一面もみのがせない。大戦後も亡命芸術家連盟会長に推され、一九四九年、日本を脱出して渡米した戦争画家藤田嗣治が会見を求めたときも、会おうとはしなかったらしい。
国吉康雄
「綱渡りの女」
1938
リトグラフ
39.5×30.0cm
サインあり
国吉康雄
「サーカスの球乗り」
1930
リトグラフ
40.0×29.0cm
サインあり
国吉は版画をとおして、自分の血のなかにある東洋の筆致や白黒の色彩を再発見したが、現実の祖国日本はとうてい帰るべきところとは思えなかった。四八年にはホイットニー美術館で、現存作家の個展では最初の国吉回顧展がひらかれて名声を博したが、この内部の空洞は埋められなかったようだ。五〇年の《鯉のぼり》五一年の《東洋の贈物》などでは、日本の風物が千代紙細工のようにあでやかな色彩で描かれるが、そこでは郷愁は内攻して深い象徴的表現となっている。一九五二年、今泉篤男が訪問して国立近代美術館での個展の話が進み、国吉も二十年ぶりで帰国することをたのしみにしていたのに、五四年の三月のその実現を待たずに、彼は五三年五月なくなったのである。
北川民次は一八九四(明治二七)年、静岡県金谷町(現)に生まれ、文学を愛好して早大予科に学んだが、一九一四(大正三)年中退してアメリカにおもむき、一年カリフォルニアにすごしてニューヨークに移った。一九一九年ごろ、アート・ステューデント・リーグに入って国吉康雄と交わったが、北川が師事したのは「ごみだめ派」とよばれた「八人組」のジョン・スローンで、キレイゴトを離れて民衆生活をリアルに直視することを強調したという。もうひとり、級友のアイルランド系の女性ペネロプ・マキントッシュが、児童画の研究に熱中していて北川をひきずりこみ、その魅の勉強をすす力を解明するためフロイトめたらしい。
一九二三年、北川はアメリカ南部、キューバ、メキシコなどの放浪の旅に出たが、キューバで所持金三〇〇〇ドルと荷物を全部盗まれ、イコンの行商をしながらメキシコに入った。当時のメキシコは革命の余燼なおさめやらず、抑圧に抵抗する悲愴な情熱がみなぎっていたから、北川はサン・カルロス美術学校に入って、ポサダ以来の伝統を復興しつつある版画やテンペラの技術を学んだのち、オロスコ、リベラ、シケイロスら革命画家たちがはじめた野外美術学校計画に加わった。チュルブスコ僧院、トラルバムを経て、一九三一年彼はタスコにひらかれた野外美術学校の校長となるが、この野外美術学校とは一室の粗末な建物に椅子が、二、三脚あるだけの設備で、教師は北川ひとり、野外ではだしで遊ぶ貧農の子たちに絵を描かないかとよびかけ、くると北川手製の泥を練ったテンペラやカンヴァスをあたえて、自由に描かせるだけのものだった。だが、メキシコのこどもたちの表現はアンリ・ルソー風の素朴さにみちて力づよく、エッチング、リノカット、木版なども高い水準に達している。藤田嗣治はパリで親交のあったリベラのもとに、北川民次から送られてきたタスコの児童画におどろき、一九三三年南米旅行の途次、タスコに北川を訪れ、三六年北川に託されたメキシコ児童画展を日本橋白木屋でひらいている。同じころ、国吉康雄、イサム・ノグチ、リベラ、シケイロスもタスコを訪れた。
北川民次
「メキシコの浴み」
1941年頃
木口木版
37.5×45.0cm
Ed.100
サインあり
※レゾネNo.32
北川民次
「花と二人の女」
1961
リトグラフ
37.0×27.0cm
Ed.10
サインあり
※レゾネNo.96
一九三六年、北川は長女の教育を日本で受けさせるため帰国し、タスコの学校には後任のメキシコ人画家がきたが、まもなく閉鎖された。三八年、北川は欧米旅行に出かける直前の久保貞次郎と小熊秀雄の訪問をうけ、メキシコの児童画をやがて久保にゆずることになる。当時東京の自宅にコドモ文化会をつくり、久保らとともに絵本の出版を計画したのが、戦後の名古屋動物園美術学校、北川児童美術研究所などを経て、一九五二年創造美育協会の結成の発端となったといえる。北川自身の作品は、帰国当時メキシコの風物を灰色の暗い色調で描いたものだったが、しだいに母子像、家族群像、労働現場、花などの主題に集中する。そして力づよい力線で分割された、明快でプリミティーヴな構図がしだいに彼の特色を形づくった。
