昨年12月に北九州市立美術館でスタートした柳瀬正夢展が、神奈川県立近代美術館葉山を巡回し、柳瀬の生まれ故郷の松山で開催されています。450ページのカタログが労作です。

「柳瀬正夢1900-1945 時代を生きた、ひたむきな熱情」
会期:2014年4月5日(土)~5月18日(日)
会場:愛媛県立美術館
柳瀬正夢は1900年生まれ。15歳で第2回再興院展に入選、早くからその才能を開花させ、未来派美術協会やマヴォなどの大正期新興美術運動や、プロレタリア美術運動に参加します。32年には治安維持法で逮捕され過酷な拷問を受けます。1945年5月25日空襲で亡くなりますが、45年間という生涯の間に絵画、漫画、装丁、グラフィックデザイン、舞台美術、写真、俳句等多方面にわたる活動を展開しました。
回顧展と同時に京都の三人社から「柳瀬正夢全集」(4巻+別巻)の刊行が始まりました。これまで多くの作品が知られてはいましたが、複数の機関に分散保存されていることなどから、なかなか整理が進まなかった。2009年に編集者や収集家らが全集刊行委員会をつくり、新たな資料の収集と整理・編纂を進め刊行に漕ぎ着けたとのこと。関係者の努力に敬意を表します。
巡回展のカタログの年譜を読んで、死去の前年1944年(昭和19)の項がほとんど空白なのに気づきました。おそらく遺された資料が最も少ないのでしょう。
亭主は1990~1995年にかけて『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』(監修・富山秀男京都国立近代美術館長)の調査・編集に携わっていました。我が国で最も長い歴史を持つ資生堂ギャラリーの歩みと、そこで開催された展覧会の記録を当時の一次資料によって正確に復元したドキュメントですが、その調査には足掛け6年の歳月と膨大なスタッフたちの調査活動が必要でした。おかげで今まで歴史の彼方に忘却されていた展覧会をいくつも発掘することができました。
1944年(昭和19)に柳瀬正夢の関係した展覧会が二つあります。
ひとつが1944年10月「第四回山の繪の會」、しかし詳細が不明で確実に柳瀬が出品したかどうかは確認できていません。
もうひとつが1944年12月(敗戦の8ヶ月前)弁護士正木旲(ひろし)主催の「第七回失明勇士に感謝する素人美術展覧會」で柳瀬が出品しています。個人誌『近きより』に拠って反軍、反権力の言論を展開し、特高警察の目の上のたんこぶだった正木ですが、華族など上流階級を顧客にもつ銀座の高級店資生堂で開くこの展覧会が「弾圧回避に役立った」と後に回想しています。
要約するより、少々長いのですが、二つの展覧会概要は亭主が執筆したものなので、同書から全文を再録します。
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1944.10.23~10.27
第四回山の繪の會*
(だいよんかいやまのえのかい)
【主催】山の絵の会
【作家・概要】山の絵の会は、第一回展を一九四二(昭和一七)年銀座・菊屋画廊(1942.11.12~15/『旬刊美術新報』四二号)で、第二回展は銀座・日本楽器画廊(1943.6.1~10/『旬刊美術新報』六一号)で開いている。
第二回展当時の同人は、茨木猪之吉、伊藤徳衛、林唯一、富田通雄、仰木茂、仰木ゲルトルード、加藤泰三、加藤水城、河村龍興、河越虎之進、吉村唯七、長島重二郎、上田徹雄(哲農)、野末貞次、柳瀬正夢、山下品蔵、松本昇、正井暉雄、古田彰、浅田良助、宮坂千代三の二十一名である。
その趣旨については第二回展の記事に「同会は山を愛し山を登り、好んで山の絵を描く人々に依つて結成され、昨年銀座の菊屋画廊でその旗上げ展を催し好評を博したもので、山に深い理解と熱情を有する同人達が一年間の研究作品を、いづれも三点内外展示する筈」(『旬刊美術新報』六一号)とある。
第三回展については「1944.5.13~15/於新橋・蔵前工業会館」(『美術』七月号)「1944.5.12~16/於銀座・日本楽器画廊」(日美年鑑[国立博物館]一九四四~四六年版)「1944.10.23~27/於銀座・資生堂画廊」(美術八月号)と三つの異なる記事があり、この年五月、蔵前工業会館または日本楽器画廊で第三回展が開かれ、この一〇月に資生堂で第四回展を開催したと思われるが、詳細は不明。
