今日は7月2日。
敬愛する恩地孝四郎、岡鹿之助、そして浅丘ルリ子、小柳ルミ子、南沙織の美しい人たちの誕生日であります。
そして何を隠そう、本日亭主は無事、69歳を迎えました。
新聞社勤めのサラリーマンから画商に転身してちょうど40年になります。
お世話になった方のことは少し雑誌『彷書月刊』に書いたことがあります。
40年間の紆余曲折、すったもんだのあれこれについては、皆さん聞き飽きた(読み飽きた)でしょうが、本日は本ブログ初公開の画像をいくつか掲載して(目先を変えて)、社長との二人三脚40年間をふりかえってみたいと思います。
1965年8月29日音楽センター綿貫不二夫
1965年8月29日20歳になったばかりの亭主。
場所:レイモンド設計の群馬音楽センター
高崎高校マンドリン・オーケストラの演奏会にて。
亭主の原点はマンドリン(音楽)であり、そこで知遇を得た井上房一郎さんが美術界への扉をあけてくださいました。

19740331高輪プリンスホテル オークション
1974年3月31日28歳の亭主。
場所:東京・高輪プリンスホテル
この日が亭主の美術界デビュー(現代版画センター旗揚げオークション)
立っている左から、上司の山本さん、亭主、飯田橋にあった伝説のバー憂陀の金森さんの奥さんで作家の金森敦子さん、渡部さんと高杉さんは毎日新聞の同僚です。
亭主が勤務していた毎日新聞社の上司を口説いて「未来の毎日新聞読者を獲得するために、版画の普及運動を起こし、全国の学校にオリジナル版画を寄贈する」という事業計画をたて、7,000万円の資金を出してもらい会員制による集団版元・現代版画センターを創立しました。
久保貞次郎先生を顧問に、小コレクターの会の尾崎正教先生が事務局長、亭主が次長(会社ではただのヒラ社員でしたから、代表は上司の西本董さんが就任。のち法人化するにあたり亭主が社長に就任しました)という態勢で発足しました。
この日は「全国版画コレクターの会(仮称)準備会」の名で旗揚げオークションを開催、会場のプリンスホテルには亭主の大学時代の親友O君が就職していたので、格安で大広間二つを貸切り、全国から250名の参加者を集め幸先のよいスタートを切ることができました。

19740720盛岡第一画廊オークション 尾崎正教
1974年7月20日29歳の亭主。
場所:盛岡のMORIOKA第一画廊
全国に先駆けて盛岡の画廊の上田浩司さんが現代版画センター盛岡支部をつくってくれ、現代版画センターの初企画「全国縦断 版画への招待展」を開催してくれました。
この日、東京からも島州一先生、森義利先生はじめ20人ほどが北上し、盛岡のお客さまたちと白熱のオークションを展開しました。フリ師をやっているのが尾崎先生、隣でハンマーをたたいているのが亭主です。まだ毛は濃い。

19741007ギャラリープラネット 久保貞次郎 池田令子 木村光佑
1974年10月7日24歳の社長
左から久保貞次郎先生、社長、木村光佑先生。
場所:銀座・ギャラリープラネート
発足当初は当然のことながら自前の作品(エディション)がなかったので、久保先生や小コレクターの会から提供していただいた作品で全国を回っていたのですが、この日ようやくまとまった数のエディション作品が出来上がり、そのお披露目の展覧会を開催しました。
現代版画センターの記念すべき初エディションは靉嘔先生の「I love you」、名人刷り師・岡部徳三さんが手刷りで11,111部を刷りあげました。
余談ですが会場となったギャラリープラネートは高名な作家T先生の女婿が経営者でしたが、この展覧会の終了後、売上金をもって夜逃げしてしまい、今に至るも行方不明です(泣)。
このとき社長(池田さん)はまだ客で、亭主とは他人の間柄であります。
後に亭主の口車に乗せられて現代版画センター事務局に入り辛酸をなめることに・・・

1974和歌山県紀南画廊オークション
日時不明:オークションで作品を売る亭主(左)。
場所:和歌山県の紀南画廊
亭主はカルトンケースに版画を詰め込んで、支部や会員のつてを頼り、つての無いところは飛び込みで全国各地を尋ね、10年間の行商で全都道府県を制覇。