とりわけ、一九五五年にふたたびメキシコを訪れ、オロスコはすでになくなっていたが、リベラ、シケイロス、タマヨらに会って一年間滞在したことは、北川にとって大きな転機となったようだ。あざやかな色彩のコントラストと、また大胆にデフォルメされた構成のうちに、民衆生活の哀歓が凝縮されながら、イコンのように儀式化され聖化されて、強壮なユーモアがほとばしる。バッタや犬などの動物も、野性と神性の象徴のように造形される。感覚的に洗練された日本人の小味な限界をつきぬけて、普遍的なヒューマニティに根ざす表現主義をきりひらくのが、北川の念願らしい。戦後の版画は大部分石版画や銅版画だが、繊維のしなやかな榛の木を使っての木口木版にも優れた作品を残し、八十六歳の現在も瀬戸のアトリエで制作をつづけている。
アメリカに住みついて、アメリカ女性と二度結婚した国吉は、郷愁を昇華して憂愁をはらんだ象徴と化しながら、当時一世を風靡していた抽象表現主義を敵視しつづけて世を去った。それにたいして、アメリカに十年、メキシコに十二年滞在して、後者では児童画教育にうちこんだ北川は、メキシコの追憶をしだいに純化しながら、メキシコの民衆的表現力を鏡として日本の現実をえぐる独特な道をきりひらいた。同時にメキシコでの経験をひきついで、戦後の美術教育を一変させるような運動をつくりだしたのである。わたしはどちらがすぐれているか、どちらが幸福だったかなどの議論をするつもりはない。どちらも美術の根底にある文明と社会の問題に身をもってぶつかり、そこで苦闘しつづけた点で凡百の美術家をこえている。そのとき、民衆と美術との回路を問い直すために、版画は二人の作家にとって欠かせない手段だったと思われる。
(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.55より再録
1980年2月 現代版画センター刊
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されました。
ご遺族の許可を得て第4回までは毎月28日に掲載(再録)しましたが、今回から毎月14日の更新に変更します。
30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま再録します。
■針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。
◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は第4回までは毎月28日の更新でしたが、今回から毎月14日の更新に変更します。
国吉康雄と北川民次
針生一郎
明治以来、日本の美術家の留学先は大部分パリだが、一般にかの地ではエトランゼにとどまり、純粋に美術史の様式交替のなかで模索しながら、帰国後にはいつしか日本の風土や伝統に回帰した例が多い。それにたいして万鉄五郎、国吉康雄、清水登之、石垣栄太郎、北川民次ら、日露戦争と第一次大戦のあいだに、比較的年少でアメリカに渡った人びとは、生活のための雑役をとおして文明や社会とじかに対決したため、帰国してもスケールの大きい芸術家となっている。もっとも、そこには当時のアメリカ美術の後進性が有利に作用しているので、第二次大戦後はアメリカが世界の美術の中心となり、いまやその役割も終りつつあるため、昨秋十年ぶりにニューヨークにたちよると、日本の美術家たちが世界の美術と現代文明の総体をみつめながら、孤独に純粋に自己の方向をつきつめているのが印象的だった。
それはともかく、いまあげた美術家のなかで、国吉康雄と北川民次が戦後日本の版画にあたえた影響はみのがせない(同世代ではほかに、日系二世としてサンタ・クララに生まれ、父の郷里熊本で中学まで終え、カリフォルニア美術学校を出てリベラの壁画助手をつとめた野田英夫が、一九三九年東京で夭折して甥の野田哲也にも忘れがたい刻印を残した)。国吉は一八八九(明治二二)年岡山市に生まれ、県立工業学校で染織を学んだのち、一九〇六(明治三九)年アメリカに渡った。さまざまの労働をしながら、ロスアンゼルス美術学校夜間部を出、一九一〇年ニューヨークに移って、さらにいくつかの美術学校を遍歴したのち、一九一六年アート・ステューデント・リーグに入った。ここで師事したケネス・H・ミラーは、技術指導よりも古典や巨匠への眼をひらき、グレコ、ドーミエ、セザンヌに傾倒する国吉のデッサンの才能をひきだした。一七年、ブルガリア生まれの画家ジュール・パスキンがとなりに引越してきて、その憂愁と詩情に国吉はつよくひかれた。このころ制作しはじめたエッチングやドライポイントなどの銅版画には、油絵と同じ裸婦、こども、手、静物などの主題が、独特な俯瞰法、逆遠近法、三角形構図にまとめられている。