【典拠】朝日一〇月一四日、美術八月号(予告)
*第三回山ノ繪ノ會油彩山岳畫展=美術八月号
【文献】『旬刊美術新報』四二号(一九四二年一一月一〇日)、同六一号(一九四三年五月二〇日)、『美術』七月号、日美年鑑[国立博物館]一九四四~四六年版
1944.12.5~12.7
第七回失明勇士に感謝する素人美術展覧會*
(だいななかいしつめいゆうしにかんしゃするしろうとびじゅつてんらんかい)
【主催】「近きより」社
【作家・概要】「十二月の五・六・七日の三日間、銀座資生堂ギャラリーで失明勇士への感謝の志を表わす第七回目の素人美術展覧会が開かれます。第一回は昭和十三年、それから毎年一回ずつ開き既に昨年までに五百二十六点、金八千円以上の献金を致しましたが、もとより本会の意味は、献金の高は第二義的なもので、第一の目的は、我々素人が人一倍に眼の恩恵に浴しているにつけ、それと反対に、この戦争で失明された同胞のあることを想起しそれらの犠牲者のお陰で我々が今日、視力の悦びを確保されている原理を実践し、以って同胞一体の倫理の開明に資せんとするものなることは、毎回本誌で宣言している通りであります。年を追うて戦争が苛烈になって来ましたので、毎年毎年、『今年は中止のやむなきに至るのではないか』との危惧の念を抱き、本年の如きは、責任者である私も、殆ど望みをかけていなかったのですが幸いにして東京大空襲は未だ来らず、第七回を開催することが出来るのは、偏に国防の任にある皇軍将兵の血闘と、銃後の国民の精励の賜に他ならず、意を強うするに足るのであります。しかし、国民の生活が日増しに不自由、不便、多忙を加え、それに資材労力の不足が甚だしいので、果たして作品が集まる否やを気づかっていましたところ、事実はその杞憂を裏切り、既に続々と出品の申し込みがあり、資生堂ギャラリーをいっぱいにする自信はついたのであります。もっとも本年のギャラリーは衝立がなくなったので、壁面が狭くなりましたので、出品数の減少と壁面の減少とが平衡を保ち、昨年度の如く、何回にもわたる掛け換えや、陳列不能の如き失礼をする恐れがなくてすみそうなのは主催として誠に救われたような感がするのであります」(近きより一一月号)。
正木旲(ひろし)の個人雑誌『近きより』は「官や軍の横暴、無知、恥知らずを非難するに当って、ヒューマニティというかわりに、『大御心』と書き、悪虐、非人道というべきところを『正忠・不臣』と置きかえた。そのためにかなり大胆な時局評ができた。(中略)当時、『近きより』を毎号読んでいた人たちは、私のレトリックを知っていたので、私は相当自由に、思うことを読者に伝えることができたのである。個人雑誌の特権だといってもいいだろう」(『正木ひろし著作集 第五巻』三〇四~三〇五頁)と、後年正木が回想しているように、鋭く時局を批判し続けた正木旲(ひろし)にとって、この展覧会の持つ意味は決して少なくはなかったろう。一九四一(昭和一六)年の第四回展以来毎年資生堂で開催(4110F、4210G、4312H)してきたが、ギャラリーがこの月で閉鎖され、戦局も激化の一方でついにこれが最後となった。本展の開催には正木の友人である三昧堂書店主の堀越震六が第一回から最終回まで終始献身的な助力を惜しまなかった。
海軍軍人佐野万吉(彫刻)、金沢地裁所長小泉英一(日本画)、名古屋の公証人田中貞吉(日本画)、大審院勤務松本倉太郎(彫刻)、東京控訴院勤務小熊忠一、逓信省官吏漆畑広作(水彩)、静岡地裁所長上田操、土井晩翠・八重夫妻、ニギニギ亭檜渡元吉、電通社長光永真三(俳画)、院展同人佐々木永秀(書)、芝浦製作所重役藤井隣次(篆刻)、大木卓、銀座屋主人吾妻貞勝(書)、画家柳瀬正夢(画陶器)、鈴木国久(パステル)、牧師福島重義(色紙)、石原房雄、津島晃雄(油絵)、今井嘉幸(日本画)、正木旲(ひろし)など、二十二名の作品百五点が出品された。
売上げは二千六百八十五円五十銭。経費七百二十九円七十五銭を差し引いた純益金千九百五十五円七十五銭を海陸両方に等分し、「失明勇士への慰問金」として各九百七十七円八十八銭ずつを献金した。
