「追悼 宮脇愛子」

石山修武


 芸術家宮脇愛子が亡くなった。ここしばらく体調がすぐれず病院にいるのは知っていた。最近は作品制作に本来の情熱を燃やしているのも風の噂が届いていたので、大丈夫なのだろうと安心していたのだが、風が消えるように姿を消してしまった。

 世田谷村には宮脇愛子さんの作品がいくつか在る。みんないただいたモノだ。全て、宮脇愛子さんが身体に異変をおこしてからの作品である。
 芸術家を自称する人間は少なからず居る。しかし、それはそうありたいという願望ではあっても、成程ねと、そう名乗る事に納得できる人は少い。ほとんど存在しないと言っても良いだろう。

 わたくしは五体満足、バリバリに活力溢れるばかりの自称芸術家にはほとんど関心がない。語る言葉の裏や、脇から金と名誉に飢えている多愛の無い俗人振りが透視できるからだ。しかし、現代アートの一側面は金と名誉の多力で価値が決められる、のも一つの現実ではある。
 美術館や画廊、そしてそれ程に力は大きくは無いのだろうけれど美術ジャーナリズム、メディア、美術批評の世界は一つである。
 そのあやうい価値を創出しようという不可解な意志に於いて同一なのである。
 現代に於いては美術館を含むマーケットが芸術および、芸術家そのものの世俗的な価値を決める。決して制作者の内的表現の必然らしき算が決めるのではない。
 何故ならば美術、芸術に対する批評の世界がすでに解体してしまっている。
 美術史家らしき歴史家が元来最終的にはその役割を荷うべき栄光を保持している筈ではあるけれど、現実の世界では余りにも身入りが少いので、そのなり手が少な過ぎる。誰でもなれる如くの歴史家には価値も薄い。

 宮脇愛子は、若い年頃から、現代アートの最前線と想はれる世界を渡り歩いてきたようだ。専門の謂はゆる芸術大学出身では無かったから、その芸術家達との附合いも誠に自由で気ママなものであったようだ。
 パリ時代、ミラノ時代の現代アーティスト達との附合いは、まさにその附合いの日々が現代美術史の一断面をのぞかせる程に、華麗でしかも内実に富んだモノでもあった。

 しかしながらわたくしはそんな世界にはあんまり関心が無い。
 関心があるのは、一度、身体が壊れかかり、それ故、精神さえも大変調が訪れる、どんな大芸術家にも苳過するかにも視える「時」を経てからの、芸術家の、それこそ精神と言いたい芸術家の中枢なのである。
 計らずも、宮脇愛子は病魔に犯された。左半身が不自由となった。リハビリの為もあり施設住まいの身とはなった。そこには一足先に、これも又、倒れ半身不随となった芸術家山口勝弘がすでに居た。
 山口勝弘は不自由になった身体と気持とキッパリと別れて、新開地を求めての旅に出るのに、わたくしの記憶では二年間もかかった。それからの山口勝弘の再生振りは見事であった。
 山口勝弘の奇遇ではあったが隣室に宮脇愛子は身を休めた。不自由な身で作品制作、表現にとりかかるのにはいささか山口よりも長い時間を要したと記憶している。
ここ、二年程ではなかっただろうか。宮脇愛子が自由であった身体の時代から、気持を振り切ったのは。
 最新の宮脇愛子の作品は、それ故に、気持そのものの力が全とうされ、表現されていた。素晴しい境地を開かれていたのである。
いしやま おさむ
世田谷村日記より転載
2010年石山宮脇2010年10月1日ときの忘れもの
マン・レイと宮脇愛子展」のレセプションにて
石山修武先生(右)と宮脇愛子先生

2012年山口勝弘2012年6月25日銀座・ギャラリーせいほう
宮脇愛子展」のオープニングにて
山口勝弘先生(左)と亭主