「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第2回

土渕信彦


2.『近代芸術』
「海外超現実主義作品展」(前回参照)の翌年に刊行された『近代芸術』(三笠書房、1938年8月。図2-1)のなかにも、もちろんマルセル・デュシャンへの言及がある。例えば、第1部の「ダダイスムの徴候」の章で、トリスタン・ツァラがラルース辞典のなかに「ダダ」という言葉を発見して命名した1916年より前の、1912年頃にデュシャンは「すでにダダ的な精神を実行していた」と記され、デュシャンが創始したレディ・メイドのオブジェobjet readymadeも、その「否定の精神と偶然性の詩精神」がダダと共通するとされている。

図2-1『近代芸術』初版図2-1
『近代芸術』初版
(三笠書房、1938年9月)


レディ・メイドのオブジェについては、第2部の「物体の位置」の章で別の角度から解説されている。「既成のオブジェ」として、「自然の」「未開人の」「数学的」「発見された」「災害の」「動く」「象徴機能の」と並ぶオブジェの8つの類別のひとつとされ、次のように述べられている。

「実用のために作られた既成品を、その最初の目的から脱却して別個なオブジェにすることである。これはマルセル・デュシャンがかつてダダ時代に反芸術的な目的から、瀬戸の便器、壜掛け、自転車の輪などを展覧会に送ったところから端を発している」

図2-2 「自転車の車輪」図2-2
マルセル・デュシャン「自転車の車輪」1913年
(美術選書版『近代芸術』、美術出版社、1962年より。なお、38年の初版、49年の唯物論全書版、51年の三笠新書版には、デュシャンの作品図版は掲載されていない)


上記の8分類は、基本的にはブルトンが「オブジェの危機」(「カイエ・ダール」誌、1936年5月。図2‐3)で示した9つの類別に基づき、その一部を加除修正したものと思われる。ブルトンはこの論考のなかの、同年同月に開催された「シュルレアリスムのオブジェ展」(シャルル・ラットン画廊)について触れた個所の注記で、「数学的」「自然」「野生」「掘出物」「非合理的」「レディ・メイド」「解釈された」「合成された」「動く」を挙げているが、瀧口の分類は、この9つから「非合理的」「解釈された」「合成された」の3つを除き、新たに「象徴機能の」「災害の」の2つを加えたものに相当する。

図2-3 「カイエ・ダール」誌図2-3
「カイエ・ダール」誌表紙
(1936年5月)


追加された2つのうち「象徴機能のオブジェ」は、言うまでもなくダリが1931年に定義・提唱した概念であり、ブルトンも「オブジェの危機」本文で触れている。追加は当然と思われる。「災害のオブジェ」は、関東大震災を体験した瀧口ならではかもしれない。「噴火、火災などの災害のあとから拾得されたもので、しばしばコップや器物などが予想しえない超造形的な変貌を蒙る」と解説した後に、さりげなく「私は東京の大震災で、眼鏡屋のレンズの堆積が半ば融合して不思議な形の合成物になっているのを目撃した」と述べている。15年前のエピソードということになるが、印象的だったのだろう。

以上のような分類・解説は、「オブジェ」という言葉がありふれた日常用語となっている今日からみると常識的で、平凡とさえ思われるかもしれないが、この記述はこの言葉が一般的でない時期のものであることに思いを致すべきだろう。そもそも「オブジェ」という言葉自体も、「対象」「物体」を当てはめるなど、苦心惨憺の末に瀧口が辿りついた表記法であった。

当時のデュシャンはというと、まだ50歳で、ちょうどボーザール画廊での「シュルレアリスム国際展」(前回参照。石原輝雄氏の「マン・レイへの写真日記」第7回に詳細な紹介がある)の、真っ暗な展示室の天井から1200個もの石炭袋を吊り下げるという会場構成で、観客を唖然とさせていた頃である(図2-4)。それと同時期にこれだけ論理的・体系的で、内容のある解説が与えられているのは、やはり驚くべきことだろう。

