石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」 第5回
ダダメイド 1980年3月5日 神戸
5-1 兵庫県立近代美術館
70年代後半、ギャラリー16で兵庫県立近代美術館の中島徳博氏と出会った。酒宴が取り持つ縁で懇意にしていただくようになったが、読売新聞で同僚の山脇一夫氏と共に寄稿された『ミニ作家論』の為に京都へも頻繁に足を運ばれていた時期だと思う。写真家の中山岩太を調査されていた事もあり、関西の新興写真の歴史にも詳しく、マン・レイについても関心を持っておられた。氏が勤務する美術館は神奈川県立近代美術館に次ぐ国内では2館目の開館(1970年、村野藤吾設計)となった近代を専門に扱う県立美術館で、エルンストやルドンやアンソールなど、わたしの関心領域に繋がる作家の展覧会や「アート・ナウ」と冠して関西の中堅や若手の美術家を取りあげた独自企画などに時代への鋭い目配せを感じる活動で注目を集めていた。
わたしが桂に住んでいた時代で、阪急電車を京都線、神戸線と乗り次いで王子公園駅へはおよそ1時間20分、美術館を訪ねて二階の学芸員室へ入るとボードに入場者数が記入されていて、学芸員の一喜一憂に立ち会い面白かった。閉館後には近くのドニエで一杯やったり、三宮に出てクラブ(バーの名前で、いわゆるクラブではありません)で飲んだりした。テレビのある店で熱心に画面を観ているので話しをお聞きすると「家にはテレビを置いて無いんだ。テレビを観るのが好きで、テレビを観てしまって、何も出来ないんだ」と言われた。ある時、高層階のマンションにお邪魔すると、なるほどその通りで、夜景の美しい部屋の窓辺には双眼鏡が置かれていた。氏は「これで観るのが楽しみなんだ」と秘密の笑いをされ、「原稿は一眠りした後に書くんだ」とつけ加えられた。
中島徳博氏
ギャラリー16
山脇一夫氏(左)と北辻稔氏
ギャラリー16
『アート・ナウ’80展』
案内葉書
ドニエでの中島徳博氏と筆者他
5-2 トアロード画廊
その中島氏から「三宮でマン・レイを見た」と教えられた(京都で飲んでいた時かと思う)。早速、照会の手紙を送ると「当画廊にて所有している作品は1957年にパリのGALERIE DE L’INSTITUTで催された「ダダの冒険展」に出品された限定30部からなるレデイメイドによるコラージュとジョルジュ・ユニュ著の『ダダの冒険』限定本とペアになっています。現在、日本に入って来ているのは当画廊にある一点だけだと思います。」との説明、そして価格明示の後に「多少のディスカウントは考えていますので、ご遠慮なくご相談下さい」と配慮された返事だった(2月1日)。
架蔵するマルセル・デュシャンのロト・レリーフが表紙に使われた美術選書シリーズの『ダダの冒険』(江原順訳、美術出版社、1971年刊)を急いで取りだし確認するも、マン・レイのコラージュ作品を類推する記述を見付けられなかった。訳者の「あとがき」には「原著者も認めているとおり、この本は、1957年1月15日から2月20日という異例の短期間にかかれていて、原文自体、説明不充分な箇所やひとりよがりの表現を含んでいる。訳上の苦労も主としてそのことにあった。そういう欠陥にもかかわらず、却ってそのために、この書物は、ある種の臨場感によって価値をもっている。」(182頁)とある。確かに勢いのある文章でニューヨーク時代やパリに移った直後のマン・レイを描写する頁にワクワクした。
『ダダの冒険』原著(1957年刊)(左)と日本語新装版(1971年刊)
この本に限定版があったのかと思うと休日まで待つことは出来ない。幸い仕事の関係で大阪へ出張する必要があったので終了後に神戸へ出掛け、トアロード画廊を訪ねた(2月6日)。阪神元町駅の山側、ビルの3階で天井の低い乱雑した空間だったと記憶する。見せてもらう前から興奮しているので、冷静な判断など出来ないけれど、筆記体で「dadamade」と書かれた靴の中敷きの迫力に、目が釘付けになった。既成の権威に異議を申し立てた「ダダ」の精神をストレートに現した作品だと理解出来たし、靴のサイズを連想させるような限定番号の表記(30-8)や、力強さを増幅させながら不安をも助長させる黒い革との重なり具合と相俟って、心に響く作品だと嬉しくなった。画廊の番頭を務める渡辺健次氏が仮綴本を取り出してユニュのサイン頁を見せてくれると、挿入されていた中敷きの跡がうっすらと認められる臨場感、本の状態もすこぶる良くて、持って帰りたい一品となった。
給料が入るまで我慢し、ガールフレンドの女子大生を伴って画廊を再訪した(彼女にも作品を見せてあげたかった)。支払いを済ませ梱包を待っている間に画廊主の石橋直樹氏が「そういえばカタログもあったな」と資料の山をゴソゴソ、出て来たのがパリ近代美術館で開催された『マン・レイ回顧展』(1972年)のカタログで「これもあげるよ」と優しい言葉。同席した彼女の方は先客の備前焼窯元氏と話しが弾む、有意義な出会いを得たと思う。
石橋直樹氏
トアロード画廊
