私の人形制作第63回 井桁裕子
森田かずよさんとの出会い―その3・金満里さんの本
夏も過ぎ、私はようやく平常運転になってきた日々です。
私の記事はどんどん遠回りしているのですが、これはなかなか結果の見えて来ない作品の性質が反映しているかのようです。よろしければしばらくお付き合いください。
*
私たちは学校で基本的人権という言葉を習います。人は生きる権利を無条件で保障される、ただ命があるだけでなく、差別されず自由に、なるべく文化的に生きる事が保障されているということを、日本では誰もが知っています。
ところが、なぜか権利が「義務」とセットにされる考え方もあります。
「子どもの権利条約」という国際条約があり、これについてのテレビのニュース番組を見ていたら、「子どもは義務を果たしていないから権利も無いと思う」と若い親たちがインタビューに答えていました。
この場合にいわれる「果たしていない義務」とは具体的に何を想定しているのでしょうか。
それは「子どもは働いていない、納税もしていない」ということじゃないかと思われました。
また、権利という言葉を単に勝手なわがままを言う事のようにとらえているのかもしれません。
しかし子どもが義務として働き税金まで徴収される状況があれば、それは子どもが大人たちから守られていないという事なわけです。子どもの権利条約はまさにそういうことを正して、子どもが安全に暮らし、健康に賢く成長するためのものです。
もし「自分で稼げない者は権利も制限されて当然」と考える癖が人々に染み付いているとしたら、それは子どもについての話だけにはとどまりません。金を払ったものだけが権利を得るというのは、万能のルールなのでしょうか?
金銭に換えられない守られるべきものがあるということをそれぞれに確認することが、私には今とても大切に思えます。
2012年12月30日に観に行った金満里さんのソロ公演について先月書きました。そこで買った自伝「生きることのはじまり」(金満里著、筑摩書房)は、私にとって公演それ自体に加えてさらに重要なものでした。
脳性マヒやいろいろな身体障害を持った人々による劇団「態変」の舞台の始まりの様子から、この本も始まります。そして1953年生まれの金満里さんの、朝鮮古典芸能の伝承者であるお母さんのこと、3歳でポリオにかかって障害を負ってからの、病院や施設での過酷な生活へと話は順を追って書かれています。当時の施設は設備も人員も不備で、人間らしい扱いをされずにあっというまに悪化して死んでしまう子どもたちもいました。突きつけられる人間のエゴイズムが、冷静な言葉で語られていきます。
1975年、高校卒業後の将来のことを悩み自死の誘惑と向き合う日々を送っていたなかで、金さんは衝撃的に障害者運動のグループと出会います。
CP(脳性マヒ)の人々の集まり「青い芝の会」です。それはCP者が社会と対等になることをめざす解放運動の組織で、CP者自身によってすべての方針が決められていくものでした。これが結成される前の準備段階の会に、金さんはポリオによる障害だったのですが、友人に誘われて参加したのでした。当時、全国組織にまで広がったこの運動は健常者ボランティアの無償の介護に支えられながら成立していました。ボランティアと私は今書いてしまっていますが、金さんは、「優しさぶりっ子」なボランティアなんて嫌いだったが、健常者がボランティアではなく友人関係として関わっていると聞いて驚いて参加した、と当時の記憶を書かれています。
しかしそこでさらに会では、真の自立のあり方を強く求める議論が続いて行きます。
会の主体は障害者であるはずなのに、結局、健常者の組織があってこそできる運動となってしまう….その矛盾は避けられないものでした。それは実際のトラブルというよりは理念の追求による問題提起だったという事が読み取れます。
やがて青い芝の会では、金さんのいた兵庫県の支部を皮切りに健常者の組織を障害者の側から切り離すという厳しい決断をする展開を迎えます。会の運動から離れた金さんも、健常者の側にしか来るか来ないかを選ぶ権利はない、そして介護者が来なければ死ぬしかないという自立の生活を選びます。そこからいろいろな経緯を経て、劇団「態変」の立ち上げにつながっていきました。
青い芝の会という名前は私も知っていて、以前、インターネットで映像を観た事がありました。
古いテレビ録画か何かの映像でした。言語障害のある車いすの男性が街頭で演説をしている様子、施設での座り込みなどの直接行動を展開したという内容を覚えています。最後まで観られなかったうえに、もうタイトルがわからなくなってしまい見つかりません。しかしそのような命がけの行動があったことは私にとってかなり衝撃的な情報でした。