柳瀬正夢は、新興美術運動に参加、『無産者新聞』や『赤旗』に漫画や挿絵を描き直接労働者に働きかけ、日本プロレタリア美術史に大きな足跡を残した洋画家。一九三二(昭和七)年には治安維持法違反で検挙され拷問に遭っている。今回正木の呼びかけに応じて陶器自画の帯止めを出品、岩波書店主の岩波茂雄がそれを購入している。柳瀬は翌年(一九四五)五月、新宿駅で空襲に遭い死去した。
【典拠】近きより一一月号、同一二月号(ただし両号とも復刻版より引用)、美術一〇・一一月号(予告)
*失明勇士慰問素人美術展=美術一〇・一一月号(予告)
【文献】『近きより』全五巻(復刻版) 旺文社文庫 一九七九年、『正木ひろし著作集』全六巻 三省堂 一九八三年
【関連】コラム「正木ひろしと『近きより』」
*『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』270ページより
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いまでこそ資生堂は世界的な大企業ですが、戦前は規模も小さく、関東大震災、昭和大恐慌、太平洋戦争の荒波をもろに受け幾度も経営危機に陥っています。化粧品製造は平和の時代でこその産業で、戦争中に香水などは商売にならない。勧奨退職と召集令状で社員は激減し、作る商品さえなく、ついには身売り話がでていた戦争末期にもかかわらず、資生堂は1944年12月末までギャラリーを閉鎖せず、年間80回もの展覧会を開催していました(それらのことも私たちの調査で判明しました)。美術団体は解散させられ、画材とて不足する時代、他にそんな企業、画廊はほとんどありませんでした。
企業メセナの先駆といわれるだけのことはあります。
◆本日のお勧め作品 津高和一
津高和一
作品(No.501)
1958年
カンバスに油彩
55.0×64.0cm
サインあり
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ただいま常設展示中。
左からベン・ニコルソン、津高和一、山口長男

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「柳瀬正夢1900-1945 時代を生きた、ひたむきな熱情」
会期:2014年4月5日(土)~5月18日(日)
会場:愛媛県立美術館
柳瀬正夢は1900年生まれ。15歳で第2回再興院展に入選、早くからその才能を開花させ、未来派美術協会やマヴォなどの大正期新興美術運動や、プロレタリア美術運動に参加します。32年には治安維持法で逮捕され過酷な拷問を受けます。1945年5月25日空襲で亡くなりますが、45年間という生涯の間に絵画、漫画、装丁、グラフィックデザイン、舞台美術、写真、俳句等多方面にわたる活動を展開しました。
回顧展と同時に京都の三人社から「柳瀬正夢全集」(4巻+別巻)の刊行が始まりました。これまで多くの作品が知られてはいましたが、複数の機関に分散保存されていることなどから、なかなか整理が進まなかった。2009年に編集者や収集家らが全集刊行委員会をつくり、新たな資料の収集と整理・編纂を進め刊行に漕ぎ着けたとのこと。関係者の努力に敬意を表します。
巡回展のカタログの年譜を読んで、死去の前年1944年(昭和19)の項がほとんど空白なのに気づきました。おそらく遺された資料が最も少ないのでしょう。
亭主は1990~1995年にかけて『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』(監修・富山秀男京都国立近代美術館長)の調査・編集に携わっていました。我が国で最も長い歴史を持つ資生堂ギャラリーの歩みと、そこで開催された展覧会の記録を当時の一次資料によって正確に復元したドキュメントですが、その調査には足掛け6年の歳月と膨大なスタッフたちの調査活動が必要でした。おかげで今まで歴史の彼方に忘却されていた展覧会をいくつも発掘することができました。
1944年(昭和19)に柳瀬正夢の関係した展覧会が二つあります。
ひとつが1944年10月「第四回山の繪の會」、しかし詳細が不明で確実に柳瀬が出品したかどうかは確認できていません。