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山脇一夫氏(左)と中島徳博氏
1980.3.5
中島徳博氏
プリンスにて
それから、兵庫県立近代美術館へ寄って中島氏と山脇氏に事の顛末を報告。お二人に作品を観ていただき、夜には三宮のプリンスへ移動して祝杯をあげた。研修で美術館にいらっしゃったS氏を交えての楽しい時間、彼女と一緒だったので酔いつぶれる事もなく、無事に作品を京都に持ち帰った。「ダダの冒険は、青春に繋がっていたな」と、還暦過ぎの我が身に懐かしい。
当時のわたしは、阪急電車の桂駅から歩いて10分程のアパートに住んでいた。6畳に2畳の台所、自衛隊の官舎を移築したという天井の高い部屋で東と北の二方向に窓があり、遠くに愛宕山が見えた。高松次郎を意識した自作品の横に、購入品を掛けて靴の中敷きの文字を改めて読みながら、オーネット・コールマンの名盤『ジャズ来るべきもの』のアルト・サックスをとりつかれたように聴いたのを思い出す。アルバムの録音が1959年だから、ほとんど『ダダの冒険』と同時代なんだ。訳書の読了日を1973年8月7日と奥付頁にメモしているが、マン・レイ作品が登場する前に、ここで読んでいたのだと思う。ユニェが一ヶ月あまりで書き上げた青春の書。最後に日付を入れずにはいられなかった気持ちが、新鮮に伝わる行間、わたしはマン・レイへ言及した箇所の幾つかに鉛筆で印を入れている。レイヨグラフ集『妙なる野』(1922年)を紹介したあと、日常的な品物に触れながら「この、たぐられ、転り、とび、とびあがり、心がからになり、冷酷にもつれる糸玉……、これこそダダの終焉である。わたしは自分の青春を語るように、この物語をかいた。時間を急いだので、一気にかきあげた。」(173頁)と記されている。トリスタン・ツァラの序文とマルセル・デュシャンの表紙画、都市を舞台に進行したダダの物語の進展具合に引き込まれてしまった。そして、そこにマン・レイのコラージュ作品が挟まれていた。ユニュが年長の三人にどのように依頼したのか、その場面が眼に見えるようである。
筆者作『影』(左)と『ダダメイド』
かつら荘
5-3 ダダメイド
「dadamade」の筆記体に反応したのは、マン・レイによる同題のエッセイを読んでいた為でもあった。連載第2回で触れた季刊美術誌『gq』4号に掲載された「だれがダダをつくったか? だれもつくらないし、まただれもがつくった。」と始まる700字程のもので「ダダは死んだのか? 生きているのか? ダダは? ダダイズム。」と結ばれる。人知れず刊行された『ニューヨーク・ダダ』誌に思いを寄せた軽妙な調子で、作者の名前すら書かれていなかった雑誌を蘇らせようとする私たちへの警告、皮肉な立ち位置を示すものでありながら、「私たち」への呼びかけにはマン・レイ自身を含むニュアンスが濃厚で好ましかった。後に知ったのだが、このエッセイはデュッセルドルフの美術館で開催された大規模なダダ回顧展の折に、ジャン・アルプ、リブモン─デセーニュ、ラウル・ハルスマンらと共に求められた文章で、カタログに掲載されたのはそれぞれの原稿、マン・レイのものには南フランスの保養地ラマチュエルの地名と1958年7月8日の日付が入っている。
『ダダメイド』
ダダ回顧展カタログ所収
5-4 マグニチュード7.3
1995年1月17日の阪神・淡路大震災によって神戸は壊滅的な被害にあった。朝から原稿の手直しをされていた中島徳博氏は、地震が発生した時間には起きていたので本が飛び出した書斎から抜け出し、美術館にかけつけ、そのまま泊まり込んで復旧作業をされたと聞いた。ガラスが割れ、展示品が散乱し、建物自体が傾いた美術館の中で、必死に闘った氏の行動は、テレビ画面の空撮からでは想像の出来ない過酷なものだったと思う。また、芦屋市内にあった中山岩太のスタジオも全壊し貴重な作品と資料が塵となる寸前に、文化財レスキュー隊によって救出され、ボランティアの手で整理されたと後に新聞で知った。
わたしは、震災の後、長い期間、神戸に出掛ける事が出来なかった。ロバート・フランクの写真集『私の手の詩』を見付けたセンター街の後藤書店や、海外超現実主義作品展の小冊子を求めた元町5丁目の黒木書店、山本六三氏の銅版画で飾られたバタイユの『死者』を友人と手にして心ときめいた高架下のイカロス書房、あるいは元町のジャズ喫茶さりげなく。中華街の老祥記や民生などの思い出が、戦前の神戸に住んだ母親の記憶と繋がって、分断の現実を受け入れない気分が続いた。最近になって友人の画家が山本通りの画廊で展覧会を開催されるのを知って出掛けるようになったが、安藤忠雄設計による新しい兵庫の美術館を訪れたことは無い。
『ダダメイド』
拙宅(2014年)
中島徳博氏と最後にお会いしたのは国立国際美術館の移転記念展『マルセル・デュシャンと20世紀の美術』のレセプション会場だったと記憶する。随分と体調を崩しておられる様子だったが、2009年3月に61歳で残念ながら亡くなられた。それから随分と年月が経ってしまったが、マン・レイのコラージュ作品『ダダメイド』を見る度に、この足の暴力と悲しみが思い出される。
