森下泰輔のエッセイ

「私のAndy Warhol体験 - その5 アンディ・ウォーホル365日展、1983年まで」


アンディ・ウォーホルは60年代、自己というものを消去する重要ないくつかの行為を行っている。そのひとつは、ジョン・ドゥ (*山田太郎といった匿名的名称。「訴訟で実名不明のときに付ける当事者(原告)の男性の仮名:並みの人」) への改名だ。これなどもデュシャンの「ローズ・セラヴィ」と比較される。しかし、ほどなく戻した。ちなみに私が80年代に制作し、現在ドイツのメディア・アート美術館、ZKMに収蔵されている非常階段、ホワイト・ホスピタルに協力を仰いだ全編ノイズまみれの映像作品「Jane Doe 66」(1989)は、また、ジョン・ドゥ的概念で制作された。元来、米国では身元不明死体にもこの名称を用いている。男性はジョン・ドゥ、女性がジェーン・ドゥである。私は当時起こったロス疑惑において砂漠で発見された身元不明死体がジェーン・ドゥとあったことからこのビデオ作品を作った。
また70年代「マンガNo.1」という大赤字を出した自主制作マンガ雑誌を発刊した漫画家の赤塚不二夫は、一時「山田一郎(太郎ではなく一郎というのがミソ。*そもそも日本には山田太郎という名前の歌手がすでに存在したせいか)」に改名したが、「ああ、ウォーホルの影響だな」と思ったことも付け加えておく。赤塚は生前、アンディ・ウォーホルについて、「僕らの時代の孤独を知っている男だ」とコメントしている(*私はかつて赤塚不二夫の漫画担当編集者だったこともあった)。

「60年代はアンディ・ワーホールと呼んでいたのが、いつの間にかアンディ・ウォーホルに変った。彼は一度「山田太郎」みたいなティピカルな名に改名したことがあったが、また元にもどした。匿名になりたかったんだろう。」(横尾忠則)

さらに、60年代、アラン・ミジェット(*小人という意味もある)というソックリさんを雇い、ウォーホル自身の影武者にして、大学の講演会にいかせたこともあった。誰一人本物のアンディを疑う者はいなかった。サインを求められれば「A.M.」と書く。「A.W.」というアンディのイニシアルのサインと区別がつかなかったという。フォーク歌手、ボブ・ディランの英国ツアー・ドキュメント映画「Don’t Look Back」(1965)にもこんなシーンがある。ディランがツアーでのあまりのブーイングに耐え兼ね、「別のボブ・ディランを雇って、そいつにやらせる」というのだ。60年代とは、自己というもの、あるいはメディアのイメージというものに関して疑義を呈した時期でもあった。あのポール・ゴーギャンの有名な作品「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのかD'ou venons-nous ? Que sommes-nous ? Ou allons-nous ?」(1897~1898)のような自己同一性に対する見解がさまざまなところに存在した時代だったのである。ウォーホルのアノニマスへの興味と言及もそんな背景と関係していた。

「僕の絵はシルクスクリーンで簡単に作れる。みんなが僕の絵を作るようになったらいいのに」「僕はみんなが同じ顔、同じ名前だったらいいと思う。そうすれば差別はなくなるから」(アンディ・ウォーホル)