もうひとつが1944年12月(敗戦の8ヶ月前)弁護士正木旲(ひろし)主催の「第七回失明勇士に感謝する素人美術展覧會」で柳瀬が出品しています。個人誌『近きより』に拠って反軍、反権力の言論を展開し、特高警察の目の上のたんこぶだった正木ですが、華族など上流階級を顧客にもつ銀座の高級店資生堂で開くこの展覧会が「弾圧回避に役立った」と後に回想しています。
要約するより、少々長いのですが、二つの展覧会概要は亭主が執筆したものなので、同書から全文を再録します。
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1944.10.23~10.27
第四回山の繪の會*
(だいよんかいやまのえのかい)
【主催】山の絵の会
【作家・概要】山の絵の会は、第一回展を一九四二(昭和一七)年銀座・菊屋画廊(1942.11.12~15/『旬刊美術新報』四二号)で、第二回展は銀座・日本楽器画廊(1943.6.1~10/『旬刊美術新報』六一号)で開いている。
第二回展当時の同人は、茨木猪之吉、伊藤徳衛、林唯一、富田通雄、仰木茂、仰木ゲルトルード、加藤泰三、加藤水城、河村龍興、河越虎之進、吉村唯七、長島重二郎、上田徹雄(哲農)、野末貞次、柳瀬正夢、山下品蔵、松本昇、正井暉雄、古田彰、浅田良助、宮坂千代三の二十一名である。
その趣旨については第二回展の記事に「同会は山を愛し山を登り、好んで山の絵を描く人々に依つて結成され、昨年銀座の菊屋画廊でその旗上げ展を催し好評を博したもので、山に深い理解と熱情を有する同人達が一年間の研究作品を、いづれも三点内外展示する筈」(『旬刊美術新報』六一号)とある。
第三回展については「1944.5.13~15/於新橋・蔵前工業会館」(『美術』七月号)「1944.5.12~16/於銀座・日本楽器画廊」(日美年鑑[国立博物館]一九四四~四六年版)「1944.10.23~27/於銀座・資生堂画廊」(美術八月号)と三つの異なる記事があり、この年五月、蔵前工業会館または日本楽器画廊で第三回展が開かれ、この一〇月に資生堂で第四回展を開催したと思われるが、詳細は不明。
【典拠】朝日一〇月一四日、美術八月号(予告)
*第三回山ノ繪ノ會油彩山岳畫展=美術八月号
【文献】『旬刊美術新報』四二号(一九四二年一一月一〇日)、同六一号(一九四三年五月二〇日)、『美術』七月号、日美年鑑[国立博物館]一九四四~四六年版
*『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』268ページより
1944.12.5~12.7
第七回失明勇士に感謝する素人美術展覧會*
(だいななかいしつめいゆうしにかんしゃするしろうとびじゅつてんらんかい)
【主催】「近きより」社
【作家・概要】「十二月の五・六・七日の三日間、銀座資生堂ギャラリーで失明勇士への感謝の志を表わす第七回目の素人美術展覧会が開かれます。第一回は昭和十三年、それから毎年一回ずつ開き既に昨年までに五百二十六点、金八千円以上の献金を致しましたが、もとより本会の意味は、献金の高は第二義的なもので、第一の目的は、我々素人が人一倍に眼の恩恵に浴しているにつけ、それと反対に、この戦争で失明された同胞のあることを想起しそれらの犠牲者のお陰で我々が今日、視力の悦びを確保されている原理を実践し、以って同胞一体の倫理の開明に資せんとするものなることは、毎回本誌で宣言している通りであります。年を追うて戦争が苛烈になって来ましたので、毎年毎年、『今年は中止のやむなきに至るのではないか』との危惧の念を抱き、本年の如きは、責任者である私も、殆ど望みをかけていなかったのですが幸いにして東京大空襲は未だ来らず、第七回を開催することが出来るのは、偏に国防の任にある皇軍将兵の血闘と、銃後の国民の精励の賜に他ならず、意を強うするに足るのであります。しかし、国民の生活が日増しに不自由、不便、多忙を加え、それに資材労力の不足が甚だしいので、果たして作品が集まる否やを気づかっていましたところ、事実はその杞憂を裏切り、既に続々と出品の申し込みがあり、資生堂ギャラリーをいっぱいにする自信はついたのであります。もっとも本年のギャラリーは衝立がなくなったので、壁面が狭くなりましたので、出品数の減少と壁面の減少とが平衡を保ち、昨年度の如く、何回にもわたる掛け換えや、陳列不能の如き失礼をする恐れがなくてすみそうなのは主催として誠に救われたような感がするのであります」(近きより一一月号)。