続く
(いしはらてるお)
■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。
◆石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」目次
第1回「アンナ 1975年7月8日 東京」
第1回bis「マン・レイ展『光の時代』 2014年4月29日―5月4日 京都」
第2回「シュルレアリスム展 1975年11月30日 京都」
第3回「ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都」
第4回「青い裸体 1978年8月29日 大阪」
第5回「ダダメイド 1980年3月5日 神戸」
第6回「プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ」
第7回「よみがえったマネキン 1983年7月5日 大阪」
第8回「マン・レイになってしまった人 1983年9月20日 京都」
第9回「ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪」
第10回「エレクトリシテ 1985年12月26日 パリ」
第11回「セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ」
第12回「贈り物 1988年2月4日 大阪」
第13回「指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪」
第14回「ピンナップ 1991年7月6日 東京」
第15回「破壊されざるオブジェ 1993年11月10日 ニューヨーク」
第16回「マーガレット 1995年4月18日 ロンドン」
第17回「我が愛しのマン・レイ展 1996年12月1日 名古屋」
第18回「1929 1998年9月17日 東京」
第19回「封印された星 1999年6月22日 パリ」
第20回「パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ」
第21回「まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座」
第22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都」
第23回「天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京」
第24回「月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京」
番外編「新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都」
番外編─2『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
番外編─2-2『マン・レイへの廻廊』
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ダダメイド 1980年3月5日 神戸
5-1 兵庫県立近代美術館
70年代後半、ギャラリー16で兵庫県立近代美術館の中島徳博氏と出会った。酒宴が取り持つ縁で懇意にしていただくようになったが、読売新聞で同僚の山脇一夫氏と共に寄稿された『ミニ作家論』の為に京都へも頻繁に足を運ばれていた時期だと思う。写真家の中山岩太を調査されていた事もあり、関西の新興写真の歴史にも詳しく、マン・レイについても関心を持っておられた。氏が勤務する美術館は神奈川県立近代美術館に次ぐ国内では2館目の開館(1970年、村野藤吾設計)となった近代を専門に扱う県立美術館で、エルンストやルドンやアンソールなど、わたしの関心領域に繋がる作家の展覧会や「アート・ナウ」と冠して関西の中堅や若手の美術家を取りあげた独自企画などに時代への鋭い目配せを感じる活動で注目を集めていた。
わたしが桂に住んでいた時代で、阪急電車を京都線、神戸線と乗り次いで王子公園駅へはおよそ1時間20分、美術館を訪ねて二階の学芸員室へ入るとボードに入場者数が記入されていて、学芸員の一喜一憂に立ち会い面白かった。閉館後には近くのドニエで一杯やったり、三宮に出てクラブ(バーの名前で、いわゆるクラブではありません)で飲んだりした。テレビのある店で熱心に画面を観ているので話しをお聞きすると「家にはテレビを置いて無いんだ。テレビを観るのが好きで、テレビを観てしまって、何も出来ないんだ」と言われた。ある時、高層階のマンションにお邪魔すると、なるほどその通りで、夜景の美しい部屋の窓辺には双眼鏡が置かれていた。氏は「これで観るのが楽しみなんだ」と秘密の笑いをされ、「原稿は一眠りした後に書くんだ」とつけ加えられた。

