<迷走写真館>一枚の写真に目を凝らす 第22回

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写真のなかにどのくらいの人数が写っているか数えようとしたが、途中で断念した。重なり合っているのでうまく数えられない。それでも百人以上いるだろうことは想像がついた。下から三分の一くらいまでのところで、四十人を超えていたからである。
ここに写っている空間のサイズは、幅・奥行きともにせいぜい数メートルだろう。面積にして三、四十メートル平米といったところで、そこに百人以上の人が詰まっているのだから、驚くべき事態である。
男性の水着はただの短パンだからいまも昔もほとんどデザインが変わらないが、女性の水着のほうは明らかに時代の差が感じられる。腰のところに切り替えのついた、裾のひらひらした水着を着た女性がプールサイドの中央にいる。こういうのが流行っていた時期がたしかにあったな、と思いながらほかの女性の水着姿も観察しようと探したが、男性が圧倒的に多い。女性は子連れでもないかぎり、このなかに入っていくのは躊躇するかもしれない。
狭い空間に大勢の人がひしめき合っている光景を、「イモの子を洗うような」と表現する。あれはまだ大きく実っていない里イモの子を、互いにこすり合わせて皮をむくことから来ているはずで、となれば、このプールのシーンほどその言い回しに似合っている場面はないだろう。みなさん、皮のむけかかったイモのように半裸の状態で入っているのだから。
人の蝟集する場はさまざまあるが、プールの混雑が放つエネルギーが異様なのは、そこにいる人が裸であることが大きい。衣服に遮断されずにむきだしになった皮膚が互いにこすり合わされるだから、高まらないはずはないのである。
これでは泳ぐどころか、ただの水浴もむずかしそうだが、それでもみんな結構、輝かしい表情をしている。狭くて暑苦しい家を脱出できた開放感や、人気のスポットに来ているという高揚感があるのだろう。そう、あの頃はたかがプールがハレの場だった。どんなに混んでいようが、はりきって出かける価値があったのだ。
見ているうちにふと中国のことが思い浮かんだ。日々、東京の繁華街に大型バスでどさっと降り立つ中国人団体客の勇ましさや、声の大きさや、あたり構わない行動力が、この写真のイメージと重なり、夏場に中国の都市部を巡ったら、どこかにこのような光景があるようにも思える。
その一方で、現代日本のプールの情景もモノクロ写真に収めたら、こんな雰囲気になるかもしれないとも考えた。第一にモノクロ写真には時間を消す効果があるし、第二に人間がマスで写っているとディテールの比重は後退する。つまり半裸の人々が多数写っているというだけで、時代を超えた光景になりやすい。
しかし細部に目を凝らせば、そこには時代の証言たるものが必ずや写っているはずで、そのとき、ただの「イモの子」ではなくなるだろう。写っている人間をマスとしてとらえるか、個として見わけるかで、写真の伝えるものはまったく変わってくる。
大竹昭子(おおたけあきこ)
~~~~
●紹介作品データ:
土田ヒロミ
〈砂を数える〉シリーズより
1981年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ: 15.5x22.7cm
シートサイズ: 20.3x25.4cm
Ed.10
サインあり
■土田ヒロミ Hiromi TSUCHIDA(1939-)
1939年福井生まれ、福井大学(工学部)時代に写真を始める。
1963年卒業後化粧品入社、研究スタッフとして勤務、傍ら東京綜合写真専門学校に学ぶ、卒業後、時折カメラ雑誌などに作品を発表する。
1971年本格的に写真作家を目指し化粧品を退社。フリーランンサーに。その直後に「自閉空間」で第八回太陽賞受賞。
1968~75年,日本の土俗性へ視線をむけ日本各地を取材、その成果を「俗神」(76年)。その評価を得てニューヨーク近代美術館(ニューヨーク)、ポンピドーセンター(パリ)などの海外で発表続く。
その後、次第に都市へ関心が移り、群衆を対象に「砂を数える」(75,83年)「新・砂を数える」。日本経済のバブルに浮かれて催されたさまざまなパーティを取材「パーティ」(90年)。首都圏の郊外の国道沿線の風景「Fake Scape」(02年)都市へ向かう一方,俗神の系譜として「続・俗神」を開始。