図2-4 「シュルレアリスム国際展」図2-4
エルンスト、ダリ、マン・レイとともに「シュルレアリスム国際展」の会場構成を進めるマルセル・デュシャン
(《LA VIE ILLUSTRÉE DE MARCEL DUCHAMP avec 12 dessins d’André RAFFRAY》Centre National d’Art de Culture Georges Pompidou,1977より)


『近代芸術』は戦後活躍した(活躍中の)多くの芸術家に読み継がれ、今なおそのアクチュアリティーは失われていないと思われるが、美術選書版でさえ入手困難となっているのは惜しまれる。文庫本ないしライブラリー版での刊行を期待したい。

前回の補足
前回、「アルバム・シュルレアリスト」に掲載された「回転半球」の図版に関して、次のように記した。すなわち、作品名の位置に「回転半球」とは記載されず、その替わりに「言葉の遊び」が置かれており、翌年のブルトン、エリュアール共編『シュルレアリスム簡約辞典』でもその形が「踏襲されている」と述べた。時系列的な順序に誤りはないと思うが、デュシャンの「言葉の遊び」とその瀧口訳に関してもう少し検討を加えると、水面下にあったはずの経緯ないし事柄が浮かび上がるようなので、ここで補足しておきたい。

もともとデュシャンがローズ・セラヴィという女性変名のもとに試みた「言葉の遊び」には、発音が類似した別の言葉を用いた、いく通りかの派生形が存在する場合があるようだが、実は「回転半球」に刻まれている「言葉の遊び」にも、以下のとおり、当てはまる。

「回転半球」の形:“Rrose Sléavy et moi esquivons les ecchymoses des esquimaux aux mots exquis”
派生形:“Rrose Sléavy et moi nous estimons les ecchymoses des esquimaux aux mots exquis”

両者の異同は、“esquivons”と“nous estimons”、すなわち「避ける」と「尊重する」の違いである。なお、細かいことだが『シュルレアリスム簡約辞典』に記載された「言葉の遊び」にはさらに異同があり、「回転半球」の“esquivons”の前に“nous”が挿入された形である。

ここで改めて「アルバム・シュルレアリスト」の図版を想起すると、掲載されていた訳は「尊重する」であった。すなわち瀧口が訳したのは派生形の方だったと考えられる。ここから次のような事柄が推定されるのではなかろうか。

(1)瀧口が訳出の典拠としたのは、「回転半球」の写真版そのものではなく、欧州から送られてきた「作品リスト」と思われ、その作品名の欄に派生形の方が記されていた。
(2)つまり、もともと欧州側窓口(ないし取りまとめ役)の人物が、作品そのものと照合しないまま、日本に送るリストの作品名の欄に派生形を記していた。
(3)換言すれば、その人物は、照合を省略できるほど、デュシャンの「言葉の遊び」や作品に親しんでいた。

その人物とはどうやらブルトンその人のように思われる。というのも、「海外超現実主義作品展」2年半ほど前に発表された有名なデュシャン論「花嫁の灯台」(「ミノトール」誌6号、1934年12月。図2-5)のなかで、ブルトンが「回転半球」について用いている表記も、実は派生形の方だからである。

図2-5 「ミノトール」誌6号図2-5
「ミノトール」誌6号表紙
(1934年12月)


瀧口が「自筆年譜」1937年の項で、ブルトンを通じて「海外超現実主義作品展」の開催交渉を進めていたと記しているのに、同展目録(前回参照)では海外委員にその名が見当たらないのを、以前から不思議に思っていたが、以上の推定が正しいとするなら、(名を連ねていない事情はよく判らないが)「自筆年譜」のひとつの裏付けにはなるだろう。(続く)
つちぶちのぶひこ

●今日のお勧め作品は瀧口修造の水彩とデカルコマニーです。
ときの忘れものでは11月5日(水)~11月22日(土)まで「瀧口修造III 瀧口修造とマルセル・デュシャン」を開催します。
20141013_takiguchi2014_I_22瀧口修造
「I-22」
水彩、紙
Image size: 18.1x11.4cm
Sheet size: 18.2x11.5cm


20141013_takiguchi瀧口修造
「III-13」
デカルコマニー、紙
Image size: 15.5x8.2cm
Sheet size: 19.3x13.1cm


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