一九二二年には、ダニエル画廊で最初の個展をひらき、以後三一年の同画廊閉鎖まで毎年個展をつづけた。やはり二二年、刷り師のジョージ・ミラーがホイットニー・スタジオ・クラブに石版機械をもちこみ、画家に描かせた油絵をすぐ石版画にしてみせた実演に刺激され、石版画に集中するようになった。二八年の二度目のヨーロッパ旅行中は、パスキン、スーチンらと交わり、また亜鉛版にかわる石版画を習得して年間に三十点制作した。この技法は色彩、空間、明暗をいっそう繊細に表現して、油絵と対応することを可能にしたのである。
一九三一年には、父の病気見舞いのため帰国し、東京と大阪の三越で個展をひらいたが、日本の美術界にはつよい違和感をいだき、わずかに有島生馬、仲田好江らと交友しただけらしい。父につづいて母も死んだが、国吉は三三年にはアート・ステューデント・リーグ、三六年にはニュー・スクール・フォー・ソシアル・リサーチの教師となった。さらに三六年以後、ニューディール政策にもとづくWPA(公共事業促進局)の連邦美術計画で、民衆生活を記録する版画制作にたずさわり、アメリカン・シーンの代表的作家とみなされる。また三七年以後、アメリカ美術家会議、アン・アメリカン・グループなどの会長に選ばれたことも、彼の人望をしのばせるだろう。
太平洋戦争開始後は、戦時情報局の依頼で日本批判のポスター、イラストを描き、短波放送で日本に停戦勧告をおこない、またダウンタウン画廊での個展の入場料収入を中国救済のために寄附したりした。これらの活動はリベラリストの信念にもとづくと同時に、アメリカ市民権をもたない日系人の不安に駆られた一面もみのがせない。大戦後も亡命芸術家連盟会長に推され、一九四九年、日本を脱出して渡米した戦争画家藤田嗣治が会見を求めたときも、会おうとはしなかったらしい。

「綱渡りの女」
1938
リトグラフ
39.5×30.0cm
サインあり

「サーカスの球乗り」
1930
リトグラフ
40.0×29.0cm
サインあり
国吉は版画をとおして、自分の血のなかにある東洋の筆致や白黒の色彩を再発見したが、現実の祖国日本はとうてい帰るべきところとは思えなかった。四八年にはホイットニー美術館で、現存作家の個展では最初の国吉回顧展がひらかれて名声を博したが、この内部の空洞は埋められなかったようだ。五〇年の《鯉のぼり》五一年の《東洋の贈物》などでは、日本の風物が千代紙細工のようにあでやかな色彩で描かれるが、そこでは郷愁は内攻して深い象徴的表現となっている。一九五二年、今泉篤男が訪問して国立近代美術館での個展の話が進み、国吉も二十年ぶりで帰国することをたのしみにしていたのに、五四年の三月のその実現を待たずに、彼は五三年五月なくなったのである。
北川民次は一八九四(明治二七)年、静岡県金谷町(現)に生まれ、文学を愛好して早大予科に学んだが、一九一四(大正三)年中退してアメリカにおもむき、一年カリフォルニアにすごしてニューヨークに移った。一九一九年ごろ、アート・ステューデント・リーグに入って国吉康雄と交わったが、北川が師事したのは「ごみだめ派」とよばれた「八人組」のジョン・スローンで、キレイゴトを離れて民衆生活をリアルに直視することを強調したという。もうひとり、級友のアイルランド系の女性ペネロプ・マキントッシュが、児童画の研究に熱中していて北川をひきずりこみ、その魅の勉強をすす力を解明するためフロイトめたらしい。
一九二三年、北川はアメリカ南部、キューバ、メキシコなどの放浪の旅に出たが、キューバで所持金三〇〇〇ドルと荷物を全部盗まれ、イコンの行商をしながらメキシコに入った。当時のメキシコは革命の余燼なおさめやらず、抑圧に抵抗する悲愴な情熱がみなぎっていたから、北川はサン・カルロス美術学校に入って、ポサダ以来の伝統を復興しつつある版画やテンペラの技術を学んだのち、オロスコ、リベラ、シケイロスら革命画家たちがはじめた野外美術学校計画に加わった。チュルブスコ僧院、トラルバムを経て、一九三一年彼はタスコにひらかれた野外美術学校の校長となるが、この野外美術学校とは一室の粗末な建物に椅子が、二、三脚あるだけの設備で、教師は北川ひとり、野外ではだしで遊ぶ貧農の子たちに絵を描かないかとよびかけ、くると北川手製の泥を練ったテンペラやカンヴァスをあたえて、自由に描かせるだけのものだった。だが、メキシコのこどもたちの表現はアンリ・ルソー風の素朴さにみちて力づよく、エッチング、リノカット、木版なども高い水準に達している。藤田嗣治はパリで親交のあったリベラのもとに、北川民次から送られてきたタスコの児童画におどろき、一九三三年南米旅行の途次、タスコに北川を訪れ、三六年北川に託されたメキシコ児童画展を日本橋白木屋でひらいている。同じころ、国吉康雄、イサム・ノグチ、リベラ、シケイロスもタスコを訪れた。