ギャラリー16

ギャラリー16

案内葉書

5-2 トアロード画廊
その中島氏から「三宮でマン・レイを見た」と教えられた(京都で飲んでいた時かと思う)。早速、照会の手紙を送ると「当画廊にて所有している作品は1957年にパリのGALERIE DE L’INSTITUTで催された「ダダの冒険展」に出品された限定30部からなるレデイメイドによるコラージュとジョルジュ・ユニュ著の『ダダの冒険』限定本とペアになっています。現在、日本に入って来ているのは当画廊にある一点だけだと思います。」との説明、そして価格明示の後に「多少のディスカウントは考えていますので、ご遠慮なくご相談下さい」と配慮された返事だった(2月1日)。
架蔵するマルセル・デュシャンのロト・レリーフが表紙に使われた美術選書シリーズの『ダダの冒険』(江原順訳、美術出版社、1971年刊)を急いで取りだし確認するも、マン・レイのコラージュ作品を類推する記述を見付けられなかった。訳者の「あとがき」には「原著者も認めているとおり、この本は、1957年1月15日から2月20日という異例の短期間にかかれていて、原文自体、説明不充分な箇所やひとりよがりの表現を含んでいる。訳上の苦労も主としてそのことにあった。そういう欠陥にもかかわらず、却ってそのために、この書物は、ある種の臨場感によって価値をもっている。」(182頁)とある。確かに勢いのある文章でニューヨーク時代やパリに移った直後のマン・レイを描写する頁にワクワクした。