一方、再びニッポンを対象としては、311年東日本大震災以降「フクシマ」を撮影開始。
~~~~
●展覧会のお知らせ
ギャラリー冬青で土田ヒロミ写真展「砂を数える」が開催中です。上掲の作品も出品されています。
会期:2014年10月31日[金]~11月29日[土]
会場:ギャラリー冬青
時間:11:00~19:00
日・月・祝日休廊
「砂を数える」
私が人の群れに視線を向け始めたのは、 1974年頃です。
それまですすめていた”俗神のシリーズ”が終わりに近づき新たな模索の中からカタチをとって現れ始めていたのが群衆でした。
『俗神』は、過去をフィードバックする方法論をとりながら、自分自身の深層を探ろうとした作業でしたが、『砂を数える』は、都市に土着してい く己の同時代的な状況を探ろうという意志からの作業です。
1977年に最初の個展「砂を数える」(新宿ミノルタ・フォトスペース)を開催。
この段階では、方法論的な確立が混濁していたので、そこから、さらに撮りすすめて1985年に第2回目の個展(銀座ニコンサロン)を開催。そ の後も、長々と終わりを見い出せられないままに継続していくことになりますが、終止を決断したのは1989年です。その年、昭和天皇の崩御。 皇居前に、地中から湧き現れ出してきたように見えた群衆。そして、もう一人の天才の死。美空ひばりの葬儀に青山斎場を幾十にも取り巻いた群衆の渦でした。これらの群れに浸りながら、一つの時代が終わったことを実感する自分がありました。
土田ヒロミ
(同展HPより転載)
◆去る8月20日亡くなられた宮脇愛子先生のエッセイ「私が出逢った作家たち」はコチラです
◆大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
●今日のお勧め作品は、秋葉シスイです。
秋葉シスイ
「次の嵐を用意している」(8)
2014年
油彩、カンヴァス
97.0x145.5cm (P80号)
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。

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写真のなかにどのくらいの人数が写っているか数えようとしたが、途中で断念した。重なり合っているのでうまく数えられない。それでも百人以上いるだろうことは想像がついた。下から三分の一くらいまでのところで、四十人を超えていたからである。
ここに写っている空間のサイズは、幅・奥行きともにせいぜい数メートルだろう。面積にして三、四十メートル平米といったところで、そこに百人以上の人が詰まっているのだから、驚くべき事態である。
男性の水着はただの短パンだからいまも昔もほとんどデザインが変わらないが、女性の水着のほうは明らかに時代の差が感じられる。腰のところに切り替えのついた、裾のひらひらした水着を着た女性がプールサイドの中央にいる。こういうのが流行っていた時期がたしかにあったな、と思いながらほかの女性の水着姿も観察しようと探したが、男性が圧倒的に多い。女性は子連れでもないかぎり、このなかに入っていくのは躊躇するかもしれない。
狭い空間に大勢の人がひしめき合っている光景を、「イモの子を洗うような」と表現する。あれはまだ大きく実っていない里イモの子を、互いにこすり合わせて皮をむくことから来ているはずで、となれば、このプールのシーンほどその言い回しに似合っている場面はないだろう。みなさん、皮のむけかかったイモのように半裸の状態で入っているのだから。
人の蝟集する場はさまざまあるが、プールの混雑が放つエネルギーが異様なのは、そこにいる人が裸であることが大きい。衣服に遮断されずにむきだしになった皮膚が互いにこすり合わされるだから、高まらないはずはないのである。
これでは泳ぐどころか、ただの水浴もむずかしそうだが、それでもみんな結構、輝かしい表情をしている。狭くて暑苦しい家を脱出できた開放感や、人気のスポットに来ているという高揚感があるのだろう。そう、あの頃はたかがプールがハレの場だった。どんなに混んでいようが、はりきって出かける価値があったのだ。
見ているうちにふと中国のことが思い浮かんだ。日々、東京の繁華街に大型バスでどさっと降り立つ中国人団体客の勇ましさや、声の大きさや、あたり構わない行動力が、この写真のイメージと重なり、夏場に中国の都市部を巡ったら、どこかにこのような光景があるようにも思える。