正木旲(ひろし)の個人雑誌『近きより』は「官や軍の横暴、無知、恥知らずを非難するに当って、ヒューマニティというかわりに、『大御心』と書き、悪虐、非人道というべきところを『正忠・不臣』と置きかえた。そのためにかなり大胆な時局評ができた。(中略)当時、『近きより』を毎号読んでいた人たちは、私のレトリックを知っていたので、私は相当自由に、思うことを読者に伝えることができたのである。個人雑誌の特権だといってもいいだろう」(『正木ひろし著作集 第五巻』三〇四~三〇五頁)と、後年正木が回想しているように、鋭く時局を批判し続けた正木旲(ひろし)にとって、この展覧会の持つ意味は決して少なくはなかったろう。一九四一(昭和一六)年の第四回展以来毎年資生堂で開催(4110F、4210G、4312H)してきたが、ギャラリーがこの月で閉鎖され、戦局も激化の一方でついにこれが最後となった。本展の開催には正木の友人である三昧堂書店主の堀越震六が第一回から最終回まで終始献身的な助力を惜しまなかった。
海軍軍人佐野万吉(彫刻)、金沢地裁所長小泉英一(日本画)、名古屋の公証人田中貞吉(日本画)、大審院勤務松本倉太郎(彫刻)、東京控訴院勤務小熊忠一、逓信省官吏漆畑広作(水彩)、静岡地裁所長上田操、土井晩翠・八重夫妻、ニギニギ亭檜渡元吉、電通社長光永真三(俳画)、院展同人佐々木永秀(書)、芝浦製作所重役藤井隣次(篆刻)、大木卓、銀座屋主人吾妻貞勝(書)、画家柳瀬正夢(画陶器)、鈴木国久(パステル)、牧師福島重義(色紙)、石原房雄、津島晃雄(油絵)、今井嘉幸(日本画)、正木旲(ひろし)など、二十二名の作品百五点が出品された。
売上げは二千六百八十五円五十銭。経費七百二十九円七十五銭を差し引いた純益金千九百五十五円七十五銭を海陸両方に等分し、「失明勇士への慰問金」として各九百七十七円八十八銭ずつを献金した。
柳瀬正夢は、新興美術運動に参加、『無産者新聞』や『赤旗』に漫画や挿絵を描き直接労働者に働きかけ、日本プロレタリア美術史に大きな足跡を残した洋画家。一九三二(昭和七)年には治安維持法違反で検挙され拷問に遭っている。今回正木の呼びかけに応じて陶器自画の帯止めを出品、岩波書店主の岩波茂雄がそれを購入している。柳瀬は翌年(一九四五)五月、新宿駅で空襲に遭い死去した。
【典拠】近きより一一月号、同一二月号(ただし両号とも復刻版より引用)、美術一〇・一一月号(予告)
*失明勇士慰問素人美術展=美術一〇・一一月号(予告)
【文献】『近きより』全五巻(復刻版) 旺文社文庫 一九七九年、『正木ひろし著作集』全六巻 三省堂 一九八三年
【関連】コラム「正木ひろしと『近きより』」
*『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』270ページより
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いまでこそ資生堂は世界的な大企業ですが、戦前は規模も小さく、関東大震災、昭和大恐慌、太平洋戦争の荒波をもろに受け幾度も経営危機に陥っています。化粧品製造は平和の時代でこその産業で、戦争中に香水などは商売にならない。勧奨退職と召集令状で社員は激減し、作る商品さえなく、ついには身売り話がでていた戦争末期にもかかわらず、資生堂は1944年12月末までギャラリーを閉鎖せず、年間80回もの展覧会を開催していました(それらのことも私たちの調査で判明しました)。美術団体は解散させられ、画材とて不足する時代、他にそんな企業、画廊はほとんどありませんでした。
企業メセナの先駆といわれるだけのことはあります。
◆本日のお勧め作品 津高和一
津高和一作品(No.501)
1958年
カンバスに油彩
55.0×64.0cm
サインあり
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