1976_12_20大嶺薫美術館にてオークション
1976年12月20日31歳の亭主。
場所:沖縄の大嶺薫美術館
北海道から沖縄まで、ときには月に11箇所も回って頒布会やオークションを開催しました。沖縄は今は亡き大浜用光さんが支部長でした。
画廊沖縄の上原さんとはこの頃からのお付き合いです。

19780918ギャラリーミキモト 難波田展オープニング 松永健一
1978年9月18日33歳の亭主。
(左から亭主、松永伍一先生、難波田龍起先生と奥様)
場所:銀座・ギャラリーミキモト
亭主のつくったエディションでも会心の作が難波田先生の銅版画集『街と人』『海辺の詩』です。その発表記念展にて。

1979年6月
1979年6月29歳の社長
場所:東京渋谷の現代版画センター事務局
亭主にだまされ、月給5万円で働かされ、千葉県市原から毎日往復6時間かけて渋谷に通う日々でした。
この写真、昨日ときの忘れもののスタッフに見せたのですが、誰だかわからなかった・・・・歳月人をまたず。

19790605東大磯崎新展オープニング 磯崎新 横山正
1979年6月5日33歳の亭主。
(左から亭主、磯崎新先生、横山正先生)
場所:東京駒場・東京大学教養学部美術博物館「磯崎新展」オープニング。
この年の春、教えを受けた南画廊の志水楠男さんが非業の死を遂げました。その告別式の帰途、東大でデュシャンの大ガラスの東京バージョン設置に奔走していた横山正先生から「大ガラスの設置は、現代美術の資料センターとしての遠大な構想の一環であり、今後の展開のために磯崎新展を開催したい」という相談を持ちかけられました。1977年のサンパウロ・ビエンナーレに出品した「空洞としての美術館」をエディションして以来、磯崎先生の版画制作は亭主のライフワークとなっていました。かくして「マルセル・デュシャンのポスター展」に続いて「磯崎新展」が6月5日~7月6日に開催されました。

菅井汲サイン 猿楽町マンション
1980年某月某日35歳の亭主。
(左から、自作にサインをする菅井汲先生、サポートする社長、影の薄い亭主)
場所:渋谷の某マンション
社長と亭主の愛の巣でしたが、実態は現代版画センターの在庫の山がうずたかく積んでありました。

大岡信 上甲ミドリ
1980年10月35歳の亭主
(左から、大岡信先生、上甲ミドリさん、亭主)
場所:渋谷の東天紅
この年、パリの菅井汲先生の二度目の全国展を新作エディション「GUEST」「GROUP」連作で企画し、東京は佐谷画廊さんが会場でした。
展覧会終了後、帰国した菅井先生を囲み現代版画センターのあった渋谷で会食会を開きました。菅井先生が選んだメンバーは、大岡信、飯田善國 三島喜美代、上甲ミドリ、海藤日出男、中原佑介、そして亭主とカタログのテキストを執筆してくれた北川フラムの諸氏でした。

19810301ギャラリー方寸オープニング 瑛九展
1981年3月1日35歳の亭主。
場所:ギャラリー方寸「瑛九 その夢の方へ」展オープニング
現代版画センターの常設ギャラリーとして渋谷区松濤に「ギャラリー方寸」をつくり、その開廊記念展でした。
挨拶するのは瑛九とも親交した難波田龍起先生。左端が社長。亭主の右はオノサト・トシノブのコレクターとして有名だった藤岡時彦さん夫妻。

19810517松欅会 瑛九展 木水育男
1981年5月17日35歳の亭主
場所:愛知県豊田の美術館松欅堂「瑛九展」講演会
福井瑛九の会の木水育男さんと亭主。
豊田の小林さんは鉄工所を営み、奥様が大の版画コレクターでした。お子様がなく、苦労をかけた奥様にコレクションを飾る展示スペースをつくってあげたいというご主人の愛情から、原広司先生の設計による小美術館の傑作が生まれました。

1981年11月森工房オープニング_原広司_飯沼瑛
1981年10月24日36歳の亭主。
場所:長野県坂城の森工房のオープニング
左から設計者の原広司先生、亭主、松本支部の飯沼瑛さん。
松欅堂を見たリトグラフの刷り師森仁志さんが世界最大級のプレス機を設置するための工房の設計を原先生に依頼しました。森さんには福沢一郎、大沢昌助関根伸夫などの刷りをお願いしました。

西田画廊 オープニング 堀内正和
1982年1月24日36歳の亭主
場所:奈良・西田画廊開廊記念「堀内正和・磯崎新展」オープニング
挨拶する堀内正和先生、その右が西田考作さん、亭主。