この本に限定版があったのかと思うと休日まで待つことは出来ない。幸い仕事の関係で大阪へ出張する必要があったので終了後に神戸へ出掛け、トアロード画廊を訪ねた(2月6日)。阪神元町駅の山側、ビルの3階で天井の低い乱雑した空間だったと記憶する。見せてもらう前から興奮しているので、冷静な判断など出来ないけれど、筆記体で「dadamade」と書かれた靴の中敷きの迫力に、目が釘付けになった。既成の権威に異議を申し立てた「ダダ」の精神をストレートに現した作品だと理解出来たし、靴のサイズを連想させるような限定番号の表記(30-8)や、力強さを増幅させながら不安をも助長させる黒い革との重なり具合と相俟って、心に響く作品だと嬉しくなった。画廊の番頭を務める渡辺健次氏が仮綴本を取り出してユニュのサイン頁を見せてくれると、挿入されていた中敷きの跡がうっすらと認められる臨場感、本の状態もすこぶる良くて、持って帰りたい一品となった。
給料が入るまで我慢し、ガールフレンドの女子大生を伴って画廊を再訪した(彼女にも作品を見せてあげたかった)。支払いを済ませ梱包を待っている間に画廊主の石橋直樹氏が「そういえばカタログもあったな」と資料の山をゴソゴソ、出て来たのがパリ近代美術館で開催された『マン・レイ回顧展』(1972年)のカタログで「これもあげるよ」と優しい言葉。同席した彼女の方は先客の備前焼窯元氏と話しが弾む、有意義な出会いを得たと思う。

トアロード画廊
----

1980.3.5

プリンスにて
それから、兵庫県立近代美術館へ寄って中島氏と山脇氏に事の顛末を報告。お二人に作品を観ていただき、夜には三宮のプリンスへ移動して祝杯をあげた。研修で美術館にいらっしゃったS氏を交えての楽しい時間、彼女と一緒だったので酔いつぶれる事もなく、無事に作品を京都に持ち帰った。「ダダの冒険は、青春に繋がっていたな」と、還暦過ぎの我が身に懐かしい。
当時のわたしは、阪急電車の桂駅から歩いて10分程のアパートに住んでいた。6畳に2畳の台所、自衛隊の官舎を移築したという天井の高い部屋で東と北の二方向に窓があり、遠くに愛宕山が見えた。高松次郎を意識した自作品の横に、購入品を掛けて靴の中敷きの文字を改めて読みながら、オーネット・コールマンの名盤『ジャズ来るべきもの』のアルト・サックスをとりつかれたように聴いたのを思い出す。アルバムの録音が1959年だから、ほとんど『ダダの冒険』と同時代なんだ。訳書の読了日を1973年8月7日と奥付頁にメモしているが、マン・レイ作品が登場する前に、ここで読んでいたのだと思う。ユニェが一ヶ月あまりで書き上げた青春の書。最後に日付を入れずにはいられなかった気持ちが、新鮮に伝わる行間、わたしはマン・レイへ言及した箇所の幾つかに鉛筆で印を入れている。レイヨグラフ集『妙なる野』(1922年)を紹介したあと、日常的な品物に触れながら「この、たぐられ、転り、とび、とびあがり、心がからになり、冷酷にもつれる糸玉……、これこそダダの終焉である。わたしは自分の青春を語るように、この物語をかいた。時間を急いだので、一気にかきあげた。」(173頁)と記されている。トリスタン・ツァラの序文とマルセル・デュシャンの表紙画、都市を舞台に進行したダダの物語の進展具合に引き込まれてしまった。そして、そこにマン・レイのコラージュ作品が挟まれていた。ユニュが年長の三人にどのように依頼したのか、その場面が眼に見えるようである。