 しかしながら一方で、このことに関連してまだいくつかの事柄がある。たとえば、ウォーホルは自己同一性の否定のような禅問答を語っているかと思いきや、他方では、彼の言葉通りにマリリンのシリーズを制作しようとしたドイツ人とベルギー人の若い2人組に対し、はじめはヨーロッパ・エディション版のマリリン・シリーズを許可しながらも途中で拒否したらしい。彼らは、サンデー・B・モーニングと名乗り、ファクトリー・エディションのマリリン・モンロー・シリーズと全く同じ作品を量産した。裏面には「Fill in your own signature」とあり、作者はサインをした人、という、むしろウォーホル流のイロニーに満ちていた(この経緯については諸説あるのも間違いないが)。だが、このシリーズに、「This is not by me」とアンディ・ウォーホルが書いたものがあり、私はその証拠といえるものを入手している(*画像参照。この件はウォーホルのプリント・カタログ・レゾネ「Andy Warhol Prints フェルドマン&シェルマン版」にも注釈として掲載されている)。思うに60年代に提示したシリアス・アート時代の概念を70年代になって「ビジネス・アート」に変節したウォーホルは反故にしてしまった感が強い。ビジネス・アーティストになったウォーホルは、作者性・ブランド性を主張せざるを得なくなったのだと考えられる。そこが、アンディ・ウォーホルの概念の、またはアートというものの限界点でもあった。

もうひとつ、アンディ・ウォーホルは今日いうところの「アートワールド」の発生に深くかかわっているように思える。きらきらとしたアートのパラダイス、幻想の共同体。これはウォーホルが発明したひとつの成果だろう。365日アートで都市がきらきらわくわくしている。現在のアートワールドはロンドン、ニューヨークはもちろん香港、北京、上海、ソウル、シンガポール、ドバイを巻き込みきらきら人工的なまばゆい光を放ち続けている。だが、なぜか東京はそこからボイコットされているようだ。東京は美術館企画主導型の古い美術界のままで、ますます自国内で閉塞していくようにも見える。海外が注目するのはポップ・カルチャー(*海外からはオタクカルチャーは単にジャパニーズ・ポップ・カルチャーと呼ばれる)だけだが、日本のポップ・アートではないようだ(*村上隆が奮闘しているにせよ)。
それはこの国が想像以上に伝統的なファンタズマ(幻影)を独自に根深く内部に抱え込んでしまっているせいもあるかと思われる。

大きくいうと哲学者、アーサー・ダントーがその評論「アートワールド(1964)」で指摘していたとおり、ウォーホルを解釈するのにアートワールドが必要だということだ。アンディ・ウォーホルの60年代とは今日でいうところのアートワールドが発生した最初の契機となった。現代アーティスト、美術館キュレーター、コレクター、ギャラリスト、アート・ジャーナリスト、アート関係者、カメラマン、ダンサーや演劇人、ロックスター、モデル、ハリウッドスターなどのセレブリティ、映画監督、ビートニク、ヒッピー、ジャンキー。これらが入り交じって華やかなアートワールドを形成していた。ウォーホルが記録しているのは芸術の中身に関してというより、こうした人々の生態であるともいえる。というより彼らの生態そのものがアンディのアート作品でもあった。そして、まるで株式市況のニュースのように皆が次のアートスターを求めて夜通し何らかの話題を提供している。ダントーは「アートワールドがなければウォーホルの作品は存在できなかった」といったが、確かに彼こそアートワールドが作った最初の美術家だったのかもしれない。
ウォーホルの自伝「POPism」(アンディ・ウォーホル、パット・ハケット著 A Harvest刊 1980)を読んで、驚くことのひとつはまだアーティスト・デビューしたての無名時代、63年にすでにマルセル・デュシャンやデビュー直前のミック・ジャガーやストーンズと親しかったということだ。ストーンズがレコードを発売する前である。このときミック・ジャガーはまだロンドン経済大学(London School of Economics)在学中だった。それどころかメトロポリタン美術館の大物キュレーター、ヘンリー・ゲルツァーラーや当時レオ・キャステリ・ギャラリー(*私はNYでキャステリに2度、東京で1度会ったが)にいたアイヴァン・カープとも親しかった。つまりアートワールドは初めからウォーホルを受け入れていたのだ。彼が有名になってから人脈ができたのではなくて、人脈があったので偉大な芸術家になれたのである。これは美術とは人脈である、ということを分かりやすく物語っている。そして初期ウォーホルの目標は「ピカソが僕を認識すること」だった。彼がピカソを尊敬していたのは作品の内容ではなく、「作品の数がべらぼうに多いから」。なるほどと思う。ここでもウォーホルは発想の転換をしている。それでシルクスクリーンを使用し数時間で1枚キャンバスが仕上がるような方法論をとり、膨大な作品の”生産”に入った。彼にとってはアートワールドという外部にできるだけたくさんの作品を提供する、その際、作品の内容は退屈なほうがいい、まるでテレビからくるイメージのように、そのような戦略だったわけで、この概念は最大の皮肉を含みながら正確に実行された。なぜその辺に転がっているできるだけ退屈なイメージを使用したのかというと、クリシェ(陳腐)なイメージは人々には空気みたいなもので実は見えないからなのだ。イメージがあるのだけれども、当時モダン絵画からミニマルに至った道程を彼は意識していたとしか思えない。つまりイメージを意図的にできるだけ消去し、ミニマルの概念を使用する、キャンバスの“端”を見せる効果をそこにもたらすためだと思われる。メディアのイメージ(たぶんインターネットも)が幽霊(ファンタズマ)であることを証明し、自らも幽霊となった。仕上げはアートワールドという幻影のなかで自らの幻影がもてはやされ、作品が高額になることだった。彼の作品は現在100億をゆうに超えるので、見事にやってのけたのだ。あっぱれとしかいいようがない。このこと自体がひとつのバカバカしいイロニーに見えるように意図的にそれは行われた。なんということだろう。ここまでやられるとこの方法論は二度とつかえない。永久欠番だ。次代のアーティストはこれを模倣せずにこれを乗り超えなければならない。さて、難問だ。もちろんレディメイド・イメージで構わなくなったのには先人デュシャンの存在があったわけで、ウォーホルはそれもたくみに利用している。初期にデュシャンを撮影するのだが、彼の脳裏にあったのは「デュシャンはすごいけど、もう老人だ。僕の方が新しい世代なのだ」という自覚だった。