19820409プリントシンポジウム展 ギャラリー方寸 岡部徳三 斎藤義重
1982年4月9日36歳の亭主
場所:ギャラリー方寸「プリントシンポジウム展」オープニング
左から、岡部徳三さん、斎藤義重先生、亭主

1982_05_07_ギャラリー方寸大沢昌助展
1982年5月7日36歳の亭主(前列中央)。
場所:ギャラリー方寸「大沢昌助展」のオープニング。
大沢先生はじめ、難波田龍起、堀内正和、ガストン・プチ、建畠覚造、関根美夫の諸先生の顔も見えます。

1983_6_7_パルコウォーホル展オープニング_針生一郎
1983年6月7日37歳の亭主と針生一郎先生。
場所:渋谷パルコ
アンディ・ウォーホル展のオープニング
亭主の画商人生の最大の博打だったウォーホル全国展、「KIKU」のエディションの発表がこの日でした。
針生先生は現代版画センターの運動面での評価を最初に「朝日ジャーナル」誌上でしてくれ、以後各地の支部での講演、機関誌「版画センターニュース」への「現代日本版画家群像」執筆などたいへんお世話になりました。

1983_7_23_大谷石ウォーホル展_石田了一
1983年7月23日38歳の亭主と石田了一さん。
場所:宇都宮大谷・屏風岩の地下採石場跡
上掲、パルコに続いてウォーホル展の会場となったのが故・渡辺興平さん所有の地下巨大空間でした。
シルクスクリーンの天才刷り師として石田さんは亭主のエディションの多くに参加してくれました。
彼が刷ってくれたのは、森義利、関根伸夫、菅井汲、元永定正、アンディ・ウォーホル、草間彌生、堀内正和、磯崎新、安藤忠雄etc., いまは光嶋裕介さんの作品と格闘中。
石田さんは亭主の仕事上のパートナーですが、露天風呂愛好会の会長でもあり(正会員5名、亭主が迷幹事長)、温泉でも全国制覇を目指しております。

GAギャラリーオープニング 磯崎新 宮脇愛子
1983年11月38歳の亭主
場所:東京・GAギャラリー開廊記念「磯崎新展」オープニング
左から、磯崎新先生、宮脇愛子先生、亭主、二川幸夫さん。
二川さんが夢だった建築ギャラリーをオープンするとき、以前から決めていたのは学生時代からの盟友磯崎新先生の展覧会でした。展示したのは亭主のエディションした還元、MoCAシリーズなどの版画作品でした。

1984_9_15_シェラトンウォーホル美ウォーホル展_李慶成
1984年9月39歳の亭主と李慶成さん。
場所:韓国ソウルのシェラトン・ウォーカーヒル美術館のウォーホル展。
後に国立美術館の館長となる李慶成さんが韓国初のウォーホル展を企画され、作品を貸し出した私たちをソウルに招待してくださいました。まだ当時は政治的に難しい時期で、「毛沢東」などは出展できませんでした。

1985年2月39歳、現代版画センター倒産

*1974~1985年の「現代版画センターの記録」については少しづつまとめていきます。

1987年3月_三越シャガール展司会綿貫
1987年3月3日41歳の亭主
場所:日本橋三越本店の「マルク・シャガール回顧展」オープニング。
倒産した亭主は全てを失い、浪人となり、コンビニの店員をしながら後始末に明け暮れる毎日でした。その始末が一段落し、「残りの人生を考えなさい」といわれ、就職したのがフランス人の経営する企画会社でした。才色兼備の秘書をあてがわれ、日本語以外しゃべれない亭主のフランス通いが始まり、ニースのシャガール夫人を訪ね、生誕100年記念の大展覧会を企画しました。
故・中山公男先生(群馬県立近代美術館館長)に監修をお願いして、東京会場は、当時岡田事件で揺れていた三越に復帰、社長に就任した坂倉芳明さんに直談判してペルシャの秘宝(偽物)展以来封印されてきた美術展再開の第一弾として開催していただきました。
この夜、初来日のヴァランティーナ・シャガール夫人、国立マルク・シャガール聖書のメッセージ美術館シルヴィー・フォレスティユ館長らを招いた三越としては数年ぶりのレセプションが盛大に開催され、亭主が司会を務めました。

