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群馬の「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産に登録される見通しとなりました
群馬に生まれ育った亭主としてはとても嬉しい。

世界遺産の候補になったのは、日本初の官営の製糸工場「富岡製糸場」と群馬県内にある生糸の大量生産を支えた3つの国の史跡・田島弥平旧宅、高山社跡、荒船風穴の「絹産業遺産群」を合わせた四つの構成資産です。

実は世界遺産を目指す当初の計画では全部で10箇所近い場所が構成資産の候補になっていました。
しかし、その後候補を4つに絞り、今回の快挙となりました。
涙をのんで候補を降りたひとつが亭主の生まれた群馬県吾妻郡中之条町、旧名久田村に残る国史跡の東谷風穴(あずまやふうけつ 通称・栃窪風穴)でした。
(亭主は旧・名久田村の綿貫家で生まれ、その後母方の嬬恋村で育った)
東谷風穴12008年7月
東谷風穴にて、社長。

東谷風穴2
亭主とその兄。

東谷風穴看板東谷風穴2

「風穴(ふうけつ)」というのをご存知ですか。
明治時代後半から昭和初期にかけて、蚕種の孵化(ふか)時期の調整のために、天然の冷風の吹き出し口を掘り下げて石垣を組み、覆屋を設けて内部に蚕種を貯蔵した施設のことをいいます。

東谷風穴(栃窪風穴)は東谷山の北麓、標高680mに今も残っています。
奥木仙五郎により整備され、その運営のために「東谷風穴蚕種貯蔵合資会社」が設立され、1910(明治43)年から蚕種貯蔵を開始します。
奥木を助けて同社の設立に尽力したのが亭主の祖父・綿貫形次郎でした
風穴には一般農家の利用が多く、吾妻郡内をはじめ利根郡の農家からの利用もありました。この施設によって蚕種が貯蔵可能(孵化を抑制)となり、年間5回の養蚕が可能となります。
「東谷風穴蚕種貯蔵合資会社」は昭和初年に「吾妻蚕種貯蔵組合」に改組されますが奥木の後を継いで組合長になったのが祖父・綿貫形次郎です。
蚕種が貯蔵は戦後まで続き、貯蔵数は10万枚を超えるものと推計され、地域単位の風穴としては全国有数の規模でした。蚕種の冷却に際して氷雪も利用し、当時の写真と現地調査によれば、管理棟と大小2基の貯蔵庫があり、大きい1号風穴は、冷風の吹き出し口の周囲を石積みで囲った地下2階、地上1階からなる建屋があり、地下2階は氷庫として使用されました。建屋は現存しませんが、風穴の石積み、事務所の礎石などが残っています。

2003年に県が富岡製糸場と絹産業遺産群の世界遺産登録に向けて動き出し、貴重な養蚕関連施設として注目されはじめ、2010年(平成22)には荒船風穴と共に国の史跡に指定されます。
しかし、県はその後の構成資産の絞り込みで、東谷風穴を対象から外します。荒船風穴に比べて規模が小さく地域が限定的だったことや、富岡製糸場との結びつきを示す史料が現在まで見つかっていないことがその理由でした(残念、無念!)。

今回の世界遺産の朗報で、祖父形次郎のことを思い起こしました。
以前、このブログでも少し書いたことがあります(我が家の蔵)。
明治7年に群馬県吾妻郡中之条町大字赤坂(旧名久田村)に生まれ、明治24年吾妻高等小学校を卒業し、名久田小学校栃窪分校の教師となります。兵役のあと、役場に勤め助役を経て村長に就任。
母の昔話によれば無謀にも発電所を作って(作ったはいいが契約者がおらず)破産に瀕したこともあったらしい。
亭主は母方の篠原家(嬬恋村)で育ったので、実は形次郎のことはよくは知らない。
母方の祖父・篠原龍策についてはコチラを参照。
兄が元気なうちに聞いておかねばなるまい。

◆ときの忘れものは2014年4月19日[土]―5月6日[火 祝日]「わが友ウォーホル~氏コレクションより」を開催しています(*会期中無休)。
ウォーホル展DM
日本で初めて大規模なウォーホル展が開催されたのは1974年(東京と神戸の大丸)でした。その前年の新宿マット・グロッソでの個展を含め、ウォーホル将来に尽力された大功労者がさんでした。
アンディ・ウォーホルはじめ氏が交友した多くの作家たち、ロバート・ラウシェンバーグ、フランク・ステラ、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、萩原朔美、荒川修作、草間彌生らのコレクションを出品します。

本日のウォーホル語録

<何人かの人々、中には知的な人(インテリジェント)まで、暴力は美になりえる、と言う。ぼくには、理解できない。美が存在する瞬間は、ぼくにとって暴力的ではありえないからだ。
―アンディ・ウォーホル>


4月19日~5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催していますが、亭主が企画し1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介します。