さて、話を日本におけるウォーホル受容史に戻そう。先日、森美術館で1983年、「アンディ・ウォーホル365日展(*アンディ・ウォーホル展 1983~1984)」の際のジャパン・エディション「KIKU」の誕生物語に関する講演があり、私も聞きに行った。本ブログの管理者、「ときの忘れもの」亭主(綿貫不二夫)も登壇していた。摺師・石田了一が当時ビデオ撮影したウォーホルやスタジオ風景は貴重なものだし、興味深く拝見させていただいた。この講演の内容やこの時のことに関しては、ご当人たちがより詳しく述べると思うので、ここでは少し印象に残ったことを書いてみることにする。
まず、この企画を持ち込んできたのが、1974年の大丸個展時もかかわった映像作家の宮井陸郎だったことについて。「大丸の時は話題にはなったが、まだ、ウォーホルは日本で本格的には評価されなかった。今回は、ウォーホルの真のすごさを日本に定着させたい」(宮井)というのが動機だったという点において、日本でのアンディ・ウォーホル評価が想像以上に立ち遅れていた感は否めないものがある。いまでこそ彼の美術史での評価はともすればピカソを超えている(*一例として。金融経済通信社ブルームバーグによると、オークションでのウォーホル作品の売上総額は2012年で3億8030万ドル(約387億円)に上り、パブロ・ピカソを抜いてトップだった )が、当時は日本ではスキャンダラスな色物扱いであった。ウォーホル自身も「あらゆる世界の流行がたちまち日本に取り入れられるのに、現代美術だけがどうして流行らないのだろう」といっていたという。この状況はある意味、現在まで尾を引いている。原因はいろいろあるだろうが、ここでは枚挙にいとまはない。
もう一つ講演で印象に残ったことは、はじめ、ウォーホル日本エディションの画題候補が、「長嶋茂雄、美空ひばり、山口百恵、富士山だった」(GALLERY 360°ディレクター、根本寿幸)という話。この時のカタログに東野芳明、日向あき子、寺山修司、石岡瑛子らにまじり私も執筆させていただいたが、次のように書いていた。「世田谷の大宅文庫では、著名人の週刊誌上での露出頻度をリストアップしている。今のところナンバー・ワンは田中角栄、2番目が長嶋茂雄だ。初期のA.W.はこれと似た方法を用い、映画スターや、ごくありふれた洗剤の箱をモチーフにしている。(中略)ビートルズ同様に社会現象になったA.W.は、今度は自らがメディアのキーステーションとなって、マスイメージの仕掛け人の側に回った」と。つまり、同様のプランを展覧会実行委員会側が立案していたのだ。エルビス、マリリンなどの肖像をシルクスクリーン・プリントして登場した彼にしてみれば当然の提案だったろう。だが、ウォーホルはこれらを却下したのか、最終的に菊と桜から菊の写真を選択した。「菊は日本の象徴(天皇)だから」とアンディ・ウォーホルが誰かにいっていたという噂もある。ならば彼らしい持って行き方だと心得る。大阪万博のときの「レイン・マシン」でひな菊をモチーフにしたが、水に濡れてダメになり本懐を遂げられなかったことへのリベンジだった可能性もあるだろう。彼がもうこの世に存在しないことから真意は特定できないままである。