その一方で、現代日本のプールの情景もモノクロ写真に収めたら、こんな雰囲気になるかもしれないとも考えた。第一にモノクロ写真には時間を消す効果があるし、第二に人間がマスで写っているとディテールの比重は後退する。つまり半裸の人々が多数写っているというだけで、時代を超えた光景になりやすい。
しかし細部に目を凝らせば、そこには時代の証言たるものが必ずや写っているはずで、そのとき、ただの「イモの子」ではなくなるだろう。写っている人間をマスとしてとらえるか、個として見わけるかで、写真の伝えるものはまったく変わってくる。
大竹昭子(おおたけあきこ)
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●紹介作品データ:
土田ヒロミ
〈砂を数える〉シリーズより
1981年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ: 15.5x22.7cm
シートサイズ: 20.3x25.4cm
Ed.10
サインあり
■土田ヒロミ Hiromi TSUCHIDA(1939-)
1939年福井生まれ、福井大学(工学部)時代に写真を始める。
1963年卒業後化粧品入社、研究スタッフとして勤務、傍ら東京綜合写真専門学校に学ぶ、卒業後、時折カメラ雑誌などに作品を発表する。
1971年本格的に写真作家を目指し化粧品を退社。フリーランンサーに。その直後に「自閉空間」で第八回太陽賞受賞。
1968~75年,日本の土俗性へ視線をむけ日本各地を取材、その成果を「俗神」(76年)。その評価を得てニューヨーク近代美術館(ニューヨーク)、ポンピドーセンター(パリ)などの海外で発表続く。
その後、次第に都市へ関心が移り、群衆を対象に「砂を数える」(75,83年)「新・砂を数える」。日本経済のバブルに浮かれて催されたさまざまなパーティを取材「パーティ」(90年)。首都圏の郊外の国道沿線の風景「Fake Scape」(02年)都市へ向かう一方,俗神の系譜として「続・俗神」を開始。
一方、再びニッポンを対象としては、311年東日本大震災以降「フクシマ」を撮影開始。
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●展覧会のお知らせ
ギャラリー冬青で土田ヒロミ写真展「砂を数える」が開催中です。上掲の作品も出品されています。
会期:2014年10月31日[金]~11月29日[土]
会場:ギャラリー冬青
時間:11:00~19:00
日・月・祝日休廊
「砂を数える」
私が人の群れに視線を向け始めたのは、 1974年頃です。
それまですすめていた”俗神のシリーズ”が終わりに近づき新たな模索の中からカタチをとって現れ始めていたのが群衆でした。
『俗神』は、過去をフィードバックする方法論をとりながら、自分自身の深層を探ろうとした作業でしたが、『砂を数える』は、都市に土着してい く己の同時代的な状況を探ろうという意志からの作業です。
1977年に最初の個展「砂を数える」(新宿ミノルタ・フォトスペース)を開催。
この段階では、方法論的な確立が混濁していたので、そこから、さらに撮りすすめて1985年に第2回目の個展(銀座ニコンサロン)を開催。そ の後も、長々と終わりを見い出せられないままに継続していくことになりますが、終止を決断したのは1989年です。その年、昭和天皇の崩御。 皇居前に、地中から湧き現れ出してきたように見えた群衆。そして、もう一人の天才の死。美空ひばりの葬儀に青山斎場を幾十にも取り巻いた群衆の渦でした。これらの群れに浸りながら、一つの時代が終わったことを実感する自分がありました。
土田ヒロミ
(同展HPより転載)
◆去る8月20日亡くなられた宮脇愛子先生のエッセイ「私が出逢った作家たち」はコチラです
◆大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
●今日のお勧め作品は、秋葉シスイです。

「次の嵐を用意している」(8)
2014年
油彩、カンヴァス
97.0x145.5cm (P80号)
サインあり
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