「メキシコの浴み」
1941年頃
木口木版
37.5×45.0cm
Ed.100
サインあり
※レゾネNo.32

「花と二人の女」
1961
リトグラフ
37.0×27.0cm
Ed.10
サインあり
※レゾネNo.96
一九三六年、北川は長女の教育を日本で受けさせるため帰国し、タスコの学校には後任のメキシコ人画家がきたが、まもなく閉鎖された。三八年、北川は欧米旅行に出かける直前の久保貞次郎と小熊秀雄の訪問をうけ、メキシコの児童画をやがて久保にゆずることになる。当時東京の自宅にコドモ文化会をつくり、久保らとともに絵本の出版を計画したのが、戦後の名古屋動物園美術学校、北川児童美術研究所などを経て、一九五二年創造美育協会の結成の発端となったといえる。北川自身の作品は、帰国当時メキシコの風物を灰色の暗い色調で描いたものだったが、しだいに母子像、家族群像、労働現場、花などの主題に集中する。そして力づよい力線で分割された、明快でプリミティーヴな構図がしだいに彼の特色を形づくった。
とりわけ、一九五五年にふたたびメキシコを訪れ、オロスコはすでになくなっていたが、リベラ、シケイロス、タマヨらに会って一年間滞在したことは、北川にとって大きな転機となったようだ。あざやかな色彩のコントラストと、また大胆にデフォルメされた構成のうちに、民衆生活の哀歓が凝縮されながら、イコンのように儀式化され聖化されて、強壮なユーモアがほとばしる。バッタや犬などの動物も、野性と神性の象徴のように造形される。感覚的に洗練された日本人の小味な限界をつきぬけて、普遍的なヒューマニティに根ざす表現主義をきりひらくのが、北川の念願らしい。戦後の版画は大部分石版画や銅版画だが、繊維のしなやかな榛の木を使っての木口木版にも優れた作品を残し、八十六歳の現在も瀬戸のアトリエで制作をつづけている。
アメリカに住みついて、アメリカ女性と二度結婚した国吉は、郷愁を昇華して憂愁をはらんだ象徴と化しながら、当時一世を風靡していた抽象表現主義を敵視しつづけて世を去った。それにたいして、アメリカに十年、メキシコに十二年滞在して、後者では児童画教育にうちこんだ北川は、メキシコの追憶をしだいに純化しながら、メキシコの民衆的表現力を鏡として日本の現実をえぐる独特な道をきりひらいた。同時にメキシコでの経験をひきついで、戦後の美術教育を一変させるような運動をつくりだしたのである。わたしはどちらがすぐれているか、どちらが幸福だったかなどの議論をするつもりはない。どちらも美術の根底にある文明と社会の問題に身をもってぶつかり、そこで苦闘しつづけた点で凡百の美術家をこえている。そのとき、民衆と美術との回路を問い直すために、版画は二人の作家にとって欠かせない手段だったと思われる。
(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.55より再録
1980年2月 現代版画センター刊
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◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されました。
ご遺族の許可を得て第4回までは毎月28日に掲載(再録)しましたが、今回から毎月14日の更新に変更します。
30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま再録します。
■針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。
◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は第4回までは毎月28日の更新でしたが、今回から毎月14日の更新に変更します。
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