かつら荘
5-3 ダダメイド
「dadamade」の筆記体に反応したのは、マン・レイによる同題のエッセイを読んでいた為でもあった。連載第2回で触れた季刊美術誌『gq』4号に掲載された「だれがダダをつくったか? だれもつくらないし、まただれもがつくった。」と始まる700字程のもので「ダダは死んだのか? 生きているのか? ダダは? ダダイズム。」と結ばれる。人知れず刊行された『ニューヨーク・ダダ』誌に思いを寄せた軽妙な調子で、作者の名前すら書かれていなかった雑誌を蘇らせようとする私たちへの警告、皮肉な立ち位置を示すものでありながら、「私たち」への呼びかけにはマン・レイ自身を含むニュアンスが濃厚で好ましかった。後に知ったのだが、このエッセイはデュッセルドルフの美術館で開催された大規模なダダ回顧展の折に、ジャン・アルプ、リブモン─デセーニュ、ラウル・ハルスマンらと共に求められた文章で、カタログに掲載されたのはそれぞれの原稿、マン・レイのものには南フランスの保養地ラマチュエルの地名と1958年7月8日の日付が入っている。

ダダ回顧展カタログ所収
5-4 マグニチュード7.3
1995年1月17日の阪神・淡路大震災によって神戸は壊滅的な被害にあった。朝から原稿の手直しをされていた中島徳博氏は、地震が発生した時間には起きていたので本が飛び出した書斎から抜け出し、美術館にかけつけ、そのまま泊まり込んで復旧作業をされたと聞いた。ガラスが割れ、展示品が散乱し、建物自体が傾いた美術館の中で、必死に闘った氏の行動は、テレビ画面の空撮からでは想像の出来ない過酷なものだったと思う。また、芦屋市内にあった中山岩太のスタジオも全壊し貴重な作品と資料が塵となる寸前に、文化財レスキュー隊によって救出され、ボランティアの手で整理されたと後に新聞で知った。
わたしは、震災の後、長い期間、神戸に出掛ける事が出来なかった。ロバート・フランクの写真集『私の手の詩』を見付けたセンター街の後藤書店や、海外超現実主義作品展の小冊子を求めた元町5丁目の黒木書店、山本六三氏の銅版画で飾られたバタイユの『死者』を友人と手にして心ときめいた高架下のイカロス書房、あるいは元町のジャズ喫茶さりげなく。中華街の老祥記や民生などの思い出が、戦前の神戸に住んだ母親の記憶と繋がって、分断の現実を受け入れない気分が続いた。最近になって友人の画家が山本通りの画廊で展覧会を開催されるのを知って出掛けるようになったが、安藤忠雄設計による新しい兵庫の美術館を訪れたことは無い。

拙宅(2014年)
中島徳博氏と最後にお会いしたのは国立国際美術館の移転記念展『マルセル・デュシャンと20世紀の美術』のレセプション会場だったと記憶する。随分と体調を崩しておられる様子だったが、2009年3月に61歳で残念ながら亡くなられた。それから随分と年月が経ってしまったが、マン・レイのコラージュ作品『ダダメイド』を見る度に、この足の暴力と悲しみが思い出される。
続く
(いしはらてるお)
■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。
◆石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」目次
第1回「アンナ 1975年7月8日 東京」
第1回bis「マン・レイ展『光の時代』 2014年4月29日―5月4日 京都」
第2回「シュルレアリスム展 1975年11月30日 京都」
第3回「ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都」
第4回「青い裸体 1978年8月29日 大阪」
第5回「ダダメイド 1980年3月5日 神戸」
第6回「プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ」
第7回「よみがえったマネキン 1983年7月5日 大阪」
第8回「マン・レイになってしまった人 1983年9月20日 京都」
第9回「ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪」
第10回「エレクトリシテ 1985年12月26日 パリ」
第11回「セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ」
第12回「贈り物 1988年2月4日 大阪」
第13回「指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪」
第14回「ピンナップ 1991年7月6日 東京」
第15回「破壊されざるオブジェ 1993年11月10日 ニューヨーク」
第16回「マーガレット 1995年4月18日 ロンドン」
第17回「我が愛しのマン・レイ展 1996年12月1日 名古屋」
第18回「1929 1998年9月17日 東京」
第19回「封印された星 1999年6月22日 パリ」
第20回「パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ」
第21回「まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座」
第22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都」
第23回「天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京」
第24回「月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京」
番外編「新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都」
番外編─2『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
番外編─2-2『マン・レイへの廻廊』
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