1988年パリ・カルナヴァル美術館モンゴルフィエ館長
1988年某月某日43歳の亭主
場所:パリ・カルナヴァレ美術館の屋上
200年前、熱気球を発明し、世界で初の有人飛行を行なったモンゴルフィエ兄弟の末裔である館長のモンゴルフィエ夫妻と、亭主のアシスタントだった中原千里さん

1989年4月3日_NY再訪拓野
1989年4月43歳の亭主と次男拓野、社長、友人のお嬢さん。
(撮影は長男の雄高)
場所:ニューヨーク
1989年はフランス革命200年、エッフェル塔竣工100年にあたります。
フランス人のボスの愛国心に訴え、シャガール展に続き中山公男先生に監修をお願いして<エッフェル塔100年のメッセージ【建築・ファッション・絵画】>を企画し、海外への出張が多くなりました。今まで仕事に明け暮れ家族旅行などしたことがなかったのですが、友人のお嬢さんを交え、ニューヨークを再訪しました。

1991年10月4日~10月6日_勝山_難波田展令子
1991年10月46歳の亭主と社長、上田浩司さん。
場所:福井県勝山市の中上邸イソザキホール
現代版画センターの顧客だった中上さんが自宅を建て替えることとなり、亭主が磯崎新先生を紹介して実現した住宅建築の傑作です(1983年竣工)。個人住宅であるとともに、地域の文化センター的な役割を担ってきました。
中上さんのおかげで亭主は勝山の町にもう40年も通い続けています(実は明日からも数日勝山に滞在します)。このときは、アートフル勝山の会主催の難波田龍起展が開かれ、はるか盛岡からMORIOKA第一画廊の上田さんもかけつけてくれました。
中上さんのお宅の裏が、このブログでもおなじみの荒井由泰さんの家です。
この頃は借金返済が最優先の日々でしたが、ふとしたきっかけで資生堂ギャラリーの駒井哲郎展を企画し、やがて『資生堂ギャラリー七十五年史』の編纂に取り組むことになり、フランス人の会社を辞め(1991年5月退職)、恩人のLさんのお世話で南青山の一軒家(今の場所)を格安で借り、編集事務所を営んでいました。傍らこのような展覧会のお手伝いもしていました。

1993_05_資生堂レセプション関根伸夫
1993年5月47歳の亭主と関根伸夫先生。
場所:資生堂ギャラリー「椿会展」のレセプション
1919年に始まる資生堂ギャラリーの詳細な記録を編むべく調査編集作業に没頭していました。同時に同ギャラリーの企画展のいくつかにも参加していました。
関根先生には1975年「島州一・関根伸夫クロスカントリー7,500km展」という全国展の行脚の道すがら現代美術のイロハを叩き込まれました。

1994_02_04_フィレンツェ上田・戸村・松井
1994年2月48歳の亭主
場所:イタリア・フィレンツェ
右から、盛岡の老舗直利庵の女将松井裕子さん、亭主、銅版画家の戸村茂樹さん、MORIOKA第一画廊の上田浩司さん。
当時岩手日報にいた中村光紀さん(現萬鉄五郎記念美術館館長)がミケランジェロのピエタ像をすべて見るというマニアックかつ渋いツアーを企画し社告を打ったのですが客が集まらない。そこで東京の私たちにまで動員がかかった。生まれて初めてのパック旅行でしたが気のあった仲間たちとの楽しい旅でした。

1995年3月10日資生堂G史綿貫挨拶
1995年3月10日49歳の亭主。
場所:銀座資生堂
足掛け六年の歳月をかけ736ページの『資生堂ギャラリー七十五年史』が完成し、その刊行記念パーティが開催され、編集チームを代表し亭主が挨拶しました。
監修は富山秀男先生(京都国立近代美術館館長)で、編集委員に阿部公正、飯沢耕太郎海野弘五十殿利治、田中日佐夫、横山勝彦の諸先生を迎え、46人の研究者たちに参加していただきました。
気づいてみれば、亭主はバブルの前に倒産し、バブルのときには六年間ただただ「資生堂ギャラリーの歴史」を追う日々でした。
この日で三上豊さん、柴田卓さんたちとの編集チームを解散し、亭主は社長と二人だけのギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」を開くことになります。

とまあ、ここまで書いてきたのですが(当初は写真と簡単なキャプションだけですまそうと思っていたのですが)ついつい長くなってしまい、これじゃあ40年のうちの半分。
すいません、次回はいずれ近日中に。

あらためてご後援いただいたお客様には心より御礼を申し上げます。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。