この図録中で記憶に残った言葉を引用しよう。

「ウォーホール(*ママ)、15分四方に花を活け Warhol arranges a Flower in fifteen square minutes.」(ガリバー・安土修三)

74年、大丸個展の時にウォーホルは「いけばな」シリーズ全10点をエディションしたがその評価は芳しくなかった。だが、この「いけばな」という概念はアンディの作品観に極めて近いのではないか? しいていうなら「人間生け花」もしくは「物事の生け花」、が彼の作品だとしたら納得がいく。彼はみんなが知っている「人」「こと」「もの」を「生け花」にしていたのである。ここでもアンディ・ウォーホルは間違いなく日本的な感覚を使用していたのだ。
あとは、日本のTDKのTVコマーシャルにアンディ・ウォーホルが出演したことや、サントネージュ・ワインのカレンダーのためにアンディが坂本龍一をモデルに3作品(*この作品は新宿西口の三菱銀行ショーウィンドウに展示され、私はそのとき見にいっている。そのカレンダーも入手している)を受注制作したことなどはいずれも1983年に集中して起こっており、このことが「365日展」がらみであったことなども講演会で興味深く拝聴した。1987年2月22日にウォーホルは半ば医療ミス同然で急逝したので、この期にジャパン・エディションを成し遂げたことは、本当に大変なご苦労だっただろうが偉業だったと思う。

「僕の墓には何も書かないのがいいと前から考えていた。墓碑銘も名前も。まあ、僕としてはこういいたいんだ。みんな“虚構”でしたと」「死んだらぱっと消えてなくなったらいいと思う」「もし生まれ変われるものならエリザベス・テイラーの指輪になりたい」(アンディ・ウォーホル)

(敬称略)
もりしたたいすけ
続く

jane doe66
森下泰輔映像作品「Jane Doe 66」(1989)

サンデーbモーニング
サンデー・B・モーニング版「マリリン・モンロー」(筆者蔵)

this is not by me
裏面に「This is not by me. Andy Warhol」と書かれたサンデー・B・モーニング版(1970年代)

Claudes_show_
「Claude Pelieu Show」に出演したアラン・ミジェット(左)

渋谷パルコオープニング1983
「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」パルコでのオープニング(1983)

菊を刷る石田了一
菊を刷る石田了一(1983)

森下泰輔「私の Andy Warhol 体験」
第1回 60年代
第2回 栗山豊のこと
第3回 情報環境へ
第4回 大丸個展、1974年
第5回 アンディ・ウォーホル365日展、1983年まで
第6回 A.W.がモデルの商業映画に見るA.W.現象からフィクションへBack Again

■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。先日、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。