「生きることのはじまり」には、気になったまま謎だったその座り込みのことが、当事者の言葉で語られていたのです。
金さんが参加したのは、障害者の自殺の原因究明の申し入れに多勢で施設に向かったところ、無視されて職員たちが出て行ってしまった、そこで空っぽになった建物をそのまま占拠しバリケードを作って楯籠もったというものでした。
自力での移動の自由は無い方たちですから、もちろん介護者が一緒です。自らの首をその場に針金でくくりつけての座り込みは、トイレにさえ行かれない激しい状況となったのでした。
ずいぶん金満里さんの本の話が長くなってしまいましたが、私の感じた事がうまく伝わっているか自信がありません。こんな不充分な抜粋によって誤解を引き起こしかねませんので、ご関心を持たれた方は、ぜひこの本を手に入れて読んでいただければと思います。
私は学生時代に写真の授業の自由課題で、小平市にある武蔵野美術大学から遠くない「あさやけ作業所」という福祉施設に撮影に行きました。福祉に大きな関心があったというわけではなく、撮るべき対象がいっぱいありそうだと思ったからです。
知人がそこで職員をしていて、無知な学生を暖かく迎えてもらいました。そこは通所施設で、知的障害の方たちが洗濯バサミを組み立てたり布巾を縫ったりという軽作業を行う場所でした。
私の中では長らくそのイメージが強かったので、障害者の権利獲得、様々な運動は、健常者が障害者を代弁して行うものとしか知らなかったのです。金満里さんが活動した運動の時代は私の学生時代とは10年くらいずれているとはいえ、東京にいてそのようなことを誰からも聞きませんでした。まだ今も知らずにいることがたくさんあるのだと思います。
「生きることのはじまり」を読んで間もなく、大阪行きの日程がやってきました。
いよいよ森田さんの家を訪問するのです。
2013年1月18日、私は必要な道具一式を持って、大阪・鶴橋の駅に降り立ったのでした。
(続く)
(いげたひろこ)
◆井桁裕子のエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
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●今日のお勧め作品はラリー・クラークです。
ラリー・クラーク Larry CLARK
「タルサ」より Combing Boy
1963年
ゼラチンシルバープリント
20.7x31.2cm
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
作家と作品については、小林美香さんのエッセイ「写真のバックストーリー」第9回をお読みください。
森田かずよさんとの出会い―その3・金満里さんの本
夏も過ぎ、私はようやく平常運転になってきた日々です。
私の記事はどんどん遠回りしているのですが、これはなかなか結果の見えて来ない作品の性質が反映しているかのようです。よろしければしばらくお付き合いください。
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私たちは学校で基本的人権という言葉を習います。人は生きる権利を無条件で保障される、ただ命があるだけでなく、差別されず自由に、なるべく文化的に生きる事が保障されているということを、日本では誰もが知っています。
ところが、なぜか権利が「義務」とセットにされる考え方もあります。
「子どもの権利条約」という国際条約があり、これについてのテレビのニュース番組を見ていたら、「子どもは義務を果たしていないから権利も無いと思う」と若い親たちがインタビューに答えていました。
この場合にいわれる「果たしていない義務」とは具体的に何を想定しているのでしょうか。
それは「子どもは働いていない、納税もしていない」ということじゃないかと思われました。
また、権利という言葉を単に勝手なわがままを言う事のようにとらえているのかもしれません。
しかし子どもが義務として働き税金まで徴収される状況があれば、それは子どもが大人たちから守られていないという事なわけです。子どもの権利条約はまさにそういうことを正して、子どもが安全に暮らし、健康に賢く成長するためのものです。
もし「自分で稼げない者は権利も制限されて当然」と考える癖が人々に染み付いているとしたら、それは子どもについての話だけにはとどまりません。金を払ったものだけが権利を得るというのは、万能のルールなのでしょうか?
金銭に換えられない守られるべきものがあるということをそれぞれに確認することが、私には今とても大切に思えます。
2012年12月30日に観に行った金満里さんのソロ公演について先月書きました。そこで買った自伝「生きることのはじまり」(金満里著、筑摩書房)は、私にとって公演それ自体に加えてさらに重要なものでした。
脳性マヒやいろいろな身体障害を持った人々による劇団「態変」の舞台の始まりの様子から、この本も始まります。そして1953年生まれの金満里さんの、朝鮮古典芸能の伝承者であるお母さんのこと、3歳でポリオにかかって障害を負ってからの、病院や施設での過酷な生活へと話は順を追って書かれています。当時の施設は設備も人員も不備で、人間らしい扱いをされずにあっというまに悪化して死んでしまう子どもたちもいました。突きつけられる人間のエゴイズムが、冷静な言葉で語られていきます。
1975年、高校卒業後の将来のことを悩み自死の誘惑と向き合う日々を送っていたなかで、金さんは衝撃的に障害者運動のグループと出会います。
CP(脳性マヒ)の人々の集まり「青い芝の会」です。それはCP者が社会と対等になることをめざす解放運動の組織で、CP者自身によってすべての方針が決められていくものでした。これが結成される前の準備段階の会に、金さんはポリオによる障害だったのですが、友人に誘われて参加したのでした。当時、全国組織にまで広がったこの運動は健常者ボランティアの無償の介護に支えられながら成立していました。ボランティアと私は今書いてしまっていますが、金さんは、「優しさぶりっ子」なボランティアなんて嫌いだったが、健常者がボランティアではなく友人関係として関わっていると聞いて驚いて参加した、と当時の記憶を書かれています。
しかしそこでさらに会では、真の自立のあり方を強く求める議論が続いて行きます。
会の主体は障害者であるはずなのに、結局、健常者の組織があってこそできる運動となってしまう….その矛盾は避けられないものでした。それは実際のトラブルというよりは理念の追求による問題提起だったという事が読み取れます。
やがて青い芝の会では、金さんのいた兵庫県の支部を皮切りに健常者の組織を障害者の側から切り離すという厳しい決断をする展開を迎えます。会の運動から離れた金さんも、健常者の側にしか来るか来ないかを選ぶ権利はない、そして介護者が来なければ死ぬしかないという自立の生活を選びます。そこからいろいろな経緯を経て、劇団「態変」の立ち上げにつながっていきました。
青い芝の会という名前は私も知っていて、以前、インターネットで映像を観た事がありました。
古いテレビ録画か何かの映像でした。言語障害のある車いすの男性が街頭で演説をしている様子、施設での座り込みなどの直接行動を展開したという内容を覚えています。最後まで観られなかったうえに、もうタイトルがわからなくなってしまい見つかりません。しかしそのような命がけの行動があったことは私にとってかなり衝撃的な情報でした。
「生きることのはじまり」には、気になったまま謎だったその座り込みのことが、当事者の言葉で語られていたのです。
金さんが参加したのは、障害者の自殺の原因究明の申し入れに多勢で施設に向かったところ、無視されて職員たちが出て行ってしまった、そこで空っぽになった建物をそのまま占拠しバリケードを作って楯籠もったというものでした。
自力での移動の自由は無い方たちですから、もちろん介護者が一緒です。自らの首をその場に針金でくくりつけての座り込みは、トイレにさえ行かれない激しい状況となったのでした。
ずいぶん金満里さんの本の話が長くなってしまいましたが、私の感じた事がうまく伝わっているか自信がありません。こんな不充分な抜粋によって誤解を引き起こしかねませんので、ご関心を持たれた方は、ぜひこの本を手に入れて読んでいただければと思います。
私は学生時代に写真の授業の自由課題で、小平市にある武蔵野美術大学から遠くない「あさやけ作業所」という福祉施設に撮影に行きました。福祉に大きな関心があったというわけではなく、撮るべき対象がいっぱいありそうだと思ったからです。
知人がそこで職員をしていて、無知な学生を暖かく迎えてもらいました。そこは通所施設で、知的障害の方たちが洗濯バサミを組み立てたり布巾を縫ったりという軽作業を行う場所でした。
私の中では長らくそのイメージが強かったので、障害者の権利獲得、様々な運動は、健常者が障害者を代弁して行うものとしか知らなかったのです。金満里さんが活動した運動の時代は私の学生時代とは10年くらいずれているとはいえ、東京にいてそのようなことを誰からも聞きませんでした。まだ今も知らずにいることがたくさんあるのだと思います。
「生きることのはじまり」を読んで間もなく、大阪行きの日程がやってきました。
いよいよ森田さんの家を訪問するのです。
2013年1月18日、私は必要な道具一式を持って、大阪・鶴橋の駅に降り立ったのでした。
(続く)
(いげたひろこ)
◆井桁裕子のエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
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●今日のお勧め作品はラリー・クラークです。

「タルサ」より Combing Boy
1963年
ゼラチンシルバープリント
20.7x31.2cm
サインあり
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作家と作品については、小林美香さんのエッセイ「写真のバックストーリー」第9回